昨日ふと有隣堂で「倚りかからず」(茨木のり子、ちくま文庫)を購入した。茨木のり子の詩は好き嫌いは極端だと思う。想いがストレートに前面に出てくるので、鼻につく表現や作品も多いと思う。政治的な言語が強すぎるという批判ももっともであると肯定したくなることもある。イメージの飛翔や転換があまり見られないのは寂しい。
一方でツボにはまるとなかなか味のある作品に仕上がっていると思う。
「倚りかからず」は1999年の詩集である。解説が山根基世というのも私には意外だった。18編の詩、平易な言葉が続く詩集である。
‥(略)‥
ボトンと落ちた種子が
〈いいところだな 湖がみえる〉
しばらくここに滞在しよう
小さな苗木となって
根をおろす
元の木がそうであったように
分身の木もまた夢みはじめる
旅立つ日のことを
幹に手をあてれば
痛いほどにわかる
木がいかに旅好きか
放浪ほのあこがれ
漂白へのおもいに
いかに身を捩っているのかが
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
苦しみの日々 哀しみの日々
苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけれど
‥(略)
苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである。
受けとめるしかない
折々の小さな棘や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要は皆無なのだから
行方不明の時間
人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです
三十分であれ 一時間であれ
ボワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ
‥(略)‥
私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです
目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束事もすべては
チャラよ
4編ほどを引用してみた。最後の「行方不明の時間」を私は気に入っている。「倚りかからず」では最後の3行だけはいい。
あえて言わせてもらえるならば、「倚りかからず」は1970年はじめまでに発表になっていないのが、私には不思議だと思われた。
ただし山根基世は解説で「「倚りかからず」が「生った」のが1999年、茨木さん73歳の時のこと。談合、癒着、贈賄、収賄、馴れあいの世の中でこの詩は、かくありたいと読者の共感を呼び15万部のベストセラーになった。現代詩には異例のことだが、決して偶然ではなかかったのだ」と詩の背景を伝えている。