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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「魔女狩りのヨーロッパ史」 第5章

2024年05月14日 22時12分24秒 | 読書

 本日読んだのは「魔女狩りのヨーロッパ史」の第5章「サバトとは何か」。サバト(悪魔を中心とする魔女集会)がどのように「裁判」をとおして述べられているか、どのような形体であったかを明らかにしている章である。

あべこべのミサが行われるが、それはカトリック教会の典礼・儀式を嘲笑するパロディとなっている。
魔女の知識が一般に広まるにはいくつものルートがあり、そのひとつとして出版文化がある。魔女文学をもとにした図像が、知識普及に貢献した。混じ観連テーマにまず先鞭をつけたのは、南ドイツとスイスの画家・版画家であった。すなわちアルブレヒト・デューラー、・・・、ついで16世紀のネーデルラントにも同テーマが広がったが、ピーテル・ブリューゲル(父)・・などがいた。
画家たちが盛んに描いた魔女とサバト、必ずしも彼らが魔女の妖術やサバトを心底信じていたことを意味しまい。彼らは「想像力」の問題に並々ならぬ興味を覚えて、それを画家としていかに操るかを試すのに恰好のチャンスだと信じて、画題としての魔女・サバトに食指が動いたのではないかだろうか。

 デューラーやブリューゲルの作品を見るとき、よくわからない作品が多数ある。この「悪魔」「魔女」という視点から、作品を見たいと思う。
 


「魔女狩りのヨーロッパ史」第4章

2024年05月11日 18時45分30秒 | 読書

   

 本日は横浜駅近くのいつもの喫茶店で「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波文庫)の第4章「魔女を作り上げた人々」を読み終わった。

魔女狩りの最盛期は16世紀後半から17世紀半ばである。主要な悪魔学書が出版されるのも16世紀からである。正確には近世ないし近代諸島の出来事なのだ。しかしそれで中世が免責されるわけではない。なぜなら中世においても、魔女を仕立て上げる心的装置が着々とつくられていたからである。13世紀後半から14世紀前半にかけて、魔女狩りを正当化するイデオロギー的な基盤を作った神学的・教会法的な趨勢があったとされている。

ヨーロッパに限らず、ほとんど世界じゅうの前近代社会において、日常の困難や危機回避のために呪術にすがる慣行は遍く広がっていた。

初期中世に悪魔の幻惑・妄想=異教的迷信と位置づけられて反転して、現実に起きている悪行と見なされる必要があった。悪魔が神から独立した悪行能力を手に入れ、人間界において物理的・身体的に現存して行動するとの考えが登場したからこそ、魔女と悪魔の物理的・肉体的交渉が可能になった。同時に魔女が「自由意志」で悪魔と契約を結ぶ主体となり、悪の力の行使者としての責任を負い裁かれねばならない、という考え方への転換もあった。

悪魔学者の著作中に描かれる組織化された構造物、サタンと属僚たちの階梯によって秩序立てられた「悪の王国」のヴィジョンが、集権的なキリスト教共同体や国家の実現を図る聖俗権力の伸長に力を貸すものとなっている。

 大筋では了解しつつも、まだどこか飲み込めないところがある。それがまだ言葉にならない。

 


「魔女狩りのヨーロッパ史」読書再開

2024年05月10日 22時15分26秒 | 読書

   

 風邪をこじらせてしまい、読書の気力が無くなりかけていたがようやく読みかけの「魔女狩りのヨーロッパ史」の読書を再開した。

 桜木町から横浜駅に到着し、休憩がてら入った喫茶店で目をとおした。第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」まではすでに読み終わっていた。本日は第3章「ヴォージュ山地のある村で」を読み終わった。
 この章は具体的に「魔女」として処刑された事例の紹介。なかなか無残な例なので読み進むのが少し苦痛なこともあったが、とりあえず読了。

