徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-103

2010-11-30 07:20:14 | 世界徒歩旅行記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-103

3)タイ編

日記から-67

1月24日 (火曜日) 快晴

 今日はタイとミヤンマーとの国境に着くというのが分かっていた。
この道を通りさえすれば、バングラディッシュまで行け、しかもヨーロッパへ通じるのである。
しかし、ミヤンマーは歩いてはいけないことが分かっているので、一度はバンコクに帰り、飛行機で次の旅のバングラディッシュへ行かなくてはいけない。
それでバンコクに何時帰ったら経済的に無駄なく次のバングラディッシュに行けるか考えていた。
バンコクに週末に着くと旅行社が休みで飛行機のチケットを買うのに待たなくては駄目であろう。
バンコクに長く滞在したくないものだ。Chang Raiは宿泊料が安いので、この町で時間を合わせて行こう。
Chang Raiで知り合ったタイの学生に会いたいし、この間、Chang Maiで会えなかったMrs.Thongwit(英語の先生の奥さん)にも会いたい。

 朝はご飯を炊き、ミロのような物を飲み、本当にゆっくり出発をする。
今日一回目の休みで、綺麗な女の人がいたので水をもらいに行く。彼女は快く水をくれる。
それだけではなく、サツマイモまでくれる。
フィルムの最後の1枚を彼女のために撮る。(カメラが悪くまともに撮れていなかった。)
しかし、彼女の名前、住所を聞かなかった。

 2時30分ごろMae Saiに着く。
ビルマ(ミヤンマー)との国境である。この国には入れないことは分かっていたが、現地の人々と同じように国境を越え入って行く。
しかし、現地の人とは荷物のバックパックが違うので、係員に止められた。
もし、バックパックがなかったら、そのまますんなり越えられていたかもしれない。
だから、英語の出来るビルマ人が日本人だとは思わなかったそうである。国境を越えられなくて残念だ。
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一応、シンガポールを出発してマレーシア、タイへと来た旅は一時中断して、バングラディッシュからまた出発する。
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 今日はMae Saiの西側の山の中に入り山の中腹にテントを張る。
ここからはラオスの方向やビルマの方向も見える。まさにこの辺は麻薬の三角地帯である。
この山は果物を多く作っているところである。この果物畑の持ち主が俺のテントを見つけた。
彼には一日だけテントを張ることを許してもらう。
話は戻るが、昼ごろイチゴ酒を買った時、そのついでにイチゴを摘んだ。日本のように生のイチゴは美味しくなかった。
今、このテントの中で周りの山々を眺めながら、そのイチゴ酒を飲んでいるのだが、まったく酒など入っていない。
それはただのイチゴジュースである。買ったときの話では35度のアルコールが入っていると聞いていたのだが何だ!

 タイとミヤンマーの国境を見て、感じたことがある。
日本人の俺達には馴染みがないこの国境を一応アメリカとメキシコ、シンガポールとマレーシア、マレーシアとタイそしてこのタイとミヤンマーと見てきた。
国と国とではどちらにも引けない重要な地域である。しかし、人々はそんなことにはおかまいなしに生活のために行き来している。
このタイとミヤンマーの国境は今までよりか、より人々が行き来して忙しそうに感じる。
今までの国境ではタイとマレーシアの国境が一番寂しく冷たく感じた。
ここは社会主義の国との国境であるが、何て賑やかなのであろうか?これは闇市が発達しているせいであろう。
それにしても国境は何時も豊かな国の方には国境近くに余り都市がないが、貧しい方の国には国境のすぐ近くに都市がある。
それは豊かな国の方の人々が安いものを買いに行く観光で出来た都市である。
また、貧しい方の国の人々が生活のために電化製品を買い集める基点として出来た都市であるように思える。

 出費49B



12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-102

2010-11-30 07:20:14 | 世界徒歩旅行
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-102

3)タイ編

日記から-66

1月23日 (月曜日) 快晴

 朝、また市場へ行きラーメンとカオニョを食べる。
まず、バナナの葉に包んであるもち米を蒸したカオニョを店で2Bで買い、それをラーメンの店まで持って行き一緒に食べるのである。
ちなみに、ラーメンは4Bである。

