徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1031

2016-04-24 08:07:51 | ヨット

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、追加編:ヨット
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

14、ヨットを降りてから-650

その7

 今はアテネで街の中だから特に感じるのだろうか、歩いていた時の自然の中はなぜか落ち着いたのであった。
そこには規則のようなものがあり、それは裏切らないし、それを守れば死ぬようなことがない。

 もちろん厳しい自然もあった。
オーストラリアの砂漠で夕食を食べようとテントの中で食事を広げていた時であった。
黒い雲が見る見る近づいて来たのであった。「黒い雲が来たな」と思ったとたんにテントのポールは折れ、滅茶苦茶になってしまった。
広げた食事を守るために体は動けずに、そのまましばらくジーとしていたら寝入ってしまった。
そうしたら突然、胃痙攣であった。
それは腹に接触しているテントのシートが風で冷たくなったのと、昼食を食べずの空腹で胃に負担がかかったからであろう。
そのテントの中は滅茶苦茶だ。だから、砂が食べ物の中に入っていた。それでも、とにかく食べた。
また、そのオーストラリアの砂漠では暑さが46度~50度になり、カカドゥーという鳥も木から落ちてしまうと言われていた。
その暑さは実際に車のボンネットでは目玉焼きが出来るというのだ。

 パキスタンの砂漠ではすさまじい嵐に遭い、前に倒れるようにして歩かないと歩けなかった。
もちろん目を開けていられず、参った。
たまに風が弱くなると、前に倒れる様に力をかけていた力が余って駆け出してしまうのであった。

 暑さの反対に寒さではアメリカの中央と東側のトルコは寒かった。
冬のアメリカでは中央の平原はあまりにも寒くマイナス15度~20度のときがあった。
また、パキスタンから入ったトルコの東側では海抜が1500m~2000mで冬は寒く、マイナス20度~35度であった。
それだけではなく、高度が高いからか、砂漠化しているからか木が育たない。すなわち木がないので影がないのであった。
それで、真っ白な世界の中を歩いたので、見えるところはみな白く刺激があり目が痛かった。
他にも、風が吹くと風が当たっている側のズボンはカチカチに凍るのであった。

 雨の中はポンチョを持っていてもあまり使わなかった。
それは汗をかくようだと内側が濡れ、後で臭いが出るからである。雨水よりかしまつが悪い。
それで荷物だけを濡れないように防水していた。
他に雨のことで言うと、一日雨に当たっていると体は冷えるし、精神的にも惨めに感じて嫌であった。
それと、雨に濡れた服は次の日にまた着なくてはいけないが、テントの中では乾くことがないので、濡れた服を次の朝着るのが辛かった。

 その様に厳しい自然でもやはりすばらしい自然美を見せてくれた。
それはニュージーランドで毎日雨が降っていて空に向かって「今日も雨かよ!」「早く雨が止めよ!」という独り言を言っていた時であった。
1週間、毎日雨が降り、その雨が終わった次の日に遠くに見えるオセアニア最高峰マウントクックが見えた時にその不平不満が消えたのであった。
それはあまりにその山の美しさに一週間の重い気持ちがすっ飛んでしまったのであった。

 また、夏のスペインも暑い。
毎日、10時間~12時間歩いていると夕方寝る所を探すのが一つの大きな仕事であった。
スペインはあまり毒蛇も毒の虫もいないと思っていたので、シートだけを引いて寝ていた日が多かった。
それでも、寝る時にシートに穴が開くといけないので、小さなサボテンを避けて場所を探している時であった。
この時も独り言で「ここも良い所ではない。」「ここも駄目か!」と言いながら探していた。
それで長い時間探した後、いい場所を探し当てた。そして、シートを敷いて腰をかけた目の前にすばらしい夕日が沈んで行くのであった。
独り言の相手がこの景色を見せようと「ここまで来い。」と連れて来た様に思うのであった。
その夕日が綺麗で、またそのここまで来いと言った気持ちが「お前にそのことが分かったのか!」と思ったら、 30分ぐらい涙が止まらずその綺麗な夕日を眺めていたのであった。

 この様なことから自然の中では落ち着くのであろう。

 これで日本に帰ったのであった。

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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1030

