十河城跡にたつ 称念寺副住職のブログ

高松市十川東町 浄土宗、称念寺の日常の様子や行事の紹介です。時々、十河城跡に関係することも書きたいと思います。 

称念寺の阿弥陀様(3)

2024年01月21日 | 日記
称念寺の阿弥陀様(3)

 時が330年ほどたった戦国時代、念仏の教えを伝えるため全国を廻っていた、称念という僧がこの地に来ました。称念はこの阿弥陀様がただ物では無いと感じ、村人に由来を聞くと、住蓮房ゆかりの仏様だと言うではありませんか。そこで、十河氏やご家来衆を檀那に、十河城下におまつりするための庵を建てました。場所はここより少し東側の低いところです。多くの信者が集まり、阿弥陀様の前でお念仏をするようになりました。
 しかし、天正10年にあの長曾我部との戦が始まります。伊予の国(愛媛県)も阿波の国(徳島県)も長曾我部に襲われ、多くの寺社が焼かれ、国を奪われています。讃岐でも次々と長曾我部に降伏・敗戦し、とうとう十河城だけが残ることになりました。四国全てが敵の状況です。想像しても恐ろしいです。
 頼みの綱の織田信長が本能寺で殺されてしまい、援軍は全然来ません。2年たっても戦況は膠着したままです。皆どんな思いで阿弥陀様の前でお念仏していたのでしょうか。
 いよいよ戦が激しくなる時、阿弥陀様をお守りしていた、庵主・里人は井戸の中に阿弥陀様を隠し、壊され焼かれることを防ぎました。ちょうど豊臣秀吉と徳川家康が小牧長久手で戦っている時、城内の人々の奮戦虚しく十河城は落城してしまいます。田畑は荒らされ、家は焼かれ、城方・土佐方共に多くの戦死者が出ました。けれども、もう戦は終わりました。
 残された者は次のお盆の前、7日に井戸から阿弥陀様を引き上げ、ご先祖様の供養と共に亡くなった方々の冥福を願いお念仏したのです。この7日のお参りは平成の終わり頃まで、お盆前の7日に夏まいりとしておこなってきました。称念寺の「なのかび」という縁日で、信徒以外の人も出店を楽しむ行事だったこともあるそうです。ただ、現在は暑すぎることから7月の休日に移しています。
 戦乱で失われることはなかった仏様ですが、水に浸かっていたので、塗は剥げ木地も傷んでしまいました。庵主は寄付を集め、阿弥陀様を修復することにしました。ようやくお金が集まり修復しようとしていたある晩、庵主専誉道順が寝ていると、泥棒がお布施や供物を狙って侵入してきました。すっかり寝込んでいる庵主は気付きません。すると、「道順!道順!」と呼ぶ声が聞こえます。道順が目を覚ましたので、泥棒は何も盗らずに逃げていきました。誰が起こしてくれたのだろうと、周りを見ても誰もいません。道順は阿弥陀様が起こしてくださったのに違いないと、この不思議を喜びました。こうして、阿弥陀様は修復され、新しい堂に安置しなおされ、皆の心のより所となりました。
 江戸時代になり、本堂を城跡に移してからは、現在に至るまでだいたいこの場所で過ごしておられます。
 ただもう一回、この阿弥陀様には危機がおとずれました。それは太平洋戦争のときです。昭和20年になるとアメリカ軍の飛行機が毎日昼夜問わずに飛来し、機銃掃射・爆弾投下・焼夷弾による絨毯爆撃されました。この辺りは、点々と並んだため池の水面の反射が目印にできるので、飛行ルートになっていたそうです。余った爆弾をルート上の軍事物のない所に落とされ、ただ歩いていただけの子供が機銃掃射されるようなことは一度や二度ではありません。数年前に建て替えられた本堂も、漆喰の壁が白く光って目標にされてはいけないと、墨でベタベタと汚しました。本尊様も本堂の蓮華座から前机に降ろされ、腰ひもを胴にかけた状態で安置されました。空襲警報が鳴ると、小学生だった現住職が背負って、防空壕に避難しやすくするためです。警報が解除されるとすぐに本堂に安置しなおしました。なぜなら、夫や子供が戦死しても人前で泣けない時代です。そっと本堂に入り阿弥陀様の前でお念仏する人が多かったからです。無事の願いを込めた紙を木魚の中に忍ばせる方もいました。阿弥陀様はその姿をじっと見ておられたのです。
 この地に来られて800年以上、称念寺の阿弥陀様は今もここに居られます。これから先も守っていかねばなりません。
 阿弥陀様が私たちを見守ってくださっているのですから。(終わり)