 出発して、しばらくすると腰が痛いのに気付く。どうしたのだろう。心当たりがない。前に屈めない。

 道路の上を歩いている時、小牛が俺を見て怖がっていたのだが、少し小牛の気持ちが治まったので、横を通った。
その時、小牛が俺を蹴った。こんな事があるのだ。小牛も怖かったのだと思うのだが、今日は気分が悪い。
今日は運がついてないようだ。

 Mae Chanでフィルムを買う。(70B)燃料も買う。合わせて100Bを越えてしまった。

 夕方田んぼの中にある休憩所(四方が囲まれてなく屋根だけの物)に今日は泊まれるか農民に聞いた。
快く許してくれる。
すぐに眠る準備と自炊の準備をし、ご飯を炊き食事をして日暮れと共に早々と眠りだす。
そしたら、先ほど許可をしてくれたおじさんがやって来て、「俺の家で泊まれ」と言うのである。
俺は日が落ちてしまったし、荷物は皆出しっぱなしだし、これから荷物を整理して移動する気になれなかった。
おじさんの好意はありがたいのだが、断ることにした。それにしても親切にありがとう、おじさん!

 その後、さて寝ようとした時に、今度は子供が遊びに来た。子供は面白半分に外人が寝ているので見に来たのだろう。
こちらはこんな事があり、しばらく眠るタイミングを逃してしまった。

 出費113B



12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-101

2010-11-29 07:14:22 | 世界徒歩旅行記
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-101

3)タイ編

日記から-65

1月22日 (日曜日) 快晴

 昨日はテントで寝たので、人々と話す必要がなく寝るのには十分な時間があった。
鳥の声や、静寂があり今までのことなどを思い出す時間も出来た。
この2日前の市場の出来事では昔のL.A.の友人に顔が似ていて、酒を飲めないことまで同じ様なので錯覚をしてしまう人がいた。
そんなことから何だか世界が狭いように感じた。
その他、その市場では殆ど女が働き、女の場所のようだった。
タイの女は美人が多いので、そんな市場では話が通じなくても、俺はつい顔が緩んでしまう。

 今日の目的地から考えると歩く距離は30kmぐらいである。それでゆっくり出発。
朝食は自炊をする米がないので、炊かず、ドライブインのような所で食べる。
その食事はカオパットと言いチャハンのような物である。これには野菜も付いていたので、栄養もよく価格も8Bと安かった。
そこで、まだ腹が減っていたから、カオニョというもち米を炊いた物も食べる。これは3Bである。
この他、おかずを別に頼んで5Bを払う。このおかずはあまりにも辛く全部食べられなかった。
とにかくこのドライブインは他のそれに比べたら安かった。

 1時ぐらいに今日の目的地のChang Raiに着く。ゲストハウスを見つけて泊まる。
始めは個室に案内された。そこが30Bでこの価格はChang Maiの時と同じであるが、ここにはドミトリーがあると言う。
ドミトリーはベッドだけの大部屋である。それが15Bなのでそちらに泊まることにする。
そこには日本人の先客が4人いた。2人は短期の観光だけの旅行者で、後の2人は山岳民族を研究している。
だから、本などをたくさん持っていて苦労しているようだ。その探究心を見るとすばらしいように見える。
しかし、ここで働いているタイの学生に対して日本の研究員はいろいろなことを聞いているが、その接し方が今一理解できない。
学生に対して「ありがとう。」という言葉は一回も言わず、タイの学生を使うだけ使っているように見えるのである。
彼ら日本人の研究員の一人は山岳民族の中で生活をしていたが、その中で女の人と同棲していたと言う。
彼が日本に帰ってから、彼女から連絡が途絶えたと言う。何だか分かるような気がする。

 夕方、Chang Raiの市場に出かける。店の人々と話をする。
やはり、市場では現地の人との触れ合いがあり、良い。

 Chang RaiのゲストハウスPon Gest House で泊まる。

 出費111B



12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-100

2010-11-28 06:59:07 | 世界徒歩旅行記
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-100

