岸本周平 Blog

和歌山 民主党 衆議院議員
岸本周平 汗と涙の日々!

公務員制度改革!

2010年04月13日 23時23分59秒 | Weblog
 内閣委員会で公務員制度改革の法案が審議中です。私も来週の質問のために準備しています。(大蔵省百年史、昭和の歴史第6巻「昭和の政党」1983年、小学館など参照。)

 二大政党制の下での幹部公務員の中立性について質問する予定です。過去の二大政党の政治は戦前までさかのぼります。

 歴史的にみますと、大正13年の護憲三派内閣、すなわち、第一次加藤高明内閣から昭和7年の犬養毅内閣の崩壊まで、七代の政党内閣が政権を担当しました。この時代が政党内閣の時代と言われています。

 昭和2年からは、憲政会と政友本党の合併により立憲民政党と立憲政友会の二大政党の時代が続きました。

 この二つの政党の政策対立の中心は、経済政策と外交政策でした。

 まず、経済政策では、政友会はインフラ整備のための公共事業と公債発行の積極財政主義、一方、民政党は行財政整理、金解禁などの緊縮財政主義でした。

 外交政策では幣原外交と呼ばれる「協調外交、内政不干渉主義」は民政党。田中外交で象徴される中国大陸への「積極外交、自主外交」は政友会でありました。

 さて、当時の二大政党時代の幹部官僚の任用はどうなっていたのか?

 ちなみに、当時の「憲政の常道」とは、「内閣が総辞職した場合に、衆議院の第二党である野党に政権を移す。」ものであり、必ずしも選挙によって、政権が交代するというものではありません。

 戦前の一大官庁は内務省であり、明治時代から、警察当局による選挙干渉が常態化していたこともあり、もともと、過度に政治的な官庁ではありました。さらには、官撰知事が内務省の意向を受けて選挙干渉を行いましたから、すでに桂園内閣時代から党利党略に基づく知事の任免が始まったと言われているほどです。

 党略による地方官の異動が目立ったのは、昭和2年の田中内閣からです。時に、少数与党の田中内閣は解散に備え、47道府県知事を39道府県で更迭(転任17、免官・休職22)。内務部長更迭は38県(転任29、馘首9)、警察部長の更迭は44県(転任34、馘首10)。

 その後、昭和4年に、田中内閣倒壊、浜口内閣誕生。浜口内閣は「田中内閣の党略人事是正」の名目で、内務省の人事を動かしました。

 この時は、47道府県知事の内、27人を免官・休職。13名が民政党時代に辞めた元知事を復活させています。政党内閣最後の犬養内閣では、知事の免官・休職は34名に及んでいます。

 このように、政党内閣が交代するたびに、内務省の中枢幹部と知事、警察幹部の党利党略による人事異動が行われ、内務省は政治化しました。これが「内務官界の二部交代制」と揶揄されたわけです。

 このことは、一人内務省だけのことではありません。大蔵省でも、田中政友会内閣で選ばれた黒田英雄次官は浜口民政党内閣で交代。その後、犬養政友会内閣で次官に復帰しています。

 このようなことにならないような法案になっているのか、今、真剣に検証しています。

             私たちのために。
             私たちの子どもたちのために。  
             私たちの大切な人のために・・・。
             信じられない政治に終止符を打つ。
             そして、信じられる政治を創るために。

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