徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

11)オーストラリアのシドニーに戻る-7

2010-07-31 08:36:35 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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11、シンガポールからヨーロッパまで歩く、この長い旅を出発するまで

1)オーストラリアのシドニーに戻る-7

 シドニーでオフィースクリーニングをしていたが、仕事先の数が多くないのであまりお金が溜まると思われなかった。
また、その仕事のオーナが私に日本女性を軟派する目的で日本語を教えてくれと言っているようで、彼を好きになれなかった。
それで、1ヵ月半働いたが、次の仕事の当てがないのに辞めてしまった。

 そしてまた、映画の助監督であったマークのフラットでヨガのタカオと一緒に生活が始まった。
ここには1週間いる予定で仕事が見つからなければ、メルボルンの旅であったShaneの所に行き仕事を探そうと決めた。
そこではいろいろなパーティーがあり、いろいろな人々が集まった。
前にも書いたように知識人、芸術家などもいた。
普段でも彼ら達と会っていたので、いろんな話をしている中、お互いに親しくなっていた。
その中のもとジャズ歌手などは繊細な神経を持っていただろうし、この世界での浮き沈みがありこの時は売れなくて悩んでいたようだ。
その彼女は結構有名なでもあったようだ。
そのパーティーで可愛そうだという気持ちで一緒に飲んでいるのだが、彼女は2人きりになることを願っていた。
この西洋の世界では一緒に寝ることが愛の表れであると思っているのであった。
私は人を思うということは愛ではあるが、そんな行為だけが愛ではないと思っていたので、この時は私が後で悩んでしまった。
何故なら、親が子供を思う時の気持ちがありそれは必ずしもセックスではないからであった。
この時はこの様なことを話も出来なかったが、この気持ちを英語で伝えるのは本当に難しいことだだろうなと思った。



11)オーストラリアのシドニーに戻る-6

2010-07-30 06:54:27 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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11、シンガポールからヨーロッパまで歩く、この長い旅を出発するまで

1)オーストラリアのシドニーに戻る-6

このオーフィースクリーニングで働いた1ヵ月半の間、昼は時間があったのでいろんなことが出来た。
ある日の昼にフリーマーケットに出かけて行った時であった。
そこには多くの人々でゴッタがえししていた。そして畳2つぐらいのスペースの店が多いかった。
その多くの店の中で日本の曲をオカリナで器用に吹く人がいた。
その人は日本人に似ていたので話しかけたら、やはりそうで、オーストラリアにはずいぶん長く住んでいると言っていた。
彼との会話で私を変な人間でないことが分かったのか、次の日にパーティーがあるから来ないかと言った。
断る理由がなかったのと、オカリナの人はヨガに興味があると言うことで、次の日、ヨガの先生タカオと一緒に出かけた。

 そのパーティーにはほとんどが日本人であったので、なぜ今さら外国に来てまで多くの日本人に会わなくてはならないかと思った。
がしかし、ここに来ていた人々は一癖あった。
まず、オカリナとは普通、横に穴が並んでいたのに、このオカリナは丸に近い形で穴が横に並んでいないのであった。
始めてみた形であり、彼らは粘土から一つずつ作って焼くのであった。
だから、出来上がったすべてが、商品になるのではなくまともに音が出ないものもあったのである。
それを検査しながら販売していくのであった。
そのオカリナでいろんな曲を吹くのであるが、それがクラッシック曲からジャズまで何でも吹くのであった。
演奏だけでなく面白い話まで交えての様子はまさに芸人であって、見ていて飽きないのであった。
そんな人が一人だけでなく何人かいて非常にパーティーの場が盛り上がった。
この時期、オーストラリアはまだ日本人が多く来ていなかったので、一癖ある人がこの様なところに集まるのだなと思った。
 また、集まった日本人の女の子たちが綺麗なのにもビックリした。何故なのだろうか?
この様にたまに日本人が集まるのもいいものだと思った。



11)オーストラリアのシドニーに戻る-5

2010-07-29 07:26:51 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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11、シンガポールからヨーロッパまで歩く、この長い旅を出発するまで

1)オーストラリアのシドニーに戻る-5

 このオーフィースクリーニングをしながら1ヶ月がたった。
昼の仕事を探すのにも、見つからないので最近は必死に探そうとも思わない。これではいけないと思った。
そういえばニューヨークで旅が終わって仕事を探した時はお金を貯める目的であったので
必死に探した。
だから、最大に働き、遊ぶ時間もないくらいの日本食堂の仕事を見つけ、それはそれだけに集中できるものであった。
このオフィースクリーニングでは泊まるところがあり1週間での給料は70オーストラリアドルであった。
この仕事は夜の2~3時間だけだからお金が溜まるはずがなかった。
働ける時間がこれほどあるのに仕事がないのでもったいないと思った。
ボスのSimonにも仕事を増やすように言うのだが、なかなかそうも行かなかった。

お金を貯める為にこの時期があるのに、それができないでただ時間だけが過ぎていくだけのようで気持ちが非常に苦しかった。
ただ、たまに会うヨガの先生タカオとその回りの人々からの刺激だけが支えであった。
それは映画の関係の人、ジャズの歌手、大統領の娘などであり、それらの人々とたまにパーティーをした。
この様な時だけが時間を無駄に使っていないと思ったものだった。

