syuの日記・気まま旅

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頼朝を追い込んだ大庭氏の城址と真鶴・湯河原

2018-10-14 | 気まま旅
東海道53次の6番目の宿場「藤沢宿」
遊行寺の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点が藤沢。
清浄光寺(遊行寺)の東側に「江戸側の見附(江戸方見附)」
現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに「京都側の見附(上方見附)」があった。この範囲が「藤沢宿」である。
境川に架かる大鋸橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町・後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、
京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属したと云う。
清浄光寺・通称ー遊行寺、が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから、江の島道が約1里(約4km)の距離で
「江の島」に通じている。
八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている「白旗神社」がある。幕末には70軒以上の旅籠でさかえた。
「藤沢御殿」-徳川将軍家の宿泊施設は、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあったと云う。
慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられ、表御門は南側、裏御門は東側に、徳川家康、秀忠、家光と利用されている。
1682年、まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋などの地名がある。本陣は、1745年、までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。

「藤沢・大庭城址公園」へ
城は、12世紀、平氏の「大庭氏」の拠を、15世紀に入り「太田道灌」が本格的に築造した城跡。
その後、小田原北条氏が改修したと伝えられている。
周辺に、駒寄、裏門、二番構などの地名が残っていと云う。雄大な城が偲ばれます。
引地川と小糸川に挟まれ、掘りの役割をしたと思われる。
                            全体の公園地図


                            現在の周囲

「大庭景義(景能)」 鎌倉景正の曾孫にあたり桓武平氏支流・相模国の武将・兄弟に景義・豊田・「景親」・子に景兼(跡を継ぐ)
源義朝に忠誠を誓う。保元元年の1156年、「保元の乱」においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の「大庭景親」に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
1180年、「源頼朝」が挙兵すると、
弟の「景親」と袂を分かち。
頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。その後も、草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。
「藤原泰衡」を征伐する際、頼朝は、後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし「景義」が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用されたと云う。
後に「景義」は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ。
1193年、大庭景義は、同じ相模の有力武士の「岡崎義実」とともに、老齢を理由に出家したことになっている。
しかし、わずか2年後に「景義」は、「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」と
書面を奉じ、許されたとある。
                            公園前の道路


「大庭景親」 1180年前後  石橋山の戦いで、源頼朝を破った武将。
鎌倉景政の曽孫で、兄「大庭景義」と「源義朝」と共に白河殿攻撃に加わって、後白河天皇方に勝利をもたらしている。が
頼朝挙兵は、平家の恩に報いるため、兄「景能」と敵味方に。3000騎を率いて「石橋山」へ・頼朝軍を破っている。
頼朝が再び勢力を振るい再戦、平家軍と合流したが敗戦に、途中で頼朝軍と遭遇し捕らえられた。兄景能は助命を嘆願しているが景親は片瀬川で斬られている。兄景能は、鶴岡八幡宮奉行などで長老として仰雅れたとある。



「大庭城址」
平安時代の末期、この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景正(権五郎、景政とも表記)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていた。

城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。

大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。なおこれも大庭城(または大場山城、本郷城などの別称あり)との呼称が残っている。

                             公園入口


「扇谷上杉氏の時代」
扇谷上杉氏の家臣であり江戸城を築城した築城の名手「太田道灌」が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術と取り入れ築城工事をおこなったと云われている。
しかし、この後、相模を侵攻してきた「北条早雲」によって大庭城は落城し、この戦の「舟地蔵伝説」が残っている。

                            公園内から


「後北条氏の時代」
東相模を制圧した早雲は、大庭城を大改修したが、「玉縄城」を築城し、利用価値は低くくなる。
後北条氏が滅ぶと廃城に。
                         散歩道(誰もいない静かな公園)


戦国時代の大規模な空堀や土塁などがところどころに残っている。
公園として保存・周辺は湘南ライフタウンが開発。
                            緑に覆われた公園内


                  園内には、桜・藤棚・バラ園・紫陽花(6月)などが。


「原始・古代遺跡の集落跡」
原始・古代の集落遺跡
台地上に、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっている。
数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴住居や方形周溝墓・奈良・平安時代の
住居跡などが出土。
                     大庭城址公園 面積 11.8H2 


                 原始・古代集落跡が発掘された。(大昔からここで生活を)   


                         園内広場


                        城址説明板


                         空堀案内石


                       山斜面の「空堀あと」

          


                      掘立柱建物城址


                      井戸跡であったのでは?

