私のブログにリンクをはらせてもらっているブログ「言葉の泉」に「ちんどん屋が街を練り歩いていた日々」というエッセイが掲載されている。【⇒
http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/f3f3d6e10df50edb4a738e1019bd64aa#comment-list】
その中に「あのすえた臭いのする時代」という表現があり、とても気に入った。そして私の小学生の頃の思い出がそのフレーズと共に蘇ってきた。
早速コメント欄に以下のように投稿させてもらった。
小学校の低学年の時には、函館に住んでいました。学校にあまり登校しない子の家に遊びに行ったとき、玄関を開けると6畳ほどの畳の部屋と台所がありました。やはり畳がペコペコで湿気ていてびっくりしたことがあります。便所は外にあり、暗くて怖くて入れませんでした。外で遊びましたが、それ以上の記憶はありません。下着を穿かない子も幾人もいました。
「すえた臭いのする時代」、なかなか鋭い表現ですね。そのとおりだと思います。
函館には函館の港町のすえた臭いがしました。その後川崎に移ると、それこそ工業地帯の排気ガスとも工場の煙ともいえる臭いと、廃品を満載したリヤカーを曳く男の人の汗の浸み込んだナッパ服の臭いがしました。
子ども心に函館と川崎、まったく別の臭いだと感じました。
子どもというのは臭いに敏感だと思う。この歳になって私はいわゆる「いい匂い」といわれる花や食べ物などの匂いにかなり鈍感である。それは残念ながら進行しているようだ。鼻を梅の花にくっつけるようにしてもかすかにしかにおわない。昔は傍の匂いがわかったが、今では鼻に蕎麦がつくくらいにしないと匂いを感じない。
しかし悪臭にはかなり敏感である。鼻の粘膜にあるにおいを感知する細胞が反応する閾値が高いのか、あるいは脳内でにおいに対する感覚に異常をきたしているか、どちらかだと思うが日常生活にあまり影響がないので放置している。
さて1950年代後半の函館での体験に付け加えるとすると、冬の日の朝に取れたての烏賊を売りに来るリヤカーのにおい、そして青函連絡船の発着する埠頭のにおい。
前者は魚の「生臭い」といわれる臭いに近かった。繁華街に行っても魚屋のにおいがいつも漂っていたように感じた。後者も青函連絡船の煙突から出る石炭のにおいとともに魚のにおいが混じって不思議なにおいであった。
函館を離れるとともに、そのにおいの記憶がさまざまな記憶を引き出すトリガーのような役割を果たしてくれた。いまでは生々しくはそのにおいを思い出すことは出来ないが、匂いなのか臭いなのか、曖昧模糊として遠くの懐かしい感覚となっている。
1960年頃に川崎に来た時に感じたのは、函館とは違って魚のにおいがしないことだった。取れたての烏賊を売りに来ることなどなかった。そのかわりいつも工場の高い煙突からでる煙が私の住んでいる地域の方に流れると決まって咽るような臭いがした。石炭や石油を燃焼させるときの臭いだと教わったが、函館から川崎に来るときに乗車した蒸気機関車の石炭の匂いともまた違った嫌な臭いであった。
通っている小学校の周囲を良く廃品を山のようにつんだリヤカーを牽く男の人が通った。同じ人ではないが、帰り路によくそばを通った。そのときに着ているよれよれのナッパ服から発散される汗と油汚れの混じった臭いがした。どの臭い似ていた。
私の川崎の匂いはこの煙突と汗に撒見せた服の臭いである。今から思うと、川崎で嗅いだ臭いには印象はよくない。それはたった2年に満たないが、決していい印象がなかった川崎での小学校の体験と混ざり合っているせいでもある。
小学校の最後の1年半は横浜の郊外ですごした。人口急増で小学校の建設が追い付かず電車通学を余儀なくされ、給食室もなく弁当であった。ここでのにおいの記憶はもう何もない。
中学にはいると万年筆のインクの匂いは記憶にあるが、それもペギー葉山のうたう「学生時代」という歌の歌詞の影響で記憶されているだけで、私のにおいに関する記憶は欠落している、といった方が正しい。
その後のにおいの記憶は、大学生時代に三里塚と、渋谷や明治公園などで撃たれた催涙弾のにおいの中を必死で駆け回った記憶とともにある。ガスと粉末、微妙にちがう。ガスの催涙ガスはすぐに上空に拡散するのであまり効き目はない。このような時は捕まることはすくないといわれたことがある。粉末の時は体にかかるとなかなか涙も鼻への刺激も取れないし、しつこい。この粉末が放たれた時、しかも水平撃ちの時は、機動隊も本気で捕まえに来るから気をつけろ、と教わった。そしてこの催涙弾のにおいとヘルメットの紐についた汗の臭いは、多分電車の中ではかなり漂っていたと思う。
私の20代初めはこの催涙弾の臭いと共にあった。催涙弾のにおいがたっぷりと浸み込んだ服で、夜中から有楽町のガード下で安く飲み明かし、翌日にも集会やデモに再び出て、24時近くの夜行列車で仙台にもどり、そのまま疲れ切って煎餅布団に寝た。布団にも催涙ガスのにおいが滲みていた。
就職後も数年はそのような体験とは無縁ではなかったが、時代に追い越されたのかもしれない。そうして一切のにおいの記憶は消え去った。あるのは食べ物から感じる微かな香りだけである。
魚のにおいもどこかで生臭く腐った臭いも含んでいる。腐りかけた畳の臭い、工場の煙突の臭い、作業服の汗まみれの臭い、催涙ガスと汗の臭い、いづれも「すえた臭い」という表現が似合うにおいである。
私が今現在、「いい香り」を感じないのは、こんな体験が下地となっているのだろうか。そうするとこれは心的な要因によるのかもしれない。
同時に私はこの「すえたにおいのする時代」の方がどこかで人間のにおいのする生き生きとした時代と感じる。
無味無臭、あるいは微かな芳香で蓋をされてしまった生活や都会は、どこかで何かを失った慣れ果てなのかもしれない。「すえたにおい」が消えるとともに私の生気も失われてしまった。