だから、最初の目的である金稼ぎから考えると、もうこれ以上シドニーにいる意味がないように思われた。

また、オフィースクリーニングをしていると、Simonと24時間一緒なので一人になり落ち着いた時間が持てなかった。
他に、彼は前に書いたようにお金に執着があることや女好きなことから、私は彼を何だか好きになれなかった。
それで、次の仕事の当てがなかったが、この仕事をやめることを決心した。
結局、オフィースクリーニングは1ヵ月半働いた。



11)オーストラリアのシドニーに戻る-4

2010-07-28 07:45:26 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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11、シンガポールからヨーロッパまで歩く、この長い旅を出発するまで

1)オーストラリアのシドニーに戻る-4

 5月17日から仕事を見つけ、働き出した。その仕事はオフィースクリーニングであった。
それは会社の仕事が終わった後に事務所に出かけて行って、事務所を綺麗に掃除をする仕事であった。
だから夜の仕事であり、時間は次の日の朝の出勤までの間にすれば良いので十分にあった。
即ち、夜の早い時間まで遊んでいても、夜中にその仕事をすればいいのであった。
一日5~7つの事務所を掃除して回った。週5日の勤務で週末に給料をもらうのであった。

ボスは南アフリカから来たSimonという若者で一緒にフラット(一軒を部屋ごとに貸す下宿屋)に住みながら働いた。
私はアメリカでガーディナーと言って家の庭の芝生を刈る仕事をしたことがあったことで、このオフィースクリーニングもすぐに慣れた。
ガーディナーも結局は庭の掃除みたいなものであるので、事務所の掃除も同じ要領であったからだ。
だからボスのSimonは私が仕事を覚える早さに関心をし、仕事が速いと気に入ってくれていた。

このSimonは南アフリカでは国境を警備していたこともあり、実際に銃を撃ち人を殺したこともあったと言った。
どうりで普通の人とは違ったと思っていたが、こんなことが彼の過去にあったのであった。
それにしても彼は母国を離れたからか、他国で頼るのはお金しかないからか、お金に執着がある様であった。
また、彼はアジアに関心があると言い日本人の私を気に入ってくれていた。
彼は日本語を私から学びたいと言いながら、その目的は日本の女性と話をし、その女性と遊びたいようだった。
この様に、お金に執着があること、女好きのところから彼を何だか好きになれなかった。

 今のこの時期は次の旅の準備時間で仕事をし金を貯める為であった。
だから、このオーフィースクリーニングをしながらも昼の時間が空いていたので、昼の仕事を探した。
しかし、このオーストラリアのシドニーでは多くの仕事がなかった。



11)オーストラリアのシドニーに戻る-3

2010-07-27 07:48:21 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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11、シンガポールからヨーロッパまで歩く、この長い旅を出発するまで

1)オーストラリアのシドニーに戻る-3

5月12日から15日まで
 毎日、フラットの主人マークとヨガの先生タツオと生活をしていると結構面白かった。
このフラットにいろいろな人々が訪ねてくるからであった。
マークはオーストラリアの有名な映画(マッドマックス2)の助監督をしていた人で、彼の関係で芸術分野の人が集まった。
またヨガの関係でも結構知識人が集まってきた。その中には当時の大統領の娘も来ていた。
彼ら集まってきた人々は日本に関心のある人々が多かったので話がしやすかった。

 5月13日にはニュージーランドに行く前にお世話になったChristie 老夫婦を日本食レストランに招待した。
彼らは日本食を大変喜んでくれてありがたかった。
しかし、このシドニーの日本食レストランは他のオーストラリア人にも紹介したが、サービスがもう一つであった。
味ももう一つであると思われた。これでは日本食の評判が落ちるのではないかとも思ったものだ。
私はLAやニューヨークにいた時、日本食レストランでウエイターとして働いていた関係上サービスについては自然と目に付いた。
このシドニーの店での様にサーブをゆっくりやったらニューヨークでは、はやらないなと思ったものだ。
それにしても、とにかくChristie 老夫婦が喜んでくれたのには助かった。
この後、この老夫婦は私を彼らの家まで連れて行ってくれ泊めてくれた。
ありがとう!おじいちゃん、おばあちゃん!

 この後、朝はヨガの道場に通い昼間は仕事探しを始めた。
一つ良い仕事を見つけ電話をかけたのであるが、なかなか電話が繋がらず、留守番電話が出るだけであった。

仕事を探している時に電話を待つのだがなかなか、かかってこなかった。
また、他の友達との電話でも約束をして待つことが多かった。
この様な待つという行動を通して考えさせられたことがあった。
自分は待つという行動があまり慣れていないから、約束をしても自分から進んで出かけていくことが多かった。
また、歩くと言う行動も自分の方から仕掛けて行くその行動の一つでもあると思うのである。
だから、私は今まで待つということが得意ではなかった。
この事から、かえって私には今後「待つ」ということが必要なことではないかとヨガをしていて思ったのであった。
ヨガでは体だけ柔軟にするだけではなく、精神も統一する瞑想がある。
私は常に動き回っていて落ち着くことがなかったので、ヨガの瞑想を通して気持ちを落ち着けることが出来た。
だから、「待つ」ことでいろいろ考えて瞑想することが必要なのかもしれないと思ったものだった。

また、不思議なことに体が柔らかくなると考え方もやわらかくなるような気がして、精神と体は非常に関係があるものだと思った。