                        
                        南口の山道


「舟地蔵」伝説。
台座が舟の形をしていることから「舟地蔵」と。
「北条早雲」が、大庭城を攻めたとき、沼地で攻め入ることができず、近くに住む老婆に「引地川の堤を切れば、沼地が干上がる」とを聞き出し、北条軍はそのとおりにして大庭城を攻め落とした。
しかし、 老婆から、秘密が漏れるのを防ぐため、城を攻めるのに先立って斬り殺されてしまったという。
一説には、その老婆を供養するために建てられたのがこの「舟地蔵」なのだと伝えられている。

                        舟地蔵

                     


             舟地蔵板ー北条早雲が攻めたときはこの一帯 沼地とある。


                         引地川水路


                   、公園外にも小さい遊園地があると云う(この範囲は城跡に)


湘南ベットタウン
藤沢市、西部土地区画整理事業と茅ヶ崎市、茅ヶ崎都市計画事業堤地区土地区画整理事業により誕生。
総面積は340.74H2、計画人口は45,000人とされているが居住人口は32,085人と云う。
昭和30年代の高度経済成長の下で神奈川県内は首都圏のベッドタウンとして開発が進んでいったが、それに伴って都市のスプロール化も進んでいった。
それを防止する目的で誕生したのがこの区画整理事業と云う。
1992年に完了し、(かながわのまちなみ100選に選定)
太い幹線道路に平行して生活道路・開発地内の農家をそのまま残していることが特徴で、(設計は黒川紀章)
子供たちの安全のためか、住宅街を車が通り抜けできないように、工夫して道路を配置している。
南の藤沢・辻堂方面、西の茅ヶ崎・寒川方面、北の湘南台・御所見方面、東の六会・善行方面のどこへいくのも長い坂が、そのため、競争がないため、ライフタウン内の物価は比較的高い傾向にあり、車とバイクが生活必需品と云う。
                       


「石橋山」ーJR早川駅海の向かって右の山。
源頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、「以仁王」の令旨を御旗に高く掲げさせた。
谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。
この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。



「大庭 景親」生誕不詳ー1180。
平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景政の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。
平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年の1180年、に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破。
安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。
頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。
大庭城は、大庭景親の居城・本格的な築城は、扇谷上杉家の定正に仕えた太田道灌が行ったとされている。その後、北条早雲によって攻略され小田原北条氏の支配下に置かれた。小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると廃城。現在は、大庭城址公園として整備されている。
大庭御厨・鎌倉権五郎景政が開発し、伊勢神宮に寄進した荘園。この辺りから茅ヶ崎へ至る平地は、当時の一等地であったと云う。
古くより大きな集落があったものと考えられている

「伊東祐親」生誕不詳ー1182。
治承4年の1180年、頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。



「源頼朝と伊東祐親」
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年の1159年、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
伊東祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図ったが。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家していると云う。

石橋山の戦いは、平家軍3000騎・源氏300騎(北条宗時・佐奈田義忠など討死している)


「源頼朝股肱の臣 土肥実平」
10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となり、富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられ、土肥氏と西国との関わりはここに始まる。平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を。

「小早川家の祖」
湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残され、土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いている。
遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏とし、土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となる。
土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600年の「関が原合戦」後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられ、しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶する。

「安達盛長」1135-1200 13人合議制の一人、三浦義明の弟、平塚・伊勢原、千葉常胤(下総介)を味方に付けた。


「真鶴・荒井城址公園」
源頼朝の挙兵以来活躍した「土肥実平」の祖父を「荒井刑部・実継」とする説がある。「城願寺縁起」。
荒井氏はこの付近に関係があったと思われ、城地の西の山裾にある福浦は、江戸初期まで「荒井村」と称していた。
頼朝らが「箱根権現」からこの真鶴・岩海岸で漁舟で千葉・房総へ向かっている。

1186年、当時の推定年齢、源頼朝(39)、土肥実平(61)、土肥遠平(36)、 土屋宗遠(58)、岡崎義実(74)、足立盛長(51)、新開忠氏(57)、(田代信綱(41)。
    

