徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行、総集編-1035

2016-05-23 09:32:29 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

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ギリシャの街でどこでも寝ている怠惰な犬達。

4、犬との“戦争” 

小石を投げて対抗

 どの国も田舎では家を守るために番犬を飼っていた。
だから、家の横や囲まれている土地の横を過ぎ去るとき、歩きであるがゆえに、この犬との問題を離れることが出来ない。
どの犬も飼い主に忠実である。主人の土地を外敵から守るすばらしい動物である。
その犬の性格を利用しアメリカの田舎では放し飼いにしている。その数が1匹や2匹ではなかった。しかも、その犬たちは大きいのであった。
私が家の前や飼い主の土地に近づくと犬たちがやって来て私を取り囲むのであった。
前から2~3匹で吠え後ろから隙を狙いて噛み付くのであった。彼らは計画的だ。
この時から犬との戦いが始まった。
この犬とかコヨーテ、熊、悪人などのために鉄砲でも持とうかとも思ったことがあった。
しかし、鉄砲を持つと悪人などは本気だと思いそれだけ見ただけで、相手が先に発砲するだろうと思った。
また、鉄砲は重たい。だから、鉄砲を持つことをしなかった。

 ところで犬を観察すると、私自身の気持ちに非常に敏感に反応をする。
強気でいると遠くで吠えるが、犬の数が多く私の方が弱気になると見るや犬は容赦なく咬み付こうとした。
また、通り過ぎた後、私が気を緩めた後ろ姿を犬は狙った。
他にも、犬は威嚇をして相手を知ろうとする。彼らにとって苦手なことは石を投げられることである。
そんな訳で私は威嚇の一呼吸後、石を持てば何とかなるし、犬との距離が近ければその石で犬に当てる可能性が高いことが分かった。
しかし、砂漠や雪の中では石を見つけることが出来ないので困ったが、そんな時は絶対に負けないと思い込むだけであった。
その気迫が大抵の犬に伝わるからだ。

 トルコで毎日のように犬に吠えられていたある日、咬まれることはもうないと思っていたが、2匹の犬が突然、威嚇なしにストレートにやられた。
それで私の右側の足の付け根を咬まれたのだ。その後、その犬の飼い主の家まで行き、薬を簡単に付け、治療を受けたが、彼らが悪いことをしたという感じではなかった。
形だけの消毒とお茶を出してくれただけで、破れたズボンを縫ってくれるわけでもなかった。
破れたズボンを見せたら、針と糸を私に渡しただけであった。どうなっているのだこの人たちは???
こんなことでこの国は先進国ではないなと思ったのだった。

 そこで後でどうして咬まれたのか考えてみると、飼い主の子供が私を見て咬むように命令したのではないかと思うのだ。そうでなければ犬は忠実なので威嚇もなく人を咬むことはないのだ。そう思うと本当に犬とは忠実な動物なのだ。

 そんな犬でも飼い主のないものはかわいそうであった。
犬は飼い主のいる小さな犬に大きな犬でもイジメられ、そのような犬はどことなく元気がないのであった。
その飼い主のいない犬が私を見つけるとシッポをおもいっきり振ってついて来た。
それは主人ほしさのためであろうが、私はそんな時に困った。
何故なら、私について来ても私は犬に餌をあげるわけにもいかず、何もして上げられないからであった。
そう思うとシッポを振りながらついて来る犬を可愛がることなく冷たく見放すのであった。
その犬がガソリンスタンドまでついて来て、そこで新しい主人を見つけた時はホットするが、私についてくるがために、交通事故に合った犬がいた。
私はその時、自動車の行き来が多い幹線道路を歩いていた。道路の横にはフェンスがあり、人が入ってこれないようになっていた。だから反対に道路から外にどこからでもは出れないような所であった。そこに主人のいない犬がついて来たので、私の目の前で跳ねられ、死んで行ったのであった。可愛そうに!!!!
そんな時はどうして、前もって、もっと気持ちを冷たくし、石でも投げて追い払わなかったのだろうかと、死骸を道路の片すみに片付けながら思うのであった。

