徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

9、ニュージーランドを歩くまで-2

2010-04-30 11:14:41 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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9、ニュージーランドを歩くまで-2

 その他、シドニーでの2週間の休みの内には旅の途中Port Augusta 近くの休憩所で知り合ったColin,Micky,Windy 達とも再び会った。
始めはMr.+Mrs. Christie の家で彼らに会った。
このChristei家では酒は飲まなかったので、この老人夫婦は私が酒を飲まない日本人だと思っていたことだろう。
だが、その老人たちの前で、Colin は私を酒でも飲みに行こうと誘った。
せっかく、おとなしく良い日本人を装っていたのに、化けの皮がはがれてしまった。
その日はColin達が酒を奢ってくれた。
だから、次の週に日本食を私がご馳走してあげるということでまた会った。
しかし、彼等がまた結局お金を出してしまった。
何と言うことだ!

 ニュージーランドのビザの事を聞くのと日本語を話したかったので、市内にある日本人事務所に行った時のことであった。
担当者と話をしていたら、隣の人が「中村さんではないか?」と言うのであった。
担当者とはオーストラリアを歩く前に一度会っていたので、歩いた内容を話しているときのことであった。
それにしても「どうして私の名前を知っているのか」と聞くと、歩いている時に一番初め会った日本人自転車野郎の友達であった。
私の話しをその自転車野郎から聞いて知っていたと言う事であった。彼とも友達になった。

彼はワーキングホリデイで長期のホームスティーをしていた。
そのホームスティーの家はというとHarbor bridgeを西側から真正面に、しかも大変近く見ることが出来る一等席の場所であった。
家の庭の終わりが海につながり、そこにはボートが係留されていた。ボートを格納しておく屋根までついていた。
この海はあまり潮の干満もなく台風もないので、家が海の真横まで作れるようだ。
もっとも、家は岩盤の上に出来ているので庭は坂になっている。その下ったところで庭が海と接していた。
家はもちろん大きくすばらしい家であった。
私はアメリカでもガーデナー(庭師)をしていたので、アメリカの金持ちの家の庭をよく見て知っていた。
それはスイミングプールのある家、テニスコートのある家などである。
それでもこの様に海に接してボートがそこに接岸している家は見たことがなかった。
この様な家に住んでみたいものであった。うらやましい。
さて、この家でホームスティーをしている彼はここで何をしているのかというと、左官をしてあげているのだそうだ。
彼はオーストラリアの家は適当に作っていて、トイレの床のタイルなども排水のために排水溝に流れるように傾斜が作られていないと言っていた。
日本の職人は本当に優秀だとその時に思ったものであった。



9、ニュージーランドを歩くまで-1

2010-04-29 05:32:41 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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9、ニュージーランドを歩くまで-1

 オーストラリアを横断して、シドニーの中心街に戻った。
そこで始めてオーストラリアに着いた時、お世話になったクィーズランドに住んでいるBillの知り合いの家Mr.+Mrs.Christieに電話した。
その老人夫婦は家に来て良いと言われ、2週間のホームスティーが始まった。
この家はおじいさんおばあさんだからか大変可愛がってくれた。
だから、このホームスティーの間、私は感謝の気持ちでアメリカでの経験があるガーディニングを毎日してあげた。

 彼らMr.+Mrs. Chistie は日曜日ごとにいろいろ連れて行ってくれた。
初めの日曜日はキャプテンクックが上陸した海岸であるナショナルパークであった。
その次の日曜日は山の渓谷でレクレーションクラブの施設が整っている所であった。
この渓谷では彼らの孫たちも来ていた。孫といっても22歳と17歳で、22歳の方は恋人と来ていた。
その他、Blue Mountain というアメリカではグランドキャニオンの様なところにも連れて行ってくれた。
規模はグランドキャニオンの方が大きい様な気がしたが、久しぶりに雄大な良い所を見た気がした。

 シドニーの気候は少し蒸し暑く、この2週間は晴れの日は多いが何処となくどんよりうす雲がかかったような天気であった。
日本の夏に似ているがあれほど蒸し暑くはない。
それでも、あれほど乾燥していたオーストラリアの中央のことを思うとここが同じオーストラリアなのかとも思った。

