徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行

2023-03-02 11:43:40 | 世界徒歩旅行

長い間、投稿をしていませんでした。
去年(2022年)の夏にこの旅行記の本をアマゾンから電子書籍(kindle)とペーパーバックを出しました。
その題名が「歩けば世界が見える!」です。アマゾンの書籍で検索すれば出てきます。

以下がその本のプロローグです。関心がある人は読んでみてください。

         歩けば世界が見える!
         単独徒歩 世界3万4千キロの旅
プロローグ
青春時代の徒歩の旅
 オーストラリアの広い1,250kmのナレボー砂漠に入る前にポツンとあった一軒の家でのことだった。その家の男が私をヒッチハイカーだと思ったのか?声をかけて来た。彼に「俺は歩いているのだ。」と言ったら「去年も日本人がオーストラリアを横断する為にこの前を通った。彼はリヤカーを引いていて水を20ガロン(約80ℓ)積んでいた。お前は何㍑担げるんだ?」その水の量に衝撃を受けた。私が「9リットル」と答えたら、「この砂漠はその量では超えられない。やめろ!」と何度も言ったのだった。私は「行ける所まで行くさ。」と覚悟を決めた。
――第一編の「オーストラリアを歩く」から――
 私は、この地球上3万4千kmを歩いて旅をした。40年前、20代のことである。アメリカ横断の距離が5千kmだからどれくらいか想像してみてほしい。
日本を初めにアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、タイ、バングラデシュ、インド、ネパール、パキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、旧ユーゴスラビア、オーストリア、ドイツ、スイス、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルそして最後にはヨットにも乗った。そこには様々な人種、民族、文化との出会い。。。
 人間の限界に何度もぶつかりもした。しかし、飢え、渇き、寒さ、暑さ、疲労だけではなく暖かい人々の人情、、、何かが私を突き動かし、自分の限界を超える力をくれた。その「何か」は一体何だったのだろうか。各人違うだろう。
 旅のキッカケは友人の帰省の時、自転車で帰ったという話からで、それは大変面白く刺激的だった。「彼が自転車なら、俺は歩いて帰ろう。」と思い実行した。それがこの世界徒歩の旅の始まりだ。
 何処の国でも歩いていた時、人々はこの様に聞いて来た。「どうして歩いて旅行をするのか?」また「一人で?寂しくないのか?」などで、それに対して「歩くことは人間のできる一番自然な姿だから」とか「何時も学生時代から人のやらないこと、変わったことをやろうとする性格だから」と答え、一人で歩いたことは「一緒にする人がいなかったからだ。」と答えたものだ。
 旅での問題は「今日の歩きが終わったが、どこで寝ようか?」と考え、毎日夕方になれば、寝るところを探すことであった。日本以外はテントを持っていたが、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどは自然が多いのでテントを張ることもできたのだが、それでも歩き終わった時の場所が人々から見られイタズラをされない所を探すのは簡単ではなかった。まして、アジアでは人口密度が高いので何処にでも人家があり、テントを張ることができない。それだからどこで今日は寝ることができるのかと毎日不安でもあり必死であった。幸いなことに警察署、お寺、病院、学校、ドライブイン、普通の家などに泊まることが出来たことは今思っても本当に感謝をしている。ほとんどは好意で泊まらせてくれ、人情の厚さを感じた。
 ただし「今日は泊まる所があるのだろうか?」と、毎日が行き当たりばったりで「今日はどうなるかわからない。」という意味で、言うなれば「毎日が小さな挑戦」であった。毎日夕方まではどうなるのか分からなかったが、とにかく、最善を尽くし一日歩く目標の距離を達成した結果、どのような所であれ、泊まれたこと事態に充実感があり、達成感があり、大変な感謝であった。
 人は自然の中での極限だけではなく人間社会の中でも壁にぶつかることがあるだろう。特に、今回のコロナ禍の社会封鎖などの様な考えられない状況の中で、今までのようではいけないと思っている人も多くいるのではないだろうか?この様に先が見えない社会の中や生活の中で壁にぶつかった時などに私が経験したような「毎日が小さな挑戦」の考えを持ち、最善を尽くせば道が開けるのではないだろうか。そういう意味でこの旅行記を通し少しでも何か感じることができればと思うのである。
 ただし、私が歩いた時代はミネラルウォーターもなく、透き通っていない水も多く飲んだ。衛生的でもなく、病気も多くあり、十分な環境が整っていない中、仕方なく歩かざるを得なかった。心配することは、これを読んで同じ様な経験をしようとし、病気や事故、ましてや死に至らないかである。あくまでも、挑戦をするのであれば、目の前の「小さな挑戦」からしてほしいものである。
 歩くほどに人の親切が身に染みて、徒歩旅行の面白さを実感し人情を感じ、以前は無信教であった私が、摂氏48℃の砂漠、マイナス35℃の高地の酷寒など偽りのない自然環境の中から得た経験から、目に見えない何かを感じるようになった自分をも発見した。また、多くの宗教があるアジアを歩いた中から宗教のことも考えるようになったのである。
 他にお伝えしたいことはアメリカを歩く前に日本を離れ、海外と日本の情報の違いを感じSNSが存在する前ではあったが、一方的なマスコミの情報に疑問を持ったことから、世界がどのようなものか自分の目で見て、人々と会話をし、確かめたいということからであった。
 この旅行記は
第一編 :日本、アメリカ、オーストラリア、
              ニュージーランド
第二編 :東南アジアからインド
第三編 :パキスタンからヨーロッパそしてヨット
   の3冊に分かれている。
 また、本書の中には、どこの国でも「日記から」がある。その日記は率直な気持ちを毎日書いていたものの中からピックアップしたものである。これを通して私の経験した気持ちを皆で共有してほしいのである。