                   湯河原駅前    「土肥氏像」






















敗れた頼朝一行は、真鶴の岩海岸から千葉県房総へ。

遺跡の曽我兄弟と梅園

2018-10-12 | 気まま旅
「酒匂川」
二級河川、静岡県内では鮎沢川と呼ばれる。
富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野を南下、小田原市で相模湾へと注ぐ。
山間部から平野部に入るときに流れをコントロールし平野の中央を流れ、耕地を潤すように文命堤(岩流瀬堤、大口堤)が建設。
岩流瀬堤は、流れをいったん断崖に導き、大口堤は断崖からの流れを平野中央に、上流の御殿場市付近では、富士山のなだらかな裾野が広がり、流れが穏やかで護岸工事が施され、河川の上流といった雰囲気は乏しい。
中上流域の小山町から山北町にかけての県境付近の方が、谷が深く大きい岩や石が見られ、下流の足柄平野付近では川幅も広がり、周辺には水田や住宅地が多くなる。

「JR御殿場線」
明治22年、東京 - 大阪間を結ぶ「東海道本線」の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和9年、丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線となった。
鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。
第二次世界大戦中の昭和19年、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用。
しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。
大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには、不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行されたことも。
松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道の時代から小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっている。
JR化後の1991年、特急に格上げされ、それから2012年までの間は乗り入れ区間が沼津駅まで延長。

「二宮尊徳」 1787-1856 農政家 相模国足柄上郡の農家に生まれる。
16歳で両親を失う、後厳しい労働によって荒廃地を開墾し、それを小作人へ、農政の改革家として名声を得る。
関東の諸藩から招かれ財政改革を推進、56歳で幕臣に登用された。尊徳の少年時代は、重労働に従事し、夜は、「論語」を読み勉学し、灯明の油は、友達から菜種をかりて、夜間の学問に励んだ。百姓にも学問を・・。現在の小田原城内に、報徳二宮神社がある。天守閣南西、1893年建立・尊徳の遺品などが展示。
酒匂川と尊徳
酒匂川は地形的に急な増水が起こりやすく「暴れ川」として地域住民を困らせ ていた。
小学校の銅像で有名な二宮尊徳(金次郎)の生家は、酒匂川の栢山に、1791年の台風で酒匂川が増水し、堤が決壊し、生家も父の田畑も すべて流され
その後、父と母も亡くし、尊徳は親戚の家で苦労する。
元のような農地や家を取り戻すために、努力と工夫して 稼ぐことにより、自分の土地を復興させ、その後も、いろいろな事業で業績を。



私鉄小田急松田駅からJR御殿場線で曽我駅を下車しました。
「曽我」は、小田原の勝福寺・足柄の最乗寺・開成町・大井町・中井町・二宮町に囲まれた真ん中の村。

駅北東「曽我梅林」が、大磯丘陵の西・約2万本の「梅」が植栽されている。広さ20hã(2月から)




「最明寺史跡公園」花見見物
池の前の広場にはソメイヨシノとカンヒザクラ、池の周りにしだれ桜、山を 登ればオオシマザクラと一度にいろいろな種類を楽しめる。






                           JR下曽我駅舎


「傘焼祭」  5月の中旬
「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我十郎と五郎の傘焼きまつり。
曽我兄弟が仇討の際、闇夜の中を松明代わりに傘を燃やして見事討ち取った物語に由来する祭りで、
松明行列、曽我物語の浮世絵の展示、傘焼きと竹燈篭、武者行列(歌舞伎役者参加)や子ども相撲等で2日間行われる。
(両日とも浮世絵の展示や傘焼きが行われると云う)













                        一月下旬の梅


「宗我神社」
曽我祐信が再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守。
江戸時代には小沢明神と呼ばれていた。
1028年、曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社。
明治に入り、六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し「宗我神社」となる。
現在の社殿は、大正12年、関東大震災後に復興した。

宗我神社の神主の家に生まれた「尾崎一雄(1899~1983)」小説家。
昭和12年、第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章。
作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開いた。

   宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑ー富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれている。