 オーストラリア人は日本びいきの人が多いようだ。
2週間の間に私の日本の家の隣の人から紹介された家にも行ったのだが、そこには日本の女の子がホームスティーしていた。
ご馳走をしてくれると言ったのでその家に行ったのだが、他に2人の女の子といっしょであった。
このホームスティーの主人は日本人が好きで特に、女の日本人が好きなようであった。
私は男だが、仕方がなく、特別に許してくれたのだあろう。



8、オーストラリアを歩く-111

2010-04-27 09:15:31 | 日記
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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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8、オーストラリアを歩く-111

・日記 12-91

1983年1月27日 (木曜日) 曇り 93日目

 いよいよ最後である。
今日は残り34kmを歩きシドニーのMainly beachに着くのだと思うと朝ゆっくり出発。
昨日の夜洗濯をした服は外に干していたが、昨日の夜に降った雨でビショビショだ。
何時も履いているショートパンツは絞れば水が滴るほどであるが、長いジーズを履く気になれない。
少し気持ち悪いが我慢してやはりショートパンツを履く。
「その内に乾くだろう。」そう思っていたら、今日は曇っていたが、昼過ぎで乾く。
シドニーの町の中をバックパックに「 I am walking across Australia.」の入ったサインを付け歩きすぎる。
非常に早く歩く。サインの為にカッコ悪いと思ったからだ。
皆に見られているような気がする。
周囲の人は実際何の関心もないかも知れない。俺の思い過しかもしれなからである。
ところが「 I am walking across Australia.」のサインを声に出して読んでいた人もいる。
俺は見世物ではないのでこのようなサインをこれからは控えようと思う。

 Harbor bridgeを渡り、Mainly beachへ。
町の中は道がたくさんあり、この辺は坂が多い。しかも道が切れているところもある。
この国での今までの旅ではほとんどが一本道だったのにこんなに道が複雑になって良いのか?
人の多い道を避ける為にわざと人のいない裏道を通り歩く。
その後、いよいよMainly beachに近づいく。
この旅を出発する前にすでに来ていたので、見たことがある風景に入ってから、足が遅くなる。
それは「全ては、初めがあると終わりがあるのだな。」ということを思い、感傷的になってきた為である。

 ついに午後1時59分、太平洋の海水に触れた。

 その後、空白の状態が10~20分続いた。「これから何をするか?」「酒でも飲むか。」


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 とにかく、泊まる所を探そう。
 フェリーに乗りシドニーの中心街へ行く。
この時、アメリカを横断した時を思い出す。
ニューヨークのステイタンアイランドで横断を終わってからフェリーに乗ってマンハッタンまで行ったものだった。
その時はフェリーから自由の女神が見えた。
今回はハーバーブリッジが見え、オペラハウスが見える。

 その後、オーストラリアに始めて着いた時、即ち、この旅を始める前に泊まったシドニーの中心にあるYMCA に行く。
驚いたことに、そこが火事で焼けてしまっているのである。
そこでは3ヶ月前ではあったが、数日間泊まった所である。
 仕方がなく、キングスクロスのホステルに行くが、5時までは事務所が開いていない。

 それで、オーストラリアに来てすぐに、お世話になったクイーズランド州タウンズビルのBill から紹介してもらった老夫婦に電話をかける。
そしたら、突然の電話にもかかわらず、今日から泊まらせてくれるというのである。
今日から2週間、この老夫婦の家で体を休めることにする。
早速、老夫婦に言われたとおり、地下鉄に乗り彼らの家を訪ねて行く。
大変落ち着いた住宅地で家の前に芝生のある素敵な家である。
そこでは歓迎してくれ何だか彼らの孫のような気がしてくる。

出費 A$3.05



8、オーストラリアを歩く-110

2010-04-26 08:28:26 | 日記
皆さん!久しぶりに投稿いたします。
私は現在韓国に住んでいて、この一ヶ月の間に日本から小さなヨットを買い、それを操縦して持って来たためにこのブログを更新できませんでした。
韓国に着きましたので、今後また投稿を続けます。
よろしくお願いします。

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日本をはじめアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドそしてシンガポールからヨーロッパのポルトガルまで歩いた旅行記です。
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8、オーストラリアを歩く-110

・日記 12-90

 1月26日 (水曜日) 曇り時々雨 時々晴れ  92日目

 蒸し暑い一日である。午前中は特に蒸し暑い。
これは昨日の雨が朝に蒸発してこういう現象があるのであろう。

 朝、一度止まり通り過ぎた車が戻って来て、ジュースと桃をくれる。
彼はミシンの会社で働いている人で、その会社では日本の物も扱っているのだそうだ。
だからか、日本びいきだ。
彼とはLiverpool というところを過ぎてもまた会う機会があった。