2016-04-15 08:41:25 | ヨット

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、追加編:ヨット
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

14、ヨットに乗る-649

その6


 アテネに泊まり、日本に帰る安チケットを探した。
その結果、アフリカ・エジプトのカイロ、パキスタンのカラチ経由の日本の成田行きチケットを買うことが出来た。

gree-5.jpg
アテネの街角で寝ている犬達。

 時間があるのでアテネの街に出ると、多くの犬が怠惰に道路の上に寝ているのであった。
犬のことと言えば歩いていた時にいろいろ悩まされたものであった。
犬は主人がある場合、飼い主に忠実で特に田舎ではその主人の土地を守ろうと必死で、よそ者を追い払うすばらしい動物だ。
アメリカでは犬を放し放題の上、1匹や2匹ではなく多く、しかも一匹の体が大きいのであった。
その為に歩いている時はずいぶんと苦労をし、気を使っていた。
犬をよく観察すると、僕の回りを犬が囲み、前で2~3匹が吠えて、注意を前に引き付け後ろから、他の犬がスキを狙って噛み付こうとするのであった。
計画的だ。この様に犬との戦いが常であった。

 それに比べると飼い主を持たない犬は惨めであった。犬に主人がいないからなのだろうか?
その様な犬が僕を見つけると、僕に主人になってくれとでも言うようにおもいっきりシッポを振りついて来るのであった。
しかし、僕は歩いている時に犬を飼ったり、世話をしたり出来る立場ではなかったので、困ってしまった。
だから、冷たく追っ払うときが常であった。

 それでもその様な犬がトルコでヒツコクついて来た時があった。
追い払い、また追い払おうとしていた時であった、目の前でその犬が車に跳ねられてしまったのである。
その犬を見捨ててはいけず、死骸を片付けながら、この犬は僕について来てしまったから死んでしまった。
どうしてもっと早く石などを投げてでもその犬を追っ払わなかったのだろうかと後悔した。

 また、ドイツでは公園で犬がヒツコク吠えるので、僕が蹴ったらその犬に当たったのであった。
今までに多くの国々で犬に悩まされ恨みがあったが、すべてその一撃で晴れた様に思ったのであった。
ところが、その犬は主人が連れていたので、その主人が何を言っているのか分からないが文句を言うのであった。
やはり、文明の社会では動物にも虐待してはいけないという権利があるのだ。
だから、今までの恨みが晴れたのにまた後味が悪い嫌な気持ちになった。
ただ、その主人には「管理をちゃんとしろ!」と日本語で言ってやった。

 この様に旅を終わってもこのアテネの犬を見ているとその様なことが思い出された。

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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1029

2016-04-04 07:11:17 | ヨット

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14、ヨットに乗る-648

その5


 カナリア諸島でヨットを降りた。
アレンとデンマークのカップル2人に別れを告げてヨットを離れた。
その時にアレンに「ありがとう」一言、言うことが出来なかった。
これは僕がまだ、未熟だからであろう。この時に言わなかったことを今でも後悔している。

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カナリア諸島の町の様子。

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カナリア諸島の海岸。

 この後は日本に帰るとなると何だか居ても立ってもいられず、非常に早く帰りたくなってしまった。
それで、先ずヨーロッパでの安チケットの拠点であるアテネに行くチケットを買った。
この時は世界的に、アジアではバンコクと香港、アフリカではケニアのナイロビそしてヨーロッパではアテネが安チケットを手に入れる拠点であった。

 カナリア諸島ではそれほど観光をすることもなく、ただ日本に帰る準備をしただけで、飛行機を持つ間、海岸などに行っただけであった。

 カナリア諸島からスペインのバルセロナを経由してアテネに行く飛行機に乗って行ったのであるが、ここで一つの事件である。
バルセロナに着いたのが遅れてしまい、飛行機の連絡がうまく行かなかった。
バルセロナで一泊することになった。もちろん航空会社の問題だったので、僕がホテルにとまる宿泊料を出すこともなかった。
ただ、この3年以上オーストラリアからニュージーランド、ヨーロッパまで泊まった中で一番良いホテルであった。
飛行機会社が準備してくれたホテルは一流のホテルであった。よく言う5つ星のホテルであった。
こんな所にこの何年間は泊まったことがなかったのであった。

