徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

アメリカを歩く-6

2009-06-30 10:05:02 | 旅行
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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アメリカを歩く-6

 アメリカでは人々が結構親切にしてくれた。今回はその中で普通の家に何回か泊めてもらったことがあったそのことを書いてみます。


*家に泊めてもらった-1

 アメリカではよく「家に来ないか?」と言われた。
この意味は自動車に乗って家にこないかという意味であるので、そんな時「この地点まで戻してくれたら貴の家に行っても良いよ。」と答えていた。
初めて普通の家に泊めてもらった時のことであった。その家は18歳の女の子を頭に5人の子供がいる家庭であった。


 アメリカで一番お世話になった山中さん-右と私。

 そこで泊まった次の日、夫婦は共働きなので、朝から家を出て行き、子供たちも学校に行ってしまった。私はひとり家に残された。
昼食時になって、腹が減りどうしようかと思っていたら、彼らが家を出て行くとき「冷蔵庫を開けて食べたいものを食べてもいいよ。」と言ったのを思い出した。
私はやはり始めての家で冷蔵庫を自由に開けることには抵抗があったが、とにかく腹には変えられなかった。
それにしても、アメリカという国は誰でも家に連れて来て自由にさせてあげるくらい開放されたとこなのかとも思った。
しかし、これは友達だと認めた人だからなのだろう。
丁度、その日が金曜日だったので、次の日が週末であった。


 Butler 家族、女の子3人と双子の男の子

 それで皆で遊ぶことになった。たまたま、豚を移動する仕事があったので、試しに豚を手で捕まえようと必死で捕まえようとしたが、非常に難しく泥だらけになった。
このように初めて酪農の仕事をした。いい経験であった。夜はカントリークラブへ行き酒を飲み、そこに来た多くの人と話をして楽しい時間を過ごした。
また、私はお世話になったということで、餃子とすき焼きそして茶碗蒸しなど日本料理を作ってあげた。
その時は材料を買うことから大変で自動車で走り回って集めた。それでも日本の本当の味が出なかった。
その完全でない日本食を皆は珍しそうに食べてくれ助かった。
ここの数日間の生活でアメリカ人の一般の料理のこと、またデザートのことなどが分った。
それは夕食をまだ食べていないのに、今日のデザートは何かと聞くのであった。食べる前からデザートのことしか頭にないのである。
そのデザートは非常に糖分の多い甘く乳脂肪分の多い乳製品であった。この様に彼らは平素この様な物を食べているので肥満が多いのも分かるような気がした。



アメリカを歩く-5

2009-06-29 07:07:22 | 旅行
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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アメリカを歩く-5

*インディアン

 アリゾナ州、ニューメキシコ州などはインディアンの居留地が多い。その横を通る時が何回かあった。

 ある時その居留地を過ぎようとした時であった。
2人の女の人が夕日を見ながら静かに話している姿を見て、私はその人たちに「何を見ているのですか?」と馬鹿なことを話しかけてしまった。
彼女たちは自然の中に完全に同化していて、そんな質問などしてはいけなかったのだと、話した後で思った。
それは本当に絵になっている2人であったからであった。
しかし、現実のアメリカでは彼らインデアンが何か取り残されたような存在になっていた。残念な話だ。
インディアンの居留地はいろいろな種族のものがいろいろな地域にあるのだが、どこの居留地に行っても活気と言うものを感じたことがなかった。
それは集められて生かされているという感じであったからだ。

 ところで、ある日、砂漠の中でトラック(ピックアップ)が止まり話しかけてくれた。
その車の運転手はインディアンであった。彼と話をしているうちに「お前はどこから来た。」、「どこの種族だ。」と言うのであった。


 インデアンと話をする。ほとんどインデアンと変わらない。左が私である。

 彼は完全に私をインディアンだと思っているのであった。そういえば、その時の私の姿は赤いぶ厚いワイシャツとジーパンそれに赤いバンダナを巻いていた。
おまけに顔は日に焼けていたので、現地のインディアン以外の何ものでもなかった。
さし当たって、シャイアン族、ナバホ族でもないジャパン族かな。

