ビデオに収録していた、「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産 ~スターリン弾圧を生き延びた名画~」を見た。思ったより長い番組であった。国家と芸術、政治と芸術という私が学生のころ盛んにこだわった内容が、スターリン体制下の芸術に対する過酷な弾圧・政治による支配として語られている。
日本でもあの戦争になだれ込む時期は左翼弾圧という名目で、モダニズムも含めてすべて「戦争遂行のため」という形で統制・弾圧された。ソビエトロシア時代の「労働者農民のため」という口実と同じだ。それはナチスドイツ時代も同じであった。アメリカのマッカーシズムも同じではないか。今でもそのような国家統制が当然とおこなわれている国もある。日本も、ロシアも、アメリカも同じ国家水準であったということだという教わり方もした。
ロシアアバンギャルドについては1917年の革命で一挙に花開いたといわれている。とても豊かな表現が内包されていたといわれている。今回でも奇跡的に残されたいくつもの作品は確かに心をうつものがいくつもあった。
同時に、その旧体制で逼塞していた新しい芸術は政治的な革命と同時に誕生したという出生ゆえに、政治に対しての距離の取り方が甘かったとも言える。それは番組の中でも指摘されていたが、彼らが「旧体制のツァーリズム、貴族文化」を政治権力が物理的に破壊することに無自覚に手を差し伸べていたということが示唆されていた。歴史の皮肉として、彼らは政治に対して無防備で無自覚であったと指摘されるほどの無垢であったのかもしれない。そしていつの間にか今度はスターリン体制という権力に、利用され、弾圧され、葬られてきた。
しかし今の日本は、あるいは世界の大勢は芸術に対して、文化に対して寛容であり、統制はせずに手厚い保護をしているであろうか。ウズベキスタンの美術館が「国立」という名は冠していても、財政的援助はほとんど得られず、訪れる人も少ない中で独立採算制を強要されている。ソビエト崩壊は芸術の解放の反面、新たな文化の受難でもあった。
翻って日本でも、独立採算のもと美術館をはじめ文化施設は極めて厳しい時代を迎えている。国家や行政が文化や芸術にどのようにかかわるのか、戦後始まった政治と芸術・文化の関わりあいについての根本を問う問題提起は1970年代の初めまでは熱い議論がされていた。今はそのような議論は見当たらない。あるのは「財政的効率」論ばかりになっていないだろうか。
私自身もそんな問題提起をすっかり忘れている。この番組はそのことを思い出させてくれた。
日本でもあの戦争になだれ込む時期は左翼弾圧という名目で、モダニズムも含めてすべて「戦争遂行のため」という形で統制・弾圧された。ソビエトロシア時代の「労働者農民のため」という口実と同じだ。それはナチスドイツ時代も同じであった。アメリカのマッカーシズムも同じではないか。今でもそのような国家統制が当然とおこなわれている国もある。日本も、ロシアも、アメリカも同じ国家水準であったということだという教わり方もした。
ロシアアバンギャルドについては1917年の革命で一挙に花開いたといわれている。とても豊かな表現が内包されていたといわれている。今回でも奇跡的に残されたいくつもの作品は確かに心をうつものがいくつもあった。
同時に、その旧体制で逼塞していた新しい芸術は政治的な革命と同時に誕生したという出生ゆえに、政治に対しての距離の取り方が甘かったとも言える。それは番組の中でも指摘されていたが、彼らが「旧体制のツァーリズム、貴族文化」を政治権力が物理的に破壊することに無自覚に手を差し伸べていたということが示唆されていた。歴史の皮肉として、彼らは政治に対して無防備で無自覚であったと指摘されるほどの無垢であったのかもしれない。そしていつの間にか今度はスターリン体制という権力に、利用され、弾圧され、葬られてきた。
しかし今の日本は、あるいは世界の大勢は芸術に対して、文化に対して寛容であり、統制はせずに手厚い保護をしているであろうか。ウズベキスタンの美術館が「国立」という名は冠していても、財政的援助はほとんど得られず、訪れる人も少ない中で独立採算制を強要されている。ソビエト崩壊は芸術の解放の反面、新たな文化の受難でもあった。
翻って日本でも、独立採算のもと美術館をはじめ文化施設は極めて厳しい時代を迎えている。国家や行政が文化や芸術にどのようにかかわるのか、戦後始まった政治と芸術・文化の関わりあいについての根本を問う問題提起は1970年代の初めまでは熱い議論がされていた。今はそのような議論は見当たらない。あるのは「財政的効率」論ばかりになっていないだろうか。
私自身もそんな問題提起をすっかり忘れている。この番組はそのことを思い出させてくれた。