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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1028

2016-03-29 09:22:06 | ヨット

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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

14、ヨットに乗る-647

その4

 その後、僕はヨットの中でアレンから人種差別をされずにヨットの中では過ごすことが出来た。
ところが僕の心の中に人種差別をしていた人間のアレンを許せない心があるのであった。
その自分の気持ちが分かった時に僕は「今まで自由に自然の中を歩いていた。」からであろうと思ったのであった。
即ち、嫌な人間の社会の中で我慢をして人を許すということをしないでも良かったからではないかと思ったのであった。
だから、自然の中に逃れて楽をするのではなく、僕は返って僕が嫌いな人間の社会に揉まれないといけないと思ったのである。
そう思ったら、次に停まるカナリア諸島(Canary Islands)で降りて、日本へ帰ろうと思ったのである。
帰って日本の社会で24時間、365日の間、同じ人と会いながら、その人の欠点までも許してあげる人にならなくてはいけないのだと思ったのである。
その様に僕には人間の社会の中での訓練のようなものが必要なのではないかと思うのである。

 話は元に戻るが、自然の中で人間は生活をするのが楽である。
よく言われている自然の力は人間の比ではない。だから、地震や嵐などは恐ろしいものである。
しかし、嵐の中でも自然の法則を知ってしまうと、僕は嵐が大変なことではないように思えるのである。
ところが、人間の社会は違うのである。そこには異常な欲が絡んで来て、そこから発生するものは大変なストレスを生むのだ。
だけど、その欲やストレスも本当に大きな愛があれば、そのストレスを消してしまうことができると思うのだ。

 ヨーロッパまで歩き終わり、出てきた結論の4つの中の一つに
1、すべての物に心をもって接しなさい。
  動物、植物、無機物までもこの世の物すべてに対して、、、
この様なことがあった。
この心とは即ち愛でその愛とは人が成長した上での親の愛ではなかろうか。

 今回、このヨットの中での生活で僕にはその愛がまだないことが分かった。だから、訓練のために日本に帰るのである。

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世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1027

2016-03-20 07:43:41 | ヨット
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、追加編:ヨット
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

14、ヨットに乗る-646

その3


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Madeiraのヨットハーバー。 このハーバーに着いた一本マストのヨット。


 その様な時にMadeiraに着き、しばらく休んでいた。
その島ではヨットが宿舎になりはしたが、出来るだけヨットに居ないで外に出るようにしていた。
また、ヨットのクルーの中のカナダ人たち2人がこの島でヨットを降りた。
即ち、オーナーのアレンとデンマークのペアでベンダ(女)とヤン(男)と僕の4人になった。

 MadeiraからCanary Islands へ再び航海を始めた時であった。
台風が来てしまい強い風に横倒れしそうになった。すべてのセールをしまい込んでも船は40度以上に傾いた。
その中では料理を作ることも食うことも出来なかった。
それでもウォッチ(当直)をしなくてはいけないのであった。
あまりにもひどい風の状況の中なので他の白人はウォッチをしろと言ってもしないから、仕方なく僕がそのウォッチをした。
夜中などもしたのであるが、その時は波に体をさらわれない様に命綱で体を結わえ付けてのウォッチであった。
そのウォッチはただ真っ暗な荒れた海を見ているだけであったが、誤って海に落ちてしまうと絶対にヨットに戻ることは出来ないと実感するのであった。
そして、そのウォッチは夜中、周りに何もなく真っ暗で、ただ荒れた波がヨットにぶつかる音だけが聞こえるのであった。
その波によりヨットのキシム音は不気味であり怖いぐらいのものであった。

 次の日の朝、嵐も治まって、無事であったことを喜び、オーナーのアレンは僕に対して「昨日は嵐の中よくやったね。」と言ってくれた。
そして、その後アレンは他の白人には舵を握らせず、僕にだけ舵を握らせてくれるのであった。
人種差別をし「頭を使えよ」と何時も言っていたアレンが僕をこのヨットの中で一番信用できる人になったのであった。
即ち、僕は彼から信用を勝ち取ったのであった。

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