3)タイ編

日記から-64

1月21日 (土曜日) 快晴

 朝飯を炊きゆっくり出発。
そのご飯はうまく出来上がり、大変美味しいものであった。しかし、量が少なかった。
また、ご飯を炊くと出発がもっと遅れるので、止める。美味しかったので量が少なかったのは心残りだ。

 昼はトーモロコシを売っている2人の娘さんと話をし、俺はその隣でご飯を炊き、昼飯を食べる。
そこでのご飯はまあまあであった。
そのトーモロコシの娘は4本それをくれると言うのだが、俺は10B(バーツ)を置いて来た。
そのトーモロコシは塩味が強く、お腹が一杯であったので、あまり食べられなかった。

 今日の夕方は村がないので、Wat(寺)を見つけられない。
だから、道路の横の背が高くないブッシュの中にテントを張る。
この辺り、人家が少ないことから、前もって学校で水を水筒に入れていたので、何とか助かる。

 今日は3回ご飯を炊くことになる。その時オーストラリアの時のスープの素を使う。味はどうだろうか?

 テントをブッシュの中で張ったので、明日の朝は朝露が多くついていることだろう。

 出費10B



12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-99

2010-11-27 07:59:33 | 世界徒歩旅行記
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 ワラの屋根。今日はこのワラを取りに山の中に入る。

12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-99

3)タイ編

日記から-63

1月20日 (金曜日) 快晴

 昨夜、この小さな市場で焚き火を囲んで、しばらく住民の人と話をしていた。
その時、その焚き火の中に竹筒に米を詰めたやつを入れて、話をしていた。
炊き上がった竹のご飯は竹の内側の薄い皮が剥がれ、それと一緒に食べると美味しいのであった。
そうやって住民と話をし、食べていたら、今日もう一日泊まって山の中での仕事を彼らとすることになった。

 昨夜の話しで今日は働くことになったのだが、午前中は山に家々の屋根を葺いているワラを取りに行くというのである。
そう言えば、タイの南の方ではワラではなくパームオイルの葉か、ヤシの葉で屋根を葺いていた。
この辺ではその様な木があることはあるが少ないことからワラで屋根を葺くのであろう。
ワラは山の奥まで入って行き、取るのである。その場所まで行く途中、小さな小川を水に浸かりながら行くのである。
現地ではワラを取り同じ長さに揃え、束ねるのが仕事である。
こうやって、道路から離れて完全なる自然の中での一日は静寂があり最高である。
帰りは集めたワラの束と4人働いた人と一緒に牛車に揺られ市場まで帰る。
その牛車は2頭の大きなコブのある牛に引かれた荷台があるもので、その荷台に多くのワラと4人が乗っているのである。
下り坂では道が悪いので荷台は大変揺れるし、荷台の速度が速くなると逆に引っ張られた牛がかわいそうなぐらい大変である。
少し上る様な時は速度が遅くなり、下りになればその速度にあわせて牛が走らなければならないからである。
この2頭の牛たちにはご苦労さんと言いたい。

 夕方、この市場では酒がないので、苦労してクアントン(ウイスキーの名で、メコンの方がランクは上のウイスキーである。)を買ってきた。
それを昼一緒に働いた4人で飲もうと思っていたからである。
もっとも仕事を俺が手伝ってあげたので、彼らがお金を出すか、食べ物でも出してくれるのが普通であるのだが。
しかし、今日はいい環境の所に連れて行ってくれ、いい経験をさせてもらったと言うことで酒でも俺がおごるのである。
そして、さて飲もうとした時、知らない人達がやって来た。彼らは村長たちである。
酒1本を4人で飲んでも少ないのに、他に4~5人来てしまい、酒はすぐになくなってしまう。
その時に村長は自分がその酒を買ったように皆に酒を勧めるのである。それを見てあきれてしまった。
ところで、この村で酒を売らないのは皆が貧しいからではないかと思う。皆は飲みたいが我慢をしているように思える。
村の人は金がないから、売れないので酒を店では置かないのではなかろうか。
また、この国では「ここにある物は皆の物」という考えがあり、個人で独り占めしない主義があるようで良い。
結局、俺が買った酒はすぐになくなってしまった。しかし、悪い気分ではない。

 出費55.50B