世界一周、徒歩旅行、総集編-1041

2016-10-13 10:53:15 | 世界徒歩旅行
発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
++++++++++++++++++++++++
世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
++++++++++++++++++++++++


日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 660

spain-3.jpg
スペインで野宿をした場所。歩きも終わりに近づき、自然の中に包まれていたいとシートを敷いて寝ただけであった。



 これである新聞に書いた10回にわたる冒険記は終わる。


10、自然とのふれあい

歩くことは人間の原点

 自然の中にいるとなぜか落ち着いた。
そこには規則のようなものがあり、それは裏切らないし、それを守っていれば死ぬことはないと思ったからだ。

 それでも厳しい自然もあった。オーストラリアでのことだ。
夕方、夕食の準備をして食べようとしていたら、黒い雲が来たかなと思った途端、突然強い風でテントは滅茶苦茶。
テントポールは折れてしまうし、シートが飛んでしまいそうなので、体を広げて横になり、夕食を守った。
その内、嵐が止むだろうと思ってそのまま寝入っていると今度は体が突然、胃けいれんだ。
テントのシートが風で冷たくなり、シートが当たっている空腹には耐えられなかったのだ。
その時はとにかく胃に食べ物を入れなければと思い、砂が入っている食べ物を食べたものだった。

 砂漠ではその他、暑さが摂氏46度~50度になり、オーストラリアの白い鳥、カッカドゥも木から落ちると言われていた。
もちろん、自動車のボンネットでは目玉焼きが出来るほどだ。

 パキスタンの砂漠でもすさまじい砂嵐に遭った。
風が強く前に倒れ掛かっても倒れないのだ。もちろん目をまともに開けていられなかった。
その風の強弱もあり、風が止まったように突然なると走り出してしまったのだ。

 アメリカの中央とか、東側のトルコを歩いた冬はの時期は寒かった。
温度がマイナス20~30度のトルコの東側は海抜が高く砂漠化していて木がなかった。
だから、当然影が出来ず、雪の白の世界だった。それで、その白さで目が痛いのだった。
更に、風が強い日はその風を受けた側のズボンはカチカチに凍るのだった。