 Liverpool からは車が非常に多くやかましい。
ラジオの音も聞こえない。
その上、人々も多いので、背中に着けたいる「オーストラリア横断中」のサインは何だかサンドイッチマンの様な気がする。
何しろ大きな町をこの姿で歩くのは好きではない。

 今日は家が多くテントを張るところが見つからない。
仕方がなくモーテルに泊まろうと、安宿を聞き歩く。モーテルでは今はお客が満室で部屋が空いていないという。
また、価格を聞くと一泊40ドルと非常に高い。そんな訳で歩き続ける。
だから、今日も58km歩いてしまった。結局、明日最終日があまり歩かなくて良くなる。
とにかく、安いホテルを見つけ泊まる。

 その安ホテルに Korea の人が泊まっていて彼と話しを少しする。
彼は英語を俺より話せない。彼は日本語を少し話し、俺が日本語を話すとすこし分かるらしい。
彼との話で、彼はこの国は人種差別があると感じているという。
この国の一部の人は英国びいきで、慕っている。
また、その様な人は英国をまねて自慢もしている。
この様な人は馬鹿げていると彼は話していた。

 明日が最終日である。
リヤカーを引いた人が水を80リットル以上持って横断したオーストラリアを俺は9ℓの水で明日横断することが出来るのである。
それにしても多くの人が俺を助けてくれた。多くの人ありがとう!

出費 A$31.00



8、オーストラリアを歩く-109

2010-04-25 09:00:38 | 日記
皆さん!久しぶりに投稿いたします。
私は現在韓国に住んでいて、この一ヶ月の間に日本から小さなヨットを買い、それを操縦して持って来たためにこのブログを更新できませんでした。
韓国に着きましたので、今後また投稿を続けます。
よろしくお願いします。

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8、オーストラリアを歩く-109

・日記 12-89

 1月25日 (火曜日) 曇り時々雨  91日目

 昨日とまったく同じ様な天気である。涼しくて大変助かる。
しかし、服を始めいろいろな物がジトジトと湿気が多いようで気持ちが良いものではない。
(テント、寝袋、服などがジトジトである。)
今までの砂漠の苦労を考えると、こんなことぐらいで文句を言えるものではないのだが。。。。

 Bargo という駅の前を通り過ぎる時、Harold と Barbara という老夫婦に呼び止められいろいろな話しをする。
その内に彼らの家に来いと言い、その家で2時間ぐらい話しをする。
その彼らとの話しでは国鉄のストライキなどの話しをしてくれた。
今日から国鉄が動き出したが、その前10日間のストライキであった。
ストライキの理由が5~6人のお金の問題だったようだが定かではない。
また、この老夫婦は前にシドニーで働いていたが、今はリタイヤしてこの家に住んで余生を暮らしているのだそうだ。
この家の周りは木が多く良いところだ。
丁度、アメリカを歩いた時もその様な老人夫婦がいたし、そこも木が多いところであった。
リタイヤした後、都市を離れたところで住みたいというのは何処の国でも同じなのである。


Barbara と一緒に彼女の家で写真をとる。俺が黒く大変焼けているのが分かる。



老夫婦のHarold と Barbara。


 Picton という所からまた牧場が周りに広がる。そして、それに従い車の数も多くなる。
せっかくの静けさが壊れる。それでも高速道路のように車がまだ多くはない。
昨日はテントの中で静かに寝ることができたが、今日は昨日ほどテントを張る可能性が多くはないであろう。

 ホエブスの燃料を探しているのであるがなかなか手に入らない。
オーストラリアではその燃料をShellite という。(アメリカでは White Gasoline)
仕方がないので他の物を買って代用するが、煤が多く出て使いものにならない。
この代用して使おうとしている燃料の価格は1.25ドルで無駄にしてしまう。あ!勿体無い。
今後、シドニーまで歩く期間が2日だが、明日もう一度そのShellite を探してみよう。
何故なら、後2日間ではあるが紅茶を飲みたいからである。
こんなことを思うなんて、ずいぶん贅沢になったものだ。
あの砂漠の中ではそんなものを飲まず、ハンバーガーと水だけであったのに!
サラダ、塩、ペッパー、マヨネーズもなかった。
今から思えばよくその砂漠を越えられたと自分でも不思議に思う。

出費 A$7.30