Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「バロック美術」(宮下規久朗)

2023年12月05日 22時13分34秒 | 読書

   

 本日「バロック美術 西洋文化の爛熟」(宮下規久朗、中公新書)を読み終えた。いつものとおり私の記憶に残った引用から。

バロック美術は、動きが激しく、観者を巻き込むダイナミックで劇的な性格を持っていたが、17世紀にはそれと対極にあるような秩序や静けさを求める古典主義も開花した。(16世紀のマニエリスムを経て)バロックにいたって均衡を破るダイナミズムや楕円が好まれるようになった。古典主義の様式はバロックと相反するように見えるが、ともに写実主義から生まれ、同じように発展した。17世紀の古典主義はバロック的古典主義と呼ぶ・・。」(第6章)

秩序と均衡を重視する古典主義様式は、絶対王政の威厳を示すのに適していると思われた。絶対王政における王権も・・王権神授説を奉じたため、教皇と同じような権力装置を必要としたが、それは観者の感情に働きかけ、巻き込んで恍惚とさせるバロック的装置よりも、永遠に安定する平和な世界を印象づける古典朱熹的な装置のほうがよりふさわしかった・・。」(第6章)

芸術は個々の人間の創意を越えて、それ自身の意志があるかのように発展し変化して行く・・。バロックは人間の原初的な創造意欲の発露であり飛翔であるとしたが、美術表現が爛熟するにつれ、装飾過多なバロック的なもの傾倒していくのは自然である・・。」(第7章)

情報とバーチャルなイメージがあふれかえる現代ではかえって信仰の空間には質素で静謐な雰囲気を求める。しかし世界がもっと寡黙で不鮮明だったとき、聖堂には、声高なほどの雄弁さと幻惑的なほどの仕掛けが必要とされた‥。都市部よりも辺境のほうが装飾過多になり、表現が過剰になった。」(第7章)

チェコのバロックを論じた石川達夫氏は『チェコ人がチェコ・バロック文化を、それ以前の伝統的なチェコ・プロテスタント文化が暴力的に葬られた墓の上に咲き誇った外国種の妖しい花のようにみたのも不思議はなかった」と述べ、チェコ・バロックを「敗者のバロック」であると規定している。そのせいか、プラハは魅惑的なバロック都市だが、街には華やかさよりも哀愁が漂っている。」(第7章)

バロックの幻惑や絵空事は、18世紀の理性と啓蒙によって打ち消された。バロックを牽引し、それを世界中に伝播させたイエズス会は、教皇に忠実なあまり、各国の王権やナショナリズムと衝突するようになる。普遍的なキリスト教の共同体をめざすイエズス会やカトリック改革は近代化した国民国家の中央集権化と齟齬をきたすようになる。イエズス会は18世紀末に各地から追放され、解散する・・。カトリック改革によって生まれたバロックは、その推進母体であったイエズス会の誕生から終焉までとほぼ軌を同じくしている。」(おわりに)

バロック時代以前にもヘレニズム期やゴシック後期にはバロックのような技術の洗練と過剰な様式がみられた。日本でも、縄文土器、安土桃山時代の豪華絢爛な美術、幕末明治初期の過剰な美術工芸などバロック的な性格を看取することができよう。文化が爛熟して美意識が洗練され、美術への需要や競争力が高まり、それらが技術的な完成度と不スピつくとき、過剰なバロック様式が出現する・・・・。それは人間の創造の根源的な力をもっともよく体現するものといってよいだろう。」(おわりに)

 本書は教科書的な膨大な写真と画家の名が網羅されている。それを追って行くのはなかなかつらいものがある。作者の思考の核を抜き書きすることでようやく整理が出来て、私の頭の中の整理も少しだけ進んだ。
 第7章の「芸術自体の意志」、石川達夫の「チェコの敗者のバロック」は私の実感でもある。おわりに、のイエズス会との蜜月の指摘、文化の爛熟とバロック、は私の考えともおおむね一致していると思えた。



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