 普段、雨の日は、ポンチョ(雨具でビニール)を着ても内側が汗で濡れるのでバックパックだけ防水してポンチョを着ない時が多かった。
しかし、一日中そういう状況だと体が冷えて大変だった。それだけではなく、精神的にも
参った。
それは自分で自分が惨めに思えてしまったのだ。
また、雨の日に家畜を乗せた車がすれ違うと家畜の糞などがそのまま水しぶきと一緒に飛んで来たのであった。
豚、牛、鶏どの車がすれ違うのは嫌なものだ。また、綺麗な先進国でもこれだけは同じであった。
その他、雨では前の日の濡れた乾いていないズボンやシャツをまた朝着るのにすごく決意がいった。

 しかし、自然はやさしい女神でもあった。
雨がニュージーランドで1週間続いた。毎日、「今日も雨か」「早く止めよ」と空に向かって独り言であった。
気持ちが重いまま1週間がたった日に、すばらしく晴れ渡り筆舌に尽くしがたい綺麗なマウントクックを見ることが出来た。
その時に「あ!今までの1週間はこれを見せるための苦労だったのか」と思ったら気持ちがすっとした。

 スペインでの夏も暑い。
毎日、ほとんど休み時間も取ることなく10時間~12時間歩いていた。
一日の最後は疲れた体にムチを打ち休む所を探した。ここは毒虫や毒ヘビもいないのでシートだけで寝たのだが、見つからなかった。
それは乾燥した気候なのでサボテンの様な小さな植物が多くシートを敷いてもトゲがシートを破るからだ。
この時も「ここもだめか」「ここも駄目か」と独り言を言いながら、長い間探した。
クタクタになりやっと見つけた所が写真の場所でシートを敷いて腰を下ろし、前を見たら、すばらしい夕日であった。
「私はこれを見るためにここまで苦労をして来たのか。ここが夕日を見るのに一番良い所でここまで来いと言っていたのか」と思ったのだ。
そうしたら涙が止まらないのであった。30分は泣いていた。本当に自然は母のように優しい。

 人は私に「何故歩くのか」とよく聞かれた。
そんな時は、「これが人間が出来る一番自然な形で世界を見れるからだ」と答えた。
交通機関を使ってでは気づかない小さなものや見落としてしまうものなどが歩くことによって見える。
それは物だけではなく人々の心までもがよく心にしみて分かるように思えるのだ。

 電車やバスや飛行機の旅は便利ではあるが、多くのものを見落としているのも事実だ。
それは景色だけではないように思えるのだ。

 歩くことが人間の原点である。

「終わり」


=================================================================================================================
筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。
=================================================================================================================



世界一周、徒歩旅行、総集編-1040

2016-08-22 12:13:07 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
++++++++++++++++++++++++
世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
++++++++++++++++++++++++

日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 659

yug-3.jpg
ユーゴスラビアの海岸線で知り合ったカナダのカップル。
この後も何度か道路であった。

9、旅先で出会った人々

村の人と働く充実感味わう

 オーストラリアでは人口が5000人を超えるぐらいの町でないと交通信号機が見当たらない。
だから、私が西海岸から東海岸まで歩いたが、その間、信号の数を数えられた。
そんな久しぶりに信号のある町ミルドュラで私は新年を迎えようと大晦日の31日心も軽くこの町に入った。
駅前を通り過ぎようとした時、呼び止められた。彼らは芝生の上に集まって酒を飲んでいた浮浪者たちだ。
この国でも人種差別がある。彼らは原住民で差別をされて職がなくこうしているしかない事情も分かった。
そう思ったら、彼らに同情し、一緒に酒を飲んでしまった。ワインは酒の回りが速い。直ぐに酔ってしまい、寝てしまった。
気が付くと現金がなかった。他の浮浪者に「飲んでいた浮浪者はどこだ」と聞いても分からなかった。
そして、警察に電話しても「君の力にはなれない」と取り合ってくれなかった。
大晦日の夜に現金を失った、正月からの金がないのには困った。