 話は変わってヨーロッパではこんなことがあった。
ヨーロッパのドイツやスイスなどでは公園にペット用の糞をする所まである。そこでのことであった。
近くを通り過ぎようとした時にヒツコク犬が吠え、咬み付こうとしたのであった。
それで日頃から犬には欲求不満なところがあるから、当たるとは思わなかったが、蹴ったのであった。
それがその都会の中で育った犬にはよけることが出来ずに綺麗に当たったのであった。
これほど気分がいいことはなかった。今までの恨みをすべて晴らしたように思ったのだ。
ところが、そこには飼い主がいて、何だカンダと言うのだった。これが今までとは違い文明国というものなのだ。
この国でトルコのように私が咬まれていたら、病院に行き、ズボンを弁償して慰謝料までもらえたのであろう。
とにかく、飼い主には「自分の犬をチャンと管理しろ!」と日本語で言ってやった。

 アメリカの自然の中の山道、アパラチアマウンテントレイルえお歩いている時のことだった。
そこでは冬眠から覚めた熊が出るということで、寝る時には食料は体から離し、木の上につるように言われていた。そのような状況で、昼に前から何か動く動物がいるのを感じたのであった。すごく緊張し、熊であれば、死んだふりをしなければならないかと思っていた。そして、その動く動物が近くに来てよく見たら、野生の鹿であった。目が優しく人を襲う動物でないことで安心して歩き続けた。
 よく自然の中では人間を襲うと言われている動物、アメリカでは熊、狼、イランでは狼で気を付けるように言われていた。
ところが、私はそれらは別に怖いと思ったことがなかった。彼らも人間が一番怖いことを知っているからだ。
動物は本当にどうしようもなく腹が減った時以外は人間を襲うことがまずないからである。
とにかく、自然のルールを知れば、自然の中は人間の社会より楽な気さえするのであった。

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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

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世界一周、徒歩旅行、総集編-1034

2016-05-19 07:44:13 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 653

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トルコの村を過ぎる時に注意をしなければならない子供達、だが、良い子供達もいる。

3、強盗にあったこと

トルコでは子供が集団で

パキスタンのバルチスタン(Baluchistan)砂漠では人がどこからともなく湧いて来る。人が湧いてくるという表現は適切ではないが、何もない土色のところから、突然人が現れるのである。
ある時は道もないところを歩いていると、どこからともなく、8~10歳ぐらいの子供がどこから現れたかわからないがついて来た。
私に何かを話しかけてくるのだが、はじめは無視をして歩いていたが、あまりにもうるさくついてくるので、その子供の話を聞いて見ることにした。
彼はパキスタン語で話すのでよくわからないが、よく聞いてみると「金を出せ」と言うのであった。
貧しい国を旅行すればこのようなことが日常茶飯事であるから、子供なので相手にしないで歩き続けていると、また現れて自分の背丈ほどもある農業で使う鉄のクワを持って来たのであった。
それで、その子供は私に襲いかかろうとポーズを取るのであった。
その様子を見て彼は必死で金を取ろうとしているのだと分かり、私は冷や汗をかいた。
もちろん、そのクワは簡単に取り上げることは出来たが、後で恐ろしくなったのであった。
それはこのクワは貧しい農民にとって生活必需品だ。それが無くなったら、子供の親がきっとそれを取り返しに来るだろう。
その親は子供にあの様な教育をするのだから、平気で人を殺すかもしれないと思ってしまったのであった。
この砂漠では隠れることも出来ない。親が私を見つけることはたやすいであろうなどとさまざま思いをめぐらすのであった。
また、子供から奪った重いクワをすぐに捨てたら、そのクワでまた子供が追ってきて襲われても困るし、クワを必死に探しに来られても困るので、適当な距離を置きクワを捨てた。
その後はよく後ろを振り返ったものであった。

 またその様な砂漠で突然、警察官が車でやって来て、アフガニスタンからの難民が観光客を襲うから、歩いてはいけないと言うのだ。
その警察の話では「この前も観光バスが皆殺しに遭った。」と言うのだ。
しかし、私はここで旅を止めるわけにはいかない。私自身の責任で歩くのだということを一筆書き歩かせてもらった。
そうは言ったもののやはり、人影や人々の目には注意を以前より強めたが、恐怖は隠せなかった。
 その後、前に倒れても倒れないぐらいの強い砂嵐の中、砂だらけになって国境に着いた。
そこで、無事に着いたことを警察に伝えると大変喜んでくれて泊まる所と食事を奢ってくれた。

 パキスタンの次の国、イランは石油産出国により国が豊かだからか、盗賊には襲われなかった。
しかし、知り合ったイラン人に戦争で人を殺した生々しい話を聞くと「死」は非常に近いものであると感じた。