根強い噂・悪評から裁判が始まるのは、前章で触れたように、ごく普通のことだった。だが、こうした魔女とその妖術の噂の広まり自体が、社会の分断・機能障害を表している上に、森に囲まれ孤立した山岳地帯のように不十分な農地しかなく、加えて自然環境の悪化と経済条件の変化に見舞われて生活が苦しくなった場所では、隣人への疑心暗鬼はいよいよ深く浸透していった。そこに司法権力が介入することで、社会の機能障害はますます激化し、裁判が進むにつれて、その抑圧システムが恐怖と不安に震える人々の精神に異変を起こさせ、共同体の団結統合はガタガタと崩れていった。
裁判は隣人どうしの不和・憎悪、暴力と復讐への欲求を養分にしながら進められるが、それを裁判によって昇華させることなく、むしろ奨励し煽りたて増幅させて、自分たちのコントロール下に具体的な形を与えようとしたのである。


読了「図書5月号」

2024年05月09日 19時59分14秒 | 読書

 地下鉄センター南駅で所用を済ませてから、近くの喫茶店へ。しばらくのんびりとコーヒータイム。
 本日読んだのは「図書5月号」の2編。これで今月号は読了。

・文化人類学者アントワーヌ・ガラン    西尾哲夫
このような比較の視点は、フランス文化の優位性を指摘するためではない。トルコやイスラームの文化の背景にある合理性へと考えをめぐらせることで、ガランは自らの文化を省みようともしているのである。

・宗教からナショナリズムへ ベネディクト・アンダーソン著「想像の共同体」
                    前田健太郎
日本の政治学における西洋中心主義をいかに脱却するかを考えることだった。「想像の共同体」はヒントを与えてくれる。アンダーソンは政治学における西洋中心主義を最も痛烈に批判し、非西洋地域にも目を向けることを提言し、それを実践した研究者だった。理論は西欧由来であるとしても西洋人の偏りを自覚し、意識的に乗り越えようという態度には学ばされることが多い。日本の多くの政治学者にとって馴染みのない地域とはどこか。それが、東アジアであり、日本だったのではないか。中国や朝鮮半島において、第二次世界大戦以前の日本において、どのような政治が行われ、いかなる思想が展開されてきたのか。・・こうした問いを自らの課題としては意識してこなかった。

 


「図書5月号」 その2

2024年05月08日 20時28分09秒 | 読書

 本日は親の通院の付き添いののち、横浜駅近くのいつもの喫茶店で「図書5月号」に目をとおすことが出来た。

・すべて成り行き任せ     木村榮一

・北方謙三さんとの邂逅    山田裕樹

・正平さんのベクトル     川端知嘉子

・「俺のネイションってなんだ?」 前沢浩子
この時代にあって(1470年代)劇場は貴族から大衆まで社会階層を横断して文化を共有できる重要な公共空間だった。1530年代のヘンリー八世のローマ・カトリックからの波紋と国教会の発足は、ヨーロッパからのイングランドの分離独立だ。いわば16世紀版の「EU離脱」だ。このころから、イングランドでは自国史への興味が高まり、歴史書が次々に綴られる。シェイクスピアはこの歴史劇ブーム乗って任期を得た戯作者だった。
「ヘンリー五世」と同時代の数々の歴史劇は16世紀末のロンドンの大衆劇場で確かにナショナルな意識が醸成されていたことの証左として読める。その意識は決して単純な祖国愛というようなものにはとどまらず、ネイションという言葉にまつわる語義の揺れや曖昧さをも反映して、今日のナショナリズムをめぐる議論の複雑さを先取りしている。ナショナルな意識の複雑な多面性は、「国家」という単位を強調する歴史劇だけに現れるわけではない。日々の営みの集積としての社会はどのような形を取り、それがどうように変化しているか。社会への帰属意識は、国家としてのアイデンティティ構築に大きく関与する。
 