 タイの北部で小さな広場に屋台をいくつも集めた市場があった。
その市場で米、トマト、白菜、卵を買い、夕食を作った。トマトと白菜のスープの中には砂糖と塩で味をつけ最後に卵を入れておじや風に作ったのであった。
その様子を人々は珍しそうに見ていた。結構私に親しみを持ってくれていた。
その時に「明日は屋根を葺(ふ)くワラを取りに行くが一緒に来ないか?」と言われ、私は一緒に行くことにした。
この国の南部ではヤシやバナナの葉で葺くのであるがこの辺は違う。
翌日、山の中にワラをとりに行った。そこではワラを取っては同じ長さにそろえる単純作業をした。
取ったワラを荷車いっぱいに載せて、その荷車に揺られ市場に帰ったのであった。
荷車を引いていた牛は首に大きなコブを作り坂道を下るのだが、荷車が早いと牛がかわいそうだった。
素朴な人々と一緒に働いた充実感があり、皆で酒でも飲もうと私が隣の村から酒を買って来た。
そうしたら、村長は自分が買って来た酒のような顔をして皆に振舞うのであった。
何だか他人の仕事をして、お金を貰わず、酒まで奢って、その奢ったことを感謝もされないのだ。
何だか複雑な気持ちになってしまったが、「そこにあるものは皆の物だ」と思ってあきらめた。
それでもこの時の酒は楽しい酒だった。

 バングラデシュ、ここにもすばらしい人々がいた。
それはこの国では道路に使う砂利が手に入らないのであった。ここはガンジス川の河口に位置し泥とか土しかないのであった。
道路で使う粗骨材、骨材がないのであった。それで、彼らは土からレンガを造り、その横でそれを壊していたのであった。
だから、道路工事の現場ではレンガ造りの小屋が付きまとう。
そのレンガを壊す人が朝から晩までハンマーで壊し続ける。私が見たのは3月。それでも暑かった。
7月当たりは大変であろう。そして彼らは一生の仕事がそれであり、その子供も同じことをするのだと聞いている。
砂漠の中をふらふら歩いている私も、炎天下の中でハンマーでただひたすらレンガを壊す人々も西洋人には理解できないかもしれない。

 トルコでは車に跳ねられた。
そのトラックは雪を巻き上げて走っていたので、私が道路を歩いていたのが見えなかったのだろう。
私は衝突で雪の中に飛ばされ無傷で無事ではあったが、少しの間、腰が立たず、運転手が正気になれと平手で叩いた。
「大丈夫だ」と私が言ったら、彼は「行け」と言う、人を跳ねておいてそれはないだろう。
「免許書を見せろ」と言ったが、彼は見せないので、頭に来て殴ったら、彼は車の中に逃げ込んでしまった。
そして、他の車が来たのを見計らい、車を引き上げて行ってしまった。
後から来た運転手に話しかけても、私の言葉が通じず何のことか分からないのだ。
私は一体なんだったのだろうか?無事であっただけでも幸いだった。

====================================================================================================
筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

====================================================================================================


世界一周、徒歩旅行、総集編-1039

2016-08-11 09:03:23 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
++++++++++++++++++++++++
世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
++++++++++++++++++++++++


