Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

まだまだ続く杖突き歩行

2022年02月26日 21時46分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は休み休みだったが約8千歩、本日はあまり休まずに約7千歩歩いた。二日続けてこれだけ歩いたのは、11月以来初めて。
 さすがに右膝が少し痛い。最後団地の入口の会談約100段を上るときは、杖だけでなく、右手を右膝にあてて上った。無理はいけないので、家についてはすぐに湿布とサポーターのお世話になった。
 昨日ヒアルロン酸注射の2クルー目が終了。整形外科医からは、痛みが無くならないようなので、しばらく理学療法士のマッサージを続けてみてはどうか、といわれた。一週間に一度のマッサージとその間の温熱療法と電気の低周波療法を行うというもの。
 今のところ私には他に選択肢は持ち合わせがないので、医師の提案を受け入れでしばらく様子を見ることにした。
 やはり当分杖付き歩行と湿布は欠かせないようだ。すでに杖を突いた歩行は3か月を超えた。あと2か月は続けざるを得ないと思われる。半年も杖を突いて歩くということは、これまでになかったことである。
 平坦な道だけを歩くならば、調子の良いときは杖はいらないが、階段や道路の凹凸が多いところでは調子が良いときでもつらい。
 特に階段の下りがつらいが、50段にもなると上りもつらい。

 60代になった時にはまさか自分がこのようになるとは予想も出来なかった。


「万葉の歌びとたち」から柿本人麻呂論

2022年02月26日 20時32分04秒 | 読書

      

 本日の読書は「万葉の歌びとたち」(中西進)の柿本人麻呂論といえる第2章の「韜晦の歌聖――柿本人麻呂」、「梅原猛「柿本人麻呂論」と虚実」、「御用歌人ではなかった柿本人麻呂」の3編。
「万葉集にのせる歌から年代を推測すると、持統三年(689)がもっとも早く、文武四年(700)がもっとも新しい作で、この十年間に宮廷で作歌したことははっきりしている。」
「この時期とぴたりと重なって朝廷に第一の座を占めるのが丹比(たじひ、丹治比)島(しま)で、人麻呂は彼の庇護を受けて朝廷の人となり、彼の退場にともなって朝廷を後にしたと思われる。」「宮廷歌人と称される人にはつねにかかる高官がついて廻る傾向がある。奈良朝の山部赤人‥左大臣の長屋王が存在する。‥田辺福麻呂‥左大臣橘諸兄のもとにおいてである。」
「すぐれた歌とは、その場の大衆に広く、深く、激しい共感をおこさせるような歌であった。そのためには、迎合の気味もけっして否定すべきものではなかった。‥虚構の作をも歌い、架空の死者との離別や旅での訣別を歌うといったことをトネリとしての奉仕の中に行っていくことは、おのずからに自己をまぎれさせてしまうだろう。知らず知らずの韜晦が人麻呂にあったとしても、不思議ではない。正体のわからない人麻呂が、ますますその謎を深めることにもなった。」
「人麻呂を刑死せしめるような生涯のできごとが何かあった。伝説とはしばしば諷喩なのだから、刑に身を滅ぼしてゆかなければならない人麻呂の生涯の、激越な何物かがあった。実像とか生身とかは個別的な人間像をいうのだから、むしろ個人の暗さにこそ、白鳳朝廷の歌人人麻呂の真実のあり方があった‥。‥生前において自他を区別しない懐の深さは、死後における人麻呂世界の拡大となる。このスケールの大きさに準じて、人麻呂伝説は膨れ上がっていった。‥やがて歌聖に到達するのである。」(以上「韜晦の歌聖」)
「重要なものとは、近代以前の人々のもっていた、ある心性といつたものである。人麻呂がこのような生涯をもち、その果てにかかる死をあたえられた、そして死後の人々がそれをいかに考え、どのように行動したか、そういった事柄を通して見えて来る人々の心性こそ、梅原氏のもっとも訴えたかったものにちがいない。事実はそのために不可欠だが、すべてではない。」(梅原猛「柿本人麻呂論)」

 非業の死を遂げた人々の鎮魂のために怨霊思想が形作られる以前にも、聖徳太子、長屋王、橘諸兄‥本人や子孫が非業の死を遂げると鎮魂のためにさまざまな伝承が、それらの人々を伝説の中で祭り上げられ、神聖化・神格化させていく後代の人々の心性が語られている。これらの分析と解析を経て、薄紙を剝がしていっても「事実」は浮き上がっては来ない。浮き上がってくるのは、それらを伝説化する周囲や後代の人々の権力との距離、権力への批判なのであると私は思っている。


暖かい日差し

2022年02月26日 16時57分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

                        

  暖かい日差しに誘われて、近くの公園と緑道まで歩いた。暖かいが風が少し強め。いつものように妻は自転車で、私は杖突き歩行でまずは喫茶店で落ちあいサンドイッチの昼食。昼食後また別行動で妻は買い物、私は公園と緑道まで。私はバスを利用せず往復ともゆっくりと歩いた。
 不思議なことに帰宅時間はほぼ同時。これが43年半経つということなのだろう。

 公園ではサクラの並木をつぶさに見て回ったが、ソメイヨシノの花芽はまだ固い。スマホのカメラでは小さなものにピントが合わない。一眼レフを持ち歩くには、面倒であった。しかしそろそろ杖を突いても一眼レフを持ち歩きたいものである。ものぐさはいけないと反省。

 緑道ではまだ冬の様相。水仙が寂しげ。しかしナンテンの赤い実が少しずつ皺が見え始め、黒ずみ始めてきた。またジンチョウゲの花芽もだいぶ膨らんできた。サクラの花芽よりは春の様相といったところであった。