「図書5月号」 その1

2024年05月06日 20時46分12秒 | 読書

 一応読書する気力が戻って来たような気がしている。喫茶店で短時間であるが「図書5月号」に目をとおした。
 これまでに目をとおしたのは、7編。
・【表紙】沢潟威鎧雛形 平安時代     加藤静允

・非ソシュール的言語学         今野真二

・戦時下の詩人 スリヴィンスキー氏との対話  沼野恭子
ふたたび「闇」の時代に突入してしまった現在、いったいいつになったら戦争が終わってすべてが元どおりになり、「言語を取り戻す」ことができるのかけんとうもつかない。・・(「戦争語彙集」の)見出し語として選ばれたキーワードの多くが命をつなぐものであり、市の対極にある〈愛〉であり、死を避けるための〈お祈り〉であることは、一条の希望のように思える。極度の緊張と絶望を強いられた瞬間に、人々の命を「生」の側に引き留めた事物であり、死に対峙する強度をもつ言葉ではないだろうか。

・合巻は転生する            佐藤至子

・誕生会、偶然居合わせる、言葉の音   長島有理枝

・路上より(上)              柳 広司
ウクライナに侵攻した際のロシアでさえ、国際社会に対して(受け入れられるか否かは別にして)、我々の軍事行動にはこれこれこういう理由があると弁明した。イスラエルは「国際社会は関係ない。自分たちはやりたいことをやる。実力あるのみだ」と宣言した。こんな言い分を認めたら、世界中で戦争が始まる。人類が築き上げてきた国際秩序の破綻、文明の終わりだ。

・知られざる子規俳句の一面       復本一郎
「写生」俳句に熱中していた子規ではあったが、同時期、一方では「本歌取」「本説取」に挑戦していたことが窺えたであろう。こんな子規の存在も忘れてはなるまい。

 


読了「湘南幻想美術館」

2024年05月02日 23時00分36秒 | 読書

      

 「湘南幻想美術館」(太田治子、かまくら春秋社)を読み終えた。夕食後少し楽になったので、読んでいたら、いつの間にか、最後の頁になっていた。
 読み物として、絵画作品を見ながらこれだけの掌編を思い浮かべることができるは、うらやましいものでもある。
 ちょっと横に逸れると怖い挿話もある。私などはこれほどの物語は到底つむげないし、絵画作品を描いた画家からすれば、思いがけない物語を紡がれたと口を尖らすかもしれない。それでも病後の私に、楽しい時間を提供してもらった。



 今回久しぶりにギュスターヴ・モローの《岩の上の女神》に接することが出来た。物語を紡ぐというより、このような女神・女性が描かれる文化的な解釈に惹かれる。しかしそれは私の能力を超えている。


「魔女狩りのヨーロッパ史」 その2

2024年04月25日 22時15分59秒 | 読書

     

 フラワー緑道を歩いてから、横浜駅でいつもとは違う喫茶店に入り、「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波書店)に目をとおし、第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」を読み終えた。

全体として8割程度が女性であった。他のヨーロッパの地域でもほとんどの魔女が50歳を超えていた。魔女というのは当時の寿命から考えれば最高齢の年齢階梯に属する人たちであった。魔女狩りとは、フェミニズムの立場からは、「男性の女性に対する、とりわけ老女に対する犯罪」であろう。」(第1章「魔女の定義と時間的・空間的広がり」)

ヨーロッパの古代から近代に至る反女権主義がもっとも燃え上がったのが、近世の魔女狩りの時節であった。・・・魔女狩りをする者(男たち)は一方で女性をなべて呪いつつ、他方では、母性機能を失った老女を選び出して(若い女性は免除して)血祭りに上げるという選別をしていた。反女権的イデオロギーは、近世的な神聖なる国家建設、都市形成とも絡んでいた。当時の聖俗スリーとらは父権制をモデルとする体制をつくろうとしていた。立派な家長が治める「聖なる家庭」だ。その方針に反抗すると見なされた女性が、一種の儀礼的な暴力で祓われるのが魔女狩りであろう。」(第1章「魔女の定義と時間的・空間的広がり」)