日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 658

turkey-01.jpg
トルコとイランの国境で。トルコ側の入国管理の建物。

8、バングラデシュにて

バスに遅れ得をする

 国境周辺ではどこの国も独特な雰囲気がある。
ビルマ(ミヤンマー)は共産国で歩けない。
タイとビルマそしてラオスとの国境も近いゴールデン・トライアングルと言われる中のマエサイという国境でのことであった。
多くの土地の人がその国境を行ったり来たりしていた。
私もその人の流れに乗りビルマの国の中にわずか10m入った所で、後ろから「旅行者ですね」と入国管理の人に呼び止められた。
私の様子は前から見たら日に焼けて現地の人のように見えるのだが、、、、
しかし、後ろの姿はバックパックを担いでいたので、どう見ても現地の人には見られたかったのだ。
残念!仕方なくバンコクまで乗り物で戻って、飛行機でバングラデシュへ行った。

 そのバンコクまで戻る時、一つの事件があった。
乗り物に乗る時は私にとって休暇みたいなものであった。だから、前日の酒の飲みすぎで二日酔いのまま一番安いバスに乗った。
野菜、家畜などで生活のにおいがするそのバスはギューギュー詰めであった。
バスが走っている途中、検問する所がよくあり、警察がチェックした。その度ごとに警察は私を調べたのであった。
そこに乗っていた欧米の旅行者が「お前何か悪いことしたのじゃないか」と冗談を言った。
そして、バスが休憩の時、私は外でゆうゆうと落花生を食べていたのであったが、私のバスが出て行ってしまったのであった。
私は呆気にとられ、そのバスの横に止まっていた高級バスの所に行った。
「今のバスが予定より早く出てしまった。このバスに乗せてくれ」と私が言ったら、車掌が「お金を、、、、」と言った。
「あのバスが早く出てしまったからだ。。。。」とその高級バスに乗ってしまった。
その後は冷房がきき、シートも2人分ゆったりと使え、快適な思いをした。
バスに乗り遅れたおかげでこんな良い思いをしてしまった。
目的地で欧米の旅行者に会ったら、荷物は無事だということと、「お前は捕まってしまったのだと思った」とまた冗談を言ったのだ。

 バングラデシュはタイとは人種が全然違う。
どの人を見ても全然信用が出来ないと思ってしまったのだ。
そこでは2~3タカ(バングラデシュの貨幣の単位、1タカは10円ぐらい)で食事が出来た。
ところが、ある日この国に着いてまもなく、お茶とお菓子で6タカだと言った。
まだ、この国の物価が分からないので、そこに来ていた周りの客にも聞きながら「この値段は高いのではないか」と一人一人に聞いた。
彼らは高くないと皆が答えたのだが、納得がいかなかった。店の人は怒っていたが、私はかまわずに2タカだけを置いて出て来た。
そしたら、お客たちも私の後に続いて出てきたのであった。その後で「お前よくやった」「すごいぞ」とか言う感じなのだ。
丁度その時に私のゴムゾウリの鼻緒が切れた。この国では鼻緒だけ売っているので、雑貨屋に行った。
その店の人が鼻緒は3タカだと言った。
そして私が3タカを出したら、先ほどついてきていた人々が雑貨屋の人に何やら話をしたら半分のお金しか取らなかった。
私は一体、何がどうなっているのかよく分からなかった。

 インドからパキスタンへ入った時は車で戸惑った時があった。
パキスタンに車が多く、性能もインドのよりも良いので、道路を横断しようとした時、タイミングをつかめず困ったのだった。

 その他パキスタンとイランとの物量の差はメキシコとアメリカの差のように感じた。
石油が取れるということは国が富み、国民もぎすぎすしないので良い。
現にイランをはさんだ石油が出ない両国ではよくたかられた。イランではその様なことはなかった。

=================================================================================================
筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

==================================================================================================


世界一周、徒歩旅行、総集編-1038

2016-07-04 08:17:59 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
++++++++++++++++++++++++
世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、ヨットまで
++++++++++++++++++++++++


