もとは9月15日が「敬老の日」だったが、現在は9月第三月曜日になった。戦後の1951年、社会福祉協議会が9月15日を「としよりの日」とし、21日までの一週間を啓発週間とした。1963年、老人福祉法で「老人の日」「老人週間」となったとのこと。さらに1966年に「国民の祝日」となった。
9月15日の由来であるが、当初兵庫県野間谷村で敬老会が発足し、拡大したという。農事歴による農閑期であり、さらに元正天皇の「養老の滝」伝承に基づくという。旧暦の9月15日は現在の暦では10月下旬に当たる。
日本という国の祝日はどうしても天皇伝承と無縁になれないのが余りに悲しいと私は思う。
敬老の日の制定のころは、私も何となく覚えているが「押しつけがましい敬老など迷惑」という風潮が新聞の論調にもあった。「定着」ということなのか、次第にその論調は薄れ、あまり抵抗感なく使われているようだ。
それは「定着」というよりも、社会全体の高齢化、高齢者の「蔓延」とも重なっていると思う。「老人」の定義がどうなっているか、議論もされていない。いつも間にか医療制度で「後期高齢者」が75歳以上となり、老人とは75歳以上というのが流通している。
最近は老人自身が、自らの社会的存在意義、塊・層としての社会的影響力の大きさを踏まえ、社会保障やさまざまな社会の仕組みの中に自らの存在を主張し始めている。
「老人パワー」などとおだてられて、カツカツで青息吐息で働かされている高齢者の存在もまた注目してもらいたいもの。「敬老」ではなく、酷使されで使い捨てられてはたまったものではない。
★反逆す敬老の日を出歩きて 大川俊江
★老人の日といふ嫌な一日過ぐ 右城暮石
★老人の日や路高く蝗飛び 飯田龍太
敬老の日に対する違和感や、「老人」と言われても飛躍を目指す力を示そうという気持ちや、さまざまな句が歳時記に現れている。
私も「敬老パス」を手にし、杖を突いて、どのように70代を過ごそうか。模索の日々である。別に祝ってもらわなくて良い。自分なりに社会に声を出し続けたい。