共同体の中で魔女が仕立て上げられる最初のきっかけは「噂」である。12世紀以降のヨーロッパの裁判実践において、噂は至極重要な扱いを受けた。多人数による裏付けのある噂だと予審のきっかけとなり、「証拠」として採用される。一人の人間の社会や集団内での受け入れられ方=評判が、罪のあるなしを予め決めたのであり、当時犯罪とは「噂」に表出する社会的結合関係の鏡と見なされたのである。」(第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」)

 父権性社会の成立過程で魔女狩りが行われた、という所論は少し性急な議論にも思える。疑問符を付けながら、先へ読み進めたいと思った。


「湘南幻想美術館」 その1

2024年04月21日 20時36分00秒 | 読書

   

 いつもの喫茶店で45分ほどのコーヒータイム。持参した本は「湘南幻想美術館 湘南の名画から紡ぐストーリー」(太田治子、かまくら春秋社)。月刊「かまくら春秋」に2016年4月号から2019年10月号に掲載された42の絵画作品につけられた42編のストーリーである。前回の「幻想美術館」の前編に当たる。
 疲れた身体と頭には、ちょうど良い癒しを与えてくれる。読んだのは、初めから7編と22編目の「祖父の山高帽 ルネ・マグリット「王様の美術館」」の合せて8編。
 前回読んだ「幻想美術館」より少しばかりドキッとするような話もある。大人の絵本という具合になっている。



 「最後の裸婦 原精一《桃色の女》」という作品は、絵画作品もストーリーも気に入った。
 特に絵画作品はいい作品に思えた。作品自体に記憶にはない。平塚市美術館蔵と云うことである。幾度か展示を見に行っているが、記憶にない。色彩、デフォルメの仕方、挑発的な視線や姿態・・惹かれるものがある。1985年制作というから、75歳の作品である。私にこんな生気ある作品が描けるであろうか。
 ネットで調べたら国立近代美術館に《H僧正》(1960年)という収蔵作品があるという。こちらもなかなか惹かれる作品であった。
 画家は1908年生まれ。萬鉄五郎と師弟関係という。


「魔女狩りのヨーロッパ史」 その1

2024年04月16日 19時45分32秒 | 読書

   

 横浜駅近くのいつもの喫茶店に入り、久しぶりに「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一)に目をとおした。「はじめに」と第1章「魔女の定義と時間的・空間的広がり」を読み終え、第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」に入ったところで時間も遅くなり、喫茶店を出た。

“魔女”は古代から減退まで、ヨーロッパだけでなくアジアにもアフリカにもアメリカ大陸にもずっといたし今でもいる、というように人類学的に広く捉えることもできよう。(この書では)少し狭く捉えて、「魔女」というのは、キリスト教的ヨーロッパにおいて、15世紀から18世紀に「魔女狩り」の対象となった人たちのことと定義しよう」(はじめに)

魔女は、悪魔によって幻惑された迷信家ではなく、自らの意志でその悪の力と結託して、周囲の人や家畜に害悪をなすと考えられるに至る」(第1章)

魔女というのは、養う替わりにそこなう「悪しき母」なのであり・・・より広く、宇宙大の生命流、生命周期の疎外と捉えてもよい。広く人間と自然の母性・豊穣性への攻撃とみなせよう。」(第1章)

 

 


「幻想美術館」(太田治子)

2024年04月12日 21時32分08秒 | 読書

 本日は2件の喫茶店を梯子した。久しぶりに妻と昼の外食を横浜駅の喫茶店でパスタとコーヒー。買い物後にいつものとおり別行動で、私は書店、妻は食料品の買い物。
 書店をうろついて5冊ほどを購入。私は再び喫茶店で読書タイム。いつもとは違い繁華街の真ん中にあるチェーン店のコーヒーを注文。コーヒー代は席料のようなもの。一口も飲まなかった。