日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 – 657

inda-2-17.jpg
インドの国道横にあるドライブイン。このハンモックで長距離ドライバーは寝る。
私もこれで寝たのであった。

7、食べ物あれこれ

自炊時は紅茶が楽しみ


 その土地のものを食べることができた時はうれしいものだ。
知り合いになり、その家で泊まることになった時に一生懸命出してくれた食事は最高であった。
その親切が身にしみるからだ。そんな時、時間があれば後で日本食を私が作ったものであった。

 面白い料理は、一日かけて料理をするニュージーランドの「ハギ」。
マオリ人がイースターの為に集まっていた。その横を通った時に料理をするから食べて行けと言われた。
穴を掘り、焼けた石や鉄を入れてその上に肉、野菜の入ったカゴを置き、濡れた布をかぶせ、その上に土をかける。
その後、ラグビーやゲームなどを彼らと楽しみ、また酒を飲み食べ物を食べ、とにかく6~7時間費やした。
それから、多くの食べ物を嫌と言うほど食べさせてくれた。こんなことはあまりなかった。
それと、マオリ人はウナギを多く食べたのも私にとってはありがたかった。

 オーストラリアでは原住民は大きな焚き火でカンガルーを焼いて食べる。
日本の落ち葉で芋を焼いて食べるのと同じである。また彼らは「砂漠のトカゲを食べれば、食糧を持たずに歩ける」とも言った。
その味はカエルのような味のようだ。

 バングラディシュで普通の家に泊めてもらった時のことであった。
イスラム教であるから、女性は顔を見せない。主人と食事をしている間も彼女はカーテンの向こうで声がするだけであった。
この国は女性が押さえつけられているからだろうか?質問は主人を通していろいろ聞いて来た。
食事後にこの国では出ることが珍しいデザートが出て来た。
また、カーテンの向こうからステンレスの皿とご飯とミルク、砂糖、バナナが一つずつ出て来た。
その様子は面白いものである。食べ方はすべてを手で混ぜ合わせて食べればよく、バナナもぐちゃぐちゃにするのであった。
これが結構美味しく、この珍しいデザートを出してくれた夫人に一目でいいから会いたいものだった。

 食堂や飲み屋では話がよく合った。
ネパールでは家で作ったすっぱい「チャン」というにごり酒や羊の脳ミソを食べた。
また、ここでは山道で家があったら、そこが食堂か分からないような所だが、聞いたら食べさせてくれた。
そこでは注文してから、食事を作り出すので、時間が非常にかかり、時間が勿体無いような気がした。
アジアでは食事が安いので食堂で食べ、泊まる所の情報を聞いたり、そこで泊めてもらったりした。
バングラデシュなどでは人が多い。ある時に泊まる所が見つからず、テントを張った。
彼らにとっては珍しいテントを見ようと、そこにあまりにも多くの人が集まり、人々が興奮していた。
そこに長老が現れて「ここでテントを張らないでくれ」と言われて、暗い中、仕方なくホテルを探した。
だから、バングラデシュでは警察、学校などでよく泊まった。

インドでは長距離トラックが使うドライブインでよく寝た。
そこで、夕飯と次の日の朝食を食べるので、合法的に泊まれるのだ。
そのドライブインは道路の横に木の枠があるハンモックを幾つか並べてあるのだ。
そこでドライバーたちが、食事と仮眠して行くのであった。
しかし、そこでも蚊との戦いがあったり、夜中ににわか雨があったりして大変だが、そこに集まるオヤジ達は面白かった。

 同じ様に厳寒のイラン、トルコでもあまりにも寒いので、テントを張るのをひかえた。
やはり、ドライブインで夕食と朝食を取るから、家の中のフロアーでもいいから寝かせてほしいと頼んだ。
この寒い冬では車もほとんど通らないので、いろいろ親切にして泊めてくれた。

 テント生活をしていた時や物価が高い国などでは自炊であった。
パン、野菜スープ、カンヅメなどが主な食事であった。
その時の楽しみは食事の後の紅茶であった。あの味が今でも忘れられない。

=================================================================================================================
筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

=================================================================================================================