 その後、彼は私に冷たいビールをくれた。そこは周りに何もなく、天気は良いがたぶんマイナスの温度であったろう。
冷たいビールを飲むには少し寒いのではなかったかと思ったが、彼は気分よくくれたので喜んで飲んだ。
彼も一緒に飲んだのだが、その後元気よくトラックを運転して行った。
彼らのそのトラックの後ろの荷台はビールの空き缶だらけであった。無事に帰れたかな?
この出来事は日常のことなので、何時かは私がL.A.で事故したように彼らが交通事故をするのではないかと心配したものだった。




アメリカを歩く-4

2009-06-28 08:54:57 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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この後、しばらく題名別に書き出します。


アメリカを歩く-4


食事のときの様子。



*食事
 この頃の食事はというと、パン、ハム、チーズ、缶詰、そして、紅茶かポタージュスープであった。
アメリカではシチューの缶詰が良く出来ているので少し担ぐには重いが良く食べた。

 ところで、私は自炊が出来るようにホワイトガソリンのホエブスをどこの国でも持って歩いた。
ただホワイトガソリンが手に入らない所や国では普通のガソリンを使ったのだが、それが燃えたときの匂いには閉口した。
特に、寒い冬にテントの中での自炊や、暖房代わりに使った時はテントの空気が出て行くところがなく臭いは大変であったし、ススも出て、健康にもよくなかった。

 健康のためといえば野菜を摂らなければならないと日ごろから思っていたからサラダをたまに食べ、ときまた野菜スープを作り食べた。
生野菜を取りたいから、このアメリカではわざわざ、サラダだけを食べるためにカフェーに入こともあった。
スープを作る時は始めに野菜(ジャガイモ、たまねぎ、にんじんなど)を煮込んで、一度火からはずしポタージュスープの素を入れて再び煮込んで食べていた。
けっこうおいしいので、自炊のときはほとんどどこの国でもこれを作った。
野菜、果物を摂らないといけないとつくづく思うことがあった。
足の水ぶくれが、膿んでくると野菜、果物を如何に摂っているかいないかで治り方の速度が違うことからであった。

 アメリカの西の砂漠地帯を過ぎ人家が多くなってくると夕方にグロッサリーストアーに入り夕食を買うようになった。
従って重たい食糧を長く持たなくて良くなった。そうなってくると比較的重たい缶詰も持てるようになった。
特に食べたのが缶シチュー、イワシの缶詰などであった。
特にイワシの缶詰は安く、色々な味付けの物があったし、カルシウムを摂取出来るので良く食べた。
シチューは野菜が入っているし、2~3種類の缶詰があり選べる楽しみがあった。
また、そのまま温めれば良いから作る必要がなく楽なのでこれも良く食べた。
一日の終わりとして夕食の後、唯一の楽しみは紅茶を沸かして飲むことであった。
この時の紅茶は本当においしかった。今でもその味を思い出すことが良くある。

 カリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州と過ぎて行くと砂漠も過ぎ、人家が増えて来た。そうなると人との会話が多くなっていた。
話をしているとほとんどの人が食事をくれたり、飲み物をくれたりと親切にしてくれた。

アメリカを歩く-3

2009-06-27 09:10:34 | 旅行
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アメリカを歩く-3


 アリゾナのグランドキャニオンの近くを通り過ぎたころ道路の脇のレストエリア(休憩所)でのことであった。
写真機をぶつけて綺麗に取れていないが砂漠の中の国道とバックパック

 寒いと人間は自然と出したくなるものがあるものである。その時もあまりにも寒くトイレに入りたくなった。
その時に周りに何もないところにあった普通の休憩所であった。そこで用をたし、壁にかかっていた機械を見てビックリもしたし、大変助かった。
それは今では誰も知っている手を乾かすドライヤーであった。
今だからどこででも見る物であるが、その当時しかも周りに人家も何もない田舎にこのような文明の物があることに感動をしたのだった。
その時は寒かったのでそれで手だけではなく体中、暖められるところは暖めた。
それは壁についている物だったから体を暖めるには非常に難しいことはお分かりであろう。
壁に体の冷えた部分を引っ付けながら長い間ドライヤーを使ったし、一回の時間が切れても何回となくドライヤーを使うのであった。
もし、そこに誰かがいたら変な人だと思われただろう。