 東側のトルコの厳冬は海抜が1500m~2000mということもありマイナス20度~30度の真っ白な世界であった。
そこは貧しいからかタカリや盗賊に遭うこともしばしばで、ある村を通り過ぎる時、12~15歳の子供10数人に「金を出せ」と言われたのであった。
彼らの中の一人はスキを狙い、ポケットに入れてあったマフラーを後ろから盗んだのであった。
そのマフラーはイランで寒くなるからと気づかって道路上、トラックの運ちゃんがくれた心のこもった贈り物であった。
そう思ったら、盗まれたということで諦めることは納得がいかなかったのであった。
私は20分ぐらい盗んだ子供を追いかけながら日本語で「それは必要なんだ」と言い続けた。
それを続けていたら、その子供達の中の一人が「止めてやれよ」というぐあいに盗んだ子供を説得し出すのであった。
その雰囲気が広まり、盗んだ子供は最後はあきらめて、私がマフラーを取り返しても抵抗を示さなかった。
この体験で集団の中にも必ずいい人がいるし、その人の心を動かせば皆が変わってくることを感じた。
それにしても人影を見ると恐怖を感じた。特に、他に誰もいない所では人が現れないか緊張をしたものであった。


 トルコのイスタンブールからはヨーロッパである。
ユーゴスラビアでは貧しいので盗賊に遭うかもしれないと言われたが恐怖を感じることはなかった。
 しかし、人の親切心につけこんで、お金を騙し取られたことがあった。
それは、フランスからの車の旅行者だという男がシンガポールから来たという女と車で旅行中、私にあったのであった。
旅行のためのお金がないから貸してくれというのであった。フランスに行ったら彼の住所のところに尋ねて行けば、お金を返すというのであった。日ごろ多くの人から助けてもらっていたので、騙されてもいいからとお金を貸してあげたが、現金を持っていなかったので、彼の車で銀行まで行きトラベラーズチェックを換えてあげた。もちろん、元いた場所まで戻り歩き出した。
この後この歩きの旅が終わり、フランスの住所の所はボルドーだったのでアルバイトも探すことを考えて、行って見たらやはりそのような住所はなかった。やはり彼はフランス人ではなく隣のイタリア人ではないかと思うのであった。イタリアではこのような詐欺をよくするからであった。

 ヨーロッパを歩いている時に感じたことは人々が心に壁をつくり、相手に出来るだけ触れず自分だけの世界にひたっていることであった。
それはヨーロッパではペットを多く飼っていることからも想像がついた。
自分の欲求不満をペットに代用しているのであった。
だからあまりヨーロッパでは刺激的なことは少なかった。
それでもスペインで知り合ったスペイン人とは親しくなり、ポルトガルまで徒歩を終えてからまた会い、よく遊んだ。そのような熱狂的なスペイン人に会った時に少しアジアを思い出したものであった。


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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1033

2016-05-15 08:14:20 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 652

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パキスタンのバルチスタン砂漠。
砂漠の中にポツンと一軒だけあった食堂。

2、人種のるつぼアジア

“素足で大地に触れる感動”

アメリカ、アーストラリア、ニュージーランドを歩き終わった。そのすばらしい自然とそのごとく素朴な人々を後にした。
そして、もっと広くまた人種のるつぼであるアジアへいき、多くの人に会い多くの経験をしたかった。
ここでの問題は人が多いのでテントを張れなかったことである。
オーストラリアやニュージーランドでは自然が多いのでどこでもテントを張れた。ところがこのアジアは人がどこにでもいて行き来しているのである。したがって、どこでもテントを張ることができない。それで仕方なく、お寺、モスク(イスラム教の寺)、民家、食堂(レストラン)、学校、警察、安ホテルなどに泊まった。
おのずと人との触れ合いが多くなった。

 シンガポール、マレーシア、タイなど、この熱帯では果物や野菜など多くの植物が豊富であり それで人々には余裕があることからか?大変親切であった。
タイのある田舎の小学校に泊まった時には、私が英語で話したからか?英語の授業をすることになった。日本についてのいろいろな質疑応答を英語でするものであった。その中で日本の歌も歌い本当に良い先生の気持ちを味わった。
別れの時には生徒たちが涙を流してくれ、それを見て私は先生という職業に感動したものであった。

