明日のは午前中は団地の中で作業を予定をしているが、雨がひどいらしい。中止の可能性もある。降水確率は80%と高い。午後には眼鏡が出来ているので、受取に出かける予定。午後の降水確率も50%と高いが早めに受け取りたい。本当は人の多い横浜駅はとりあえず避けたいとはいえ、眼鏡はどうしても必要である。
さて素人の私の感想は結果論に聞こえるかもしれないが、水際対策と称してクルーズ船対応に終始してきた日本の新型肺炎の対応は何処がおかしかったのか、早急な検証が必要ではないか。またつい先日対策会議に専門家会議を設けたというが、あまりに遅すぎたのではないか。
まず外国人は、検査で陰性の人はどんどん下船させ、空路を利用し、帰国の途につかせるべきだったのではないか。米国については関東周辺の基地から空路での帰国も可能であったはずだ。症状のある人は隔離病棟へ受け入れたり、病院船の活用も必要であった。船内に感染症対応の医療スタッフを常駐させる必要もあった。検査をスムーズに実施をすれば、船の乗員は最低限に減らし、病院船としての対応も必要であったのではないか。諸外国の政府が、日本政府に厳しいのは、このような苛立ちを各国が持っているからではないのだろうか。
また当初の政府の説明では検査薬の数が少なかったとのことであったが、報道によると民間の対応を求めると検査薬は大量に整えられたと言われている。これも検証が必要であろうが、政府の対応に疑問が出ていることは確かである。
私は現政権の災害も含め、危機管理対応におおいに疑問と批判、不信感を持っている。
「ハマスホイとデンマーク絵画」展の会場は、
1.日常礼賛――デンマーク絵画の黄金期
2.スケーイン派と北欧の光
3.19世紀末のデンマーク絵画――国際化と室内画の隆盛
4.ヴィルヘルム・ハマスホイ――首都の静寂の中で
という4つの部屋に分かれている。
1.は19世紀以降、デンマークが近代国家として出発する過程で、市民階級の勃興とともに近代絵画が確立していく黎明期を扱っている。ちょうど日本が19世紀の半ば以降その近代化の歩みを本格化させるのと時代的には少しばかり先行はしているが、ほぼ同じ時期である。
日本と同様に、国家の成立と近代絵画の歩みが同一であったようだ。その時期の絵画ではくレステン・クプゲという画家の作品に惹かれるものがあった。いづれもしずかな風景画であるが、構図的にもいろいろな試みをしているように思えた。
この1934~35年の作品である「フレズレクスポー城の棟――湖と町、森を望む風景」は空が3分の2を占めている。手前の城の景に焦点が合い、太陽の光を反射して硬質な質感が美しい。中・遠景は輪郭がぼやけているが、描きたかったのはこの田園風景らしい。そしてオランダ絵画を思わせる広い空は丁寧に塗られている。実際のイメージどおりにはスキャナーは応えてくれないようで、遠近感や筆致が表現できないもどかしさがあった。オランダがカルヴィン派、デンマークはルター派のプロテスタントであるらしいが、オランダ絵画の影響もあるのだろうか。
次のコーナーのスケーイン派というのははじめて聞いた。このコーナーは興味を惹く作品が多かった。
図録には「画家たちは、独特の厳しい自然環境と、繰り広げられる漁師たちの日々の労働に魅せられた。・・国際的な芸術家コロニーが形成され、・・スケーイン特有の光の描写と芸術家たち相互の交流へと移っていく。・・フランス印象派をはじめとする外国の影響を取り入れた画面には、大胆な筆致で明るい絵具が重ねられた。画家たちは理論的、美学的裏付けを印象派と共有していたわけではないが、保守的なコペンハーゲンの画壇にとって、彼らの作品は革新的なものであり、人々の目には、新しい時代の幕開けを告げるものとして映った。」と紹介されている。
中でも私が一番惹かれたのは、「戸口で縫物をする少女」(アナ・アンガ、1879-84、スケ-イン美術館)。構図的には左上の明るい窓からの光、青い服、白い編み物の先に画像では見にくいが実物ではもう少し鮮明な緑の草という左から右下への直線的な流れと、スカートの裾の赤の円が安定感をもたらしている。それために実際よりは腰から膝までの脚を長めに描いて、スカートの茶色のボリュームを増している。これに右上の青白い窓枠と白い地面がバランスを取って配置されている。私でもわかる色彩の配置に基づく構図が落ち着いた感じを出している。フェルメールの作品のようでもあり、セザンヌの晩年の作品を先取りしているのかと錯覚したりもした。静かな時間が愛おしい作品である。