 アリゾナ州を越えニューメキシコ州に入る頃の砂漠は実に美しかった。天気も良くなり雲一つない砂漠での日の出、日の入りの姿は「すばらしい!」の一言であった。
360度見渡せる中からの日の入りを見ながらの自分で作った夕食は何物に変えがたいものがあった。
食事は貧弱だが、景色は絶品であった。今でもその夕日を見たいものである。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/5a/ec2cffcb76fe0be80bbcea28f1fc963e.jpg

本当に美しい砂漠の景色である。

 歩き始めて一ヶ月が過ぎ砂漠も過ぎてきたのだろうか、少し木が多くなってきた。
しかし、寒さがもっと増してきた。雨ではなく雪が降ってきた。その雪は道路に積もるのではなく、風でどこかに飛んで行ってしまうのであった。
即ち、けっこう寒いと言う事であったのだろう。

 歩き始めて33日目、ついに朝起きると一面が銀世界であった。寒いが誰も踏んでいない新雪を踏んで歩くのは良い感じがした。
しかし、初めは珍しいし、まだ踏んでいない新雪に足跡をつけるのが新鮮で良かったが、この雪が解けてくるとその溶けた水を車が跳ね、汚い水を舞い上げた。
それを被って歩くのは汚くまた、惨めなものであった。雪は解けないで積もっていると大変綺麗で見ていて気分がいいが、解けるとこの様にいやなものであった。
この日は昼過ぎから晴れ間が出てきた。太陽とはこれほど暖かいものか、これほど必要なものかとつくづく思い、感謝したものであった。



アメリカを歩く-2

2009-06-26 08:08:35 | 旅行
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アメリカを歩く-2



 歩いている姿である。

1980年の大晦日はモーテルと飲み屋があるだけの小さな村Yuccaというところにいた。その夜は小さな飲み屋にその村の人すべてが集まったと店の人が言っていた。
即ち、その飲み屋にそこの人々が集まって踊ることができるほどの人数しかいない村なのであった。
そこで私は1981年の新年をこの村の人々とキスをして迎えた。
それは西洋の習慣で夜中の12時を過ぎ新年を迎えた時に回りの人にその喜びを分かち合うという意味で、回りの人誰でもにキスをするのである。
楽しい貴重な経験であった。
また、面白いことに、この時に集まった人々が私の名前SHOZO「正三」をうまく呼ぶことが出来ないことから、私の名前は「JOE」という西洋の呼び方が生まれた。

歩き始めて26日目にして初めて雨が降った。
小降りだったので、ポンチョを着て雨の中を歩いた。その時はもう結構寒く0度ぐらいまで下がっていた。
この時雨がポンチョに当たり凍るのを始めてみた。興味深くもあり、不思議でもあった。
寒くても歩いていると汗を掻き、その湿気が外に出ずポンチョの中の服が濡れるのである。
だから、ポンチョを使わず雨や雪で服が濡れるのとはどちらも同じようであった。
かえって、ポンチョを着ていると不便なのでポンチョは着ないで歩くことが多かった。

その雪の中では、多くの車、トラックが舞い上げる水しぶきはやけに冷たかった。
休もうと思ってもジーパンもべとべとで休むと体が冷えってしまい休むにも休めず、靴も濡れ足の指先まで冷たかった。
こんな日はモーテルで休んで暖かくくつろごうと思って頭の中ではそのことだけで一杯であった。
しかし、そんな日は誰でも経験している通り、一日歩いた地点ではモーテルがないことが多かった。
そして、雨の中にテントを張ることが多かった。運がついていない一日であったと不満を天に向かって言ったものだった。
次の日の朝、濡れた物をもう一度着るときの気持ちは筆舌に尽くしがたいものであった。
雨さえ降っていなければ、どうせ歩いていると服は乾くし、雨が降っていれば、どうせ服が濡れるのだからと開き直って、朝濡れた服を着るのであった。
それでも「そのうちに良いこともあるだろう。」と気持ちを変えた。そう思って歩き出してからは気持ちも晴れて来るのが常であった。
それは歩くことによって体が温かくなって、着ている物、靴などが濡れていても気にならなくなったからだろうか。