 バングラデシュ、インド、ネパール、パキスタンでは長い間の旅行でこじきのように見えたからだろうか?よく石を投げられた。
また、バングラデシュでは私の後ろに100人ぐらいの大人や子供がついて歩いたこともあった。
この辺の人々は何の楽しみもなく、それに自分より何かにおいて劣っている者を探し、優越感に浸りたいものなのだろう。
それでか?子供は歩いている私を見て「貧乏旅行者!バスにも乗れないのか!!」という具合に石を投げるわけであった。
それが分かっていてもこのことでよく腹を立てた。そのことから私もまだまだ修行が足りないと思ったものであった。
しかし、村の知識人に会い集まっている人の前で会話をして、私が目的を持って旅をしている人であることが分かるとその村の客人になる。そうすると人々の目は変わった。
それでも、その村を離れ数百メートル歩くと、人々は私を知らないので、また石が飛んでくるのであった。不思議であった。

この4つの国々は人々がゴムゾウリか裸足で生活していた。
特にネパールの人々は裸足で病人までも担ぎ、山道や砂利道を歩くのであった。
偶然、私も靴が壊れ、考えもしていなかったゴムゾウリで歩くことになった。
そればかりではくゴムゾウリの鼻緒さえも切れて仕方なく素足で山道や砂利道を歩くことになったのであった。
その時は足の裏の痛さに泣き出したいくらいであった。
その経験から現地の人々は自然や大地に触れているのだなと思うのであった。それは食物の感触までも食べる前に感じる素手で食べ、裸足で大地を感じ、大地に大便をし自然な水で拭く。彼らは本当に自然との接点が多いのだと思った。
それらから私は新鮮な感動を覚えたものであった。

 インドで数人の農民に呼び止められた。
「オイ!ネパール人、どこへ行く。」と彼らが話し、「私は日本人だ。」と私は答えた。
次に彼らは「その日本はネパールのどのあたりにあるのだ。」と言うのだ。ネパールから考えを離れることが出来ないのだ。
また、「それにしてもお前は国際語のヒンドゥー語をよく分からないようだな。」と言うのであった。
私は地面に地図を書き出し、インドの位置、東南アジアの位置、そして遠くに日本の位置を書いて説明した。
その時の彼らは何だか大きな世界を見たように驚いていたが、果たしてどれだけ理解できたのであろうか?

 この様にいろいろな国で多くの国籍の人と間違えられた。
アメリカではインディアンに「どこの種族だ。」とも言われた。
アジアではフィリピン人、ネパール人、中国人、韓国人、その他にもヨーロッパ人にまで間違えられた。
その中でも「ブータン人か?」と言われた時にはイメージが浮かばず思わず笑った。
私は地球人だ。

 パキスタンでの話である。
歩きの一日の終わりは人からいたずらされない様に見つかりにくい場所を探すのと距離を確保する為に必死であった。
その夕方の頃、小さな村の前を通り過ぎようとした時、村の人が話しかけてきたのであった。
私は言葉も分からず、気持ちに余裕もなく無視して歩き続けた。
この様なことが数回続いたその後で、そんな私を数人が腕ずくで村へ連れて行こうとするのであった。
私は「なぜ公道を歩いているだけで、止められ連れて行こうとするのだ。」と思いながら歩き続けようとした。
そうしたら彼らは本当に棒で殴って来た。血が出るほどひどく打たれて村に連れて行かれてしまった。
私はどうすることも出来ず、バックパックから私が世界を歩いているというウルドー語で書かれた新聞の記事を見せたら、何とか放してくれた。
非常に頭にきたが、後で考えたら、私も悪かったのかとも思った。
それは彼らにして見れば、私を見ておかしな人間が村の前を通り過ぎていると思ったのであろう。
だから、彼らは私の歩きを止めて聞いてみようとしているのに、無視して歩いているから無理やり捕まえたのだろう。
この様に、人とはいろいろなことがあった。

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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1032

2016-05-05 07:50:18 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、追加編:ヨット
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 651

今日からある新聞に10回に分けて掲載した冒険記をそのまま書いてみます。

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パキスタンのバルチスタン砂漠。
遠くの村から水を汲みに来た女性達。 黒く見えるのは羊の皮で作った水筒。