 書店で購入したのは、「朝のあかり(石垣りんエッセイ集)」(中公文庫)、「西行」(寺澤行忠、新潮選書)、「湘南幻想美術館(湘南の名画から紡ぐストーリー)」(太田治子、かまくら春秋社)、「幻想美術館(名画から紡ぐストーリー)」(太田治子、かまくら春秋社)、「予告された殺人の記録」(ガルシア=マルケス、新潮文庫)の5冊。

   


 2軒目の喫茶店では、「幻想美術館」から16編を読んだ。私などは絵画作品を目にしたとき、つい構図や色彩の配置、形態のあり様など分析的に見ようとしてしまう。気持ちの上では、絵画作品から紡ぎ出される「物語」を読み取ろうとするのだが、どうしてもそれが後回しになる。どちらの見方が正しいのか、ということはない。しかし後者の見方のほうがより印象に残るし、奥行の深い見方だと、思っている。
 著者の太田治子は、太宰治の娘。現在76歳。日曜美術館の初代アシスタントを1976年から3年続けていた。多分私も見ていたはずだが、あまり印象はない。
 この本におさめられているのは70歳から76歳までの連載を収録している。収録された物語はどれもが短い。わずか原稿用紙2枚に満たない掌編である。しかしこんな物語を紡いだのか、という新鮮な驚きがあることも事実である。私とは違う感性に基づく物語に出会うのもまた楽しい。新しい視点に敬服する。同じような物語を紡いでいてもまったく同じということがないのがまた楽しい。
 またこれまで注目していなかった絵画作品に新たな視点を得ることができたものもあった。
 年齢から判断すると、ずいぶん若い感性を持ち続けられていることに脱帽する。同時に私のほうが4歳年下なのに、どうしてこうも私の頭が硬くなってしまったのか、とがっかりする。

 疲れた頭を癒してくれる感じがしている。
 


「都市空間の怪異」 その6

2024年04月12日 20時11分12秒 | 読書

   

現状維持を望みながら、他方大きな変革をも必要としている。悲観的ともいえるが、それはまだそれほど極端なものになっていない。危機意識については、一応現状の生活に満足しているせいもあるのか、深刻な状況とはうけとめられていない。こうした傾向がこの数年間変わっていないという認識がある。これは現代社会の生活文化をとらえる場合にも特筆すべき指標ではあるまいか。現実に曖昧な不安を漠然として感じながら、一挙に終末を招くという危機感が明確でない。こうした行き詰った感覚が、社会の深層部から痛低音としてひびいてくるのです。・・この現象をさらにもう一歩突っ込んでいくと、何か説明できないだろうか。一種の時代の移り変わる時期に生じている慣習化された無意識として、「世の終わり」そういうものが反映したフォークロアが、時代が転換しそうな時に浮上してくるのではないか、と考えました。現代世相を示す三面新聞記事の具体的な事実と、古代日本人の心意とが何か結びつかないかと思っています。

現代の多様なメディアの情報が生活文化化するという現象が都市生活の中に生じています。伝統的な民俗文化が脚色されたり、演出されて、新たな都市の民俗文化に変容することによって、事実とフィクションの関係がますますあいまいとなってしまったことが、若者の幻想を妄想へと駆り立てていったのでした。」(附 「都市とフォークロア」)

 この結論部分については、まだ私にはスッキリしないこともあるので、しばらくは考え続けないといけないようだ。


読了「都市空間の怪異」

2024年04月11日 21時38分00秒 | 読書

 本日はいつもの喫茶店で「都市空間の怪異」(宮田登)を読み終わった。

 次に読み始めた本は今年3月に出たばかりの「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一、岩波新書)。選んだ理由は「都市空間の妖怪」との関連もないことはない。また堀田善衛の「ゴヤ」を読んでいるときにも「魔女狩り」についての記述もあった。異質なものを排除する集団の怖さは関東大震災時の中国人・朝鮮人、そして地方出身者への虐殺、そして現代日本でも行われている他民族へのヘイトなどへも繋がる。
 そんな問題意識に繋がる記述があるか、わからないが、興味を持って読み進めたい。

