Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「万葉集の起源」 その3

2020年10月02日 22時14分27秒 | 読書

   

 第2章「対詠的恋歌と歌垣」を読み終える。この章で私が一番こだわって読んだのは有名な額田王と大海人皇子の贈答歌“あすねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(二巻二〇)”と“紫草のにほへる妹を憎くらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(ニ一)”をどのように解釈するのか、ということである。
  のちに「古代日本最大の内乱」とまで言われる「壬申の乱」となる天智と大海の対立から、憶測を含めていろいろ解釈される。私も高校の古文で読んで、その語調はいいのだが、どう解釈すべきなのか、判らなかった。今でもわからない。
 この書では、
天皇が主催する行幸や遊猟では、女性から一座の男たちに愛情を表明する歌が必要とされた。その場に集う男性官人たちに愛情を表明することが、君臣が和楽しているさまを演出することになったのである。上野理(おさむ)はこういう歌を「宴の女歌」と呼んでいる。この蒲生野での遊猟後の宴で、額田王には、君臣和楽を演出するような宴の女歌が求められた。彼女は、この蒲生野での宴がかつて歌垣のシチュエーションと似ていることに目をつける。そして歌垣の「人妻」をめぐる駆け引きの歌を基盤とする虚構の恋歌を念頭に、「野の番人が見るではありませんか」と、いかにもこの恋が禁忌の恋であることを匂わせつつ、それに構わずに愛情を告げる「君」への愛情を表明する。「君」は特定の誰かなのではなく、この宴に集う天皇以下の男性皇族、男性官人それぞれである。「困ります」といって愛情を表明し、このことによって君臣の和楽を演出しているのだ。これに応じてその場に集う男性を代表して大海人が、その禁忌の恋を歌垣における人妻との恋と意味づけて、その危険な恋に殉じようと歌う。天智後宮の女流歌人である額田王への愛情の表明もまた、この宴に集うた多くの女性皇族や女官それぞれへの愛情を表明しているのであるり、さらにはこういう君臣和楽の宴を主催する天智天皇とその御代を寿ぐ歌となるのである。この贈答は、‥儀礼歌と見てよいが、そこには歌垣の駆け引きの技術が継承されている。歌の上手が宮中に持ち込んだ歌垣歌は、こうして宴の歌となり、さらにはこうした宴の歌を見本としてたくさんの恋歌が作られていくのである。
と記述している。

 引用の初めの文章が前提となるのだが、この前提にも私は、疑問符がついてしまう。「君臣和楽」の在り様とその根拠がはっきりしない。後半に出てくる儀礼歌ということは理解が出来る。宴の歌への歌垣の歌が転化した、ということは分かるが、その経過・必然性について私はよく理解できない。むろん私の浅学故なのであるが‥。私の勉強不足はこれから解消するしかない。
 そうはいってもこれまでにない指摘であり、今迄よりも多少はこの贈答歌の在り様に近づいた気持ちになった。



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