1、ナラバー砂漠にて

48度を超える猛暑を行く

 「去年も同じ様に日本人がこの砂漠を歩きに来た。彼はリヤカーを引き、彼の水タンクは20ガロン(約75ℓ)だった。お前の持っている水筒はどのぐらいだ。」
「9ℓだ。」と答えて、私はこの暑さのことを考え背中に冷や汗を感じた。
これはオーストラリアのナラバー砂漠に向かう一本道にポツンとあった一軒家を通り過ぎる時に交わした会話であった。

 私は日本をはじめとしてアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、そしてアジアからヨーロッパまで全部で21カ国を縦横断した。
歩いたトータル時間が3年間で、合計の距離が34,000kmであった。
きっかけは学生時代、負けず嫌いな私は友人の自転車旅行に興味を持った。
その後、彼が自転車ならば、私は歩いてみようと思ったのであった。
始めの歩きの旅は300km、6日間の旅ではあったが、何も知らなかった私には毎日が苦痛と背中合わせで生命の充実感を感じたものであった。
それは靴が小さく靴を踏んで歩いたために前側の筋肉が攣ってしまい。最後には足が上がらなかった。
だから、車道と歩道の段差15センチほどの高さを持上げられず、手で足を持上げて歩いたものであった。
したがって、歩き終わってからは2~3日は歩くことも出来ず、家を出ることが出来なかった。

 その後、普通の若者の様に世界に興味を持った。
しかし、人のやらないことをやろうと思った私は逆立ちで歩くか、ローラースケートで大陸を横断しようと思ったが、歩くことに落ち着いた。
即ち、人間の出来る自然な形で世界の広さを自分の目ではかみたいそう思って日本の後、アメリカを歩き始めた。

 砂漠は極端な世界である。
暑いか寒いか、生か死か、生物もサソリ、毒ヘビ、タランチュラ、サボテンなど独特である。
人家も電信柱もない所に来た、、、、、、、。
「前に自分はアメリカの砂漠を車で通ったことがあった。」
「今、地図があり、少しの水と食糧がある。」この様に考え、自分の不安を抑えるのであった。
実際、この時は冬に歩くことにして良かった。だから砂漠を越えることが出来た。
この後いろいろな砂漠を経験した結果、温度が30度以下の場合は一日に食事を含めて水の量を2ℓまで切り詰められる。
また、温度が30度から40度まででは3ℓ、40度以上ではどれだけあっても飲んでしまうことが分かった。
このアメリカの砂漠では冬だったので、東に向かうほど寒くなり中央アメリカでは非常に寒かった。
この砂漠ではラジオを聴くことが出来たのが、何もない砂漠ではラジオの音がその風景に不似合いであった。

 ナラバーと言えば、泣く子も黙るオーストラリアの砂漠である。
アメリカ横断の後、不法で働いてつかまった私は一年後に何の計画もなくオーストラリアへ歩きに行った。
現地の友人からは口をそろえて反対された。それは日本が冬になるからオーストラリアでは夏になるからであった。
一番困難な所は191kmの間何もなく、その様な所が1250km連綿と続くのである。
その難所に至るまでに温度が40度を超える猛暑の中を歩いたことがあったのであった。
その時には目的のロードハウスが見えた時には酒に酔っ払ったようにふらふらと歩くのであった。
自分の気力の弱さを知った。昼を歩くとあまりにも暑いので、昼ではなく夜に歩くことを考え、決意をした。
しかし、実際歩いてみると、一日60km~65kmを穴や物に気を付けながら歩けるものではなかった。
それで次に考えたことは持っている荷物を出来るだけ軽くしようと要らない荷物をシドニーに送った。
その時は持っていた荷物を見て「何故、この砂漠で冬の服が必要なのか。」と思ったのであった。
しかし、私の旅はこの国だけでは終わるものではないことは確かだった。
そうして荷物を減らしても減らしたらなかった。最後には地図を破って必要な部分だけを残したりもした。
その様な減量では水をどれだけ多く担げるだろうか?

 この様な状態の中で文頭に書いた男に出会ったのであった。
その時の彼の言葉は私にとっては最後のとどめであった。こうなったらやれるところまでやって後は神にゆだねるだけであった。
そう思うと気が楽になった。そう思ったからか?
実際に天候が変わり、にわか雨が降り道端に溜まった水を飲んだし偶然に会った自転車旅行の人が水をくれ助けてくれた。
その様に成功には多くの人々の協力があったことも確かである。

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