次に私の目を惹いたのがヴィゴ・ヨハンスンの「海辺の網干し場」(1876、スケ-イン美術館)。日本の昔の漁村風景と酷似していると思うと同時に、構図としても親近感が湧いた。また多くの画家が労働に携わる人間を描いているのに比べ、人の影はない。しかし、うまく説明が出来ないのだけれど、人の生業(なりわい)の「匂い」が強く伝わってくる。あまりに感覚的すぎる感想であるが、風景を人間とのかかわりでとらえている、と感じた。
たとえば子どもや猫やカラスをこの作品のどこかに描きこんでいたらどうだろう。いろいろと工夫しても実につまらない絵になる。それらがなくとも充分に人の匂いが漂ってくるのである。風景が生きている、というのはこういうことなのだろうか。
こちらの作品は、ミケール・アンガの「ボートを漕ぎ出す漁師たち」(1881、スケ-イン美術館)。ソヴィエト・ロシア成立前後の一時期の作品を思い出させてくれるような作品に思えた。劇的な効果を狙ったロマン主義的な作品である。しかし人びとの動きが手前の二人の人物(黄色と青の上着)の造形以外は静的で、どこかちぐはぐを感じる。
この作品の解説では「西洋の伝統では、文章と同じように絵画も左から右に見るのが一般的であった。ここでは通常と反対の流れを生み出すことで、事態の厳しさと、それに挑む漁師たちの英雄性が強められている」と記されている。
実は他の作品も含めて、この傾向は著しい。特に室内の光がフェルメールのように左から右に差す作品よりも、右から左に差している作品など、右から左への指向性をもつ作品が多いことが印象に残った。
この作品はピーザ・スィヴェリーン・クロイアの「漁網を繕うクリストファ」(1886、スケ-イン美術館)。こちらも人物は左向きで、光は右から左へ流れている。見る人の視線を右から左へ誘導している。
まず煙草の煙が青く塗られ目につく。この煙の漂いかたと色合いが私の目に焼き付いた。
窓枠の下の緑の植物、赤いマフラー、青い煙草の煙、白い漁網が連なっている。画面の中央を右上の明るい窓からの陽射しがさしている。漁網の白と白っぽい両手が斜めに右から下に円弧になってその陽射しを受けている。どちらも左から右に横に視線が動いている。
さらに頭から膝までの半円形と、漁網から手への円弧、背中の円弧などいくつかの丸い曲線の交差も美しい。
こちらもずいぶんと計算された構図と色彩配置である。労働が祈りにも似た静謐な時間である。
この作品は同じクロイアの「スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア」(1893、ヒアシュブロングコレクション)。手前に大きく描かれた砂浜と足跡がまず印象的。同時に波打ち際のカーフが左から右に張り出してから左へまがり、水平線と合体するする曲線が広々とした風景を強調している。白い人物像が実に巧みな位置に配されている。
一方で私は同時期に描かれたノルウェーの画家ムンクの「メランコリー/黄色いボート」(1892)を思い出した。海の描き方と海の青が似ている。ひょっとしてムンクの作品には描かれているメランコリーな人物は、省略されたのかもしれない。
静かで長閑な海辺の作品にも拘わらず、どこかで近代的な自己の葛藤が隠れているように感じられた。
その3へ
23日(日)にバルセロナ展を見に行く。中村宏美氏の解説付きの鑑賞会である。それまでにスペインの近代史、カタロニアの歴史などを概略でも頭の中で整理しておきたいと思い、急ぎで手に入りやすいものをいくつか用意した。
・「情熱でたどるスペイン史」(池上俊一、岩波ジュニア新書)
・「物語スペイン史 海洋帝国の黄金時代」(岩根圀和、中公新書)
・「物語カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 増補版」(田澤耕、中公新書)
「ゴヤⅣ」も関連するのだが、取りあえずこちらのほうを優先。
ただし拡大鏡がないと読み切れないので、苦労している。明日16日には新しい眼鏡が出来るので、それまでの我慢である。ほとんど拾い読みのように読んでいる。
本当は、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」を再読したいと思っているが、1970年頃に古書店で購入した本は10年以上前に古書店に売ってしまった。たしか筑摩書房版だったと思うが、記憶はあいまい。
現在はちくま学芸文庫と岩波文庫に収録されているが、品切れらしい。古書店を探すか、図書館で借りるかしなくてはいけない。そこまでの時間がない。
この「カタロニア賛歌」はスペイン内戦時の人民戦線内のスターリン主義・コミンテルン指導の愚かさを描いて多くの読者を得ていた。最初に記載しておきたかったが‥。