 その他にも読みたい本、新規に購入している本、購入したい本もあるのだが、この次としたい。

 「都市空間の怪異」の最後の引用は次回。

   


「都市空間の怪異」 その5

2024年04月10日 22時31分56秒 | 読書

   

 久しぶりに短時間だが読書タイムを確保。「都市空間の怪異」(宮田登)の「附 都市とフォークロア」を半分ほどを読み終えた。残りはわずか。

現代日本における世紀末の世相には、日常化した神秘主義が目立っている。その基層には民俗文化の核が横たわっていると考えられる。これが一つの文化の型をなし、基層から表層に浮上するとき、占いや新宗教が一挙に巨大化する。その引き金の一つにマスメディアの介在がある。ノストラダムス世代と呼ばれる若者たちが、ひたすら精神世界に埋没していた理由の一つは、1999年の終末という幻想的イメージによるものである。これが90年代に入って日本社会の上ですっかり日常化した。」(第4章「近現代社会の妖怪」第1節「若者の霊魂観」)

民俗とは、単に過去の産物ではなく、現代社会の諸現象を反映する文化と見なすことが重要・・・。それを客観的に分析する方法論上の困難さを伴っている。民俗が古代社会の残存物ではなく、現実の社会にどのように機能しているのか。生きた民俗の状態としてとらえるにはどうしたらよいかが重要な課題となってきた。」(附 「都市とフォークロア」)

人間の理性はそう簡単に祟りというものを受けつけないのですけれども、自分自身密かに抱いている不安とか不幸が積み重なると、それと因果関係があると考えるのが人間の習性。」(附 「都市とフォークロア」)

日本の天皇制を考えるとき、ほとんどの人が無関心でありながら、天皇制をなくしてしまうと何か祟りがあるのではないかという気持ちがどこかにあり、たやすくなくすわけにいかないというようにして天皇制があいまいなままで残存していることと同じように、習俗とか民俗となって定着している。無意識の慣習については明確な存在理由を明らかにできないままで、そのあいまいな部分が祟りという一つの文化現象となって残るわけです。いろんなメディアが介在しますと、話が増幅していく。」(附 「都市とフォークロア」)

伝統的社会のなかでは、超能力が飛びかうのが日常的な現象だった。近代に入って文明開化日本になってきたときに、西欧的な学問体系のなかに、科学を中心とした認識論か存在しており、その論理をたてまえとすることにより、伝統的宗教を淫祠邪教としたり、迷信といったりして、非合理的な世界として位置づけ、それを排除しよとする。そうしないと近代化、文明化がはかれないという文化政策がありました。迷信、呪い、祟りというものは一斉に排除の対象になった。・・・・明治の末、近代化がきわめて進んだ時点で、再び復活してきたという時代の風潮がある。いかに科学が進歩してもそれを否定しきれないで、また復権してくる、明治から大正への転換という時期なのです。」(附 「都市とフォークロア」)

 


読書タイム再開

2024年04月08日 23時04分49秒 | 読書

 午後から横浜駅近くのいつもの喫茶店でようやく読書タイム。夜も明日の資料を打ち出したのち、若干の読書タイム。
 「都市空間の怪異」(宮田登)の第4章「近現代社会の妖怪」を読み終え、最後の「都市とフォークロア」の「はじめに」と第1節「ハヤリ神と祟り」を読了。いつものような引用は次回。今晩は少し遅くなったが、これより入浴ののち就寝。
 21時過ぎになってこれまでの雷注意報に加えて、強風・波浪注意報が出された。しかし風はまだ弱い。