 宗我神社-1028年宗我保慶が創立・1088年源義家奥州下向の際参詣・1416年小田原城主大森頼明鬼門鎮護、再建・1636年稲葉氏再建
      1869年「宗我神社」と定まる。
      「スガスガしく砂の上に吾等が祀り、農耕を豊かに」祭神ー宗我都比古命・女命






                       社殿




「五郎沓石」
曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、
源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行うので、この機会に日頃から親の敵と狙っている「工藤祐経」を討つ決心を。
五郎の沓石 城前寺近く. 曽我五郎がある時、足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないかと心配になり、ためしにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中あたりに残っていると云う。
この沓石には以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったという。


「工藤裕経」 1147-1193 父宇佐美の工藤裕継・妻は伊東氏から、官位 左衛門尉
平重盛から源頼朝。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。
1186年、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。
1190年、頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用されたと云う。
1190年、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた
15歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。
信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血、頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否。
祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている
祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる。
「曾我兄弟の仇討ち」
建久4年の1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加、巻狩りの最終日の5月の深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、
「曾我祐成・時致兄弟」が押し入り、
工藤祐経は、兄弟の父・「河津祐泰」の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。
騒動の後、詮議を行った頼朝は、曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されたとある。(吾妻鏡より)



「曽我兄弟」 兄祐成 1172-93 武士
       弟時致 1174-93 武士
伊豆の「伊東祐親の子河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族である「工藤祐経」に殺された。
河津祐泰の妻は、二児を連れて「曽我祐信」と結婚する。
兄祐成5歳・弟時致3歳・・・17年後、源頼朝が富士(富士宮)の裾野で巻狩りを行った夜、(白糸の滝)から宿舎に祐経を襲って父の仇を討つ。



兄祐成は、その場で、新田忠常に討たれる。
弟時致は捕らわれ、事情を述べたので、頼朝は許そうとしたとある。
しかし、工藤裕経の子が訴え殺されている。  頼朝は、兄弟の孝心に感動し、義父の「曽我裕信」に、兄弟の追善供養料として曽我荘の年貢を免除している。



「曽我物語」は、室町時代広く民衆に親しまれたと云う。



「城前寺」 曽我兄弟の菩提寺
寺は、1193年の建久4年、創建。
曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされる。
曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となった。

                       寺の境内から海岸方面


                       城前寺の本殿


                       曽我兄弟の墓






               

不落の小田原城と石垣山の一夜城

2018-10-09 | 気まま旅
1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。
これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させ、この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲。
                         石垣山登り口
  

氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。

「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
        小田原相談、評議、談合ともいう。

石垣の上に生えた樹木
  

四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。

            石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
    

6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。
小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇が、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。

「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」

罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。

愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。


「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。



小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。

  

稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。

「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。

  

重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。
                            春を待つしだれ桜
  

稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。

稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。

  

鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。

寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。

    

小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。

県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。

私鉄小田原駅


北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。

北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を          討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
          「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か          出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び          武田と同盟せよと遺言して没した。

公園全体図


小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。

馬出門


小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

駅前にある「つちあげ」の碑       蓮池堀           堀
    

二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。

城前の堀と橋              めがね橋
  

北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
           攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
           幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。

                                  馬出門から見た天守閣
    

北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
           実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
           「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。

北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
           で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
           翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。

                            城跡内の梅並木(3分咲き)
   

北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
           奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
           氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。

城内から見た堀          井戸・ 馬屋曲輪付近に                 雁木
    

三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。

昔の銅門
    

二の丸御殿                      城内には古木が
    

小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。

            銅門の土台石              壁の内臓            
  

堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。

武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。

「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。

    

「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。

本丸に一番近い堀跡      二の丸から本丸へ      石垣山方面     
  

北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)

                             珍しい「銅門」
    

1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。

「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。

           本丸                       城内へ
    

「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。

秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。

相模湾方面                        神社近くの曲輪北堀
    

石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。

本丸を囲む石垣            駅側は発掘調査中         貴重な資料が
    

箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。

庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。

発掘裏に弁財天石像が、           城山競技場方面、間に鉄道道路が
  

「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。

小田原駅に近い商店街の隅に
    

北条氏の寺がここに
  

「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。

城跡公園と隣接にある
    

箱根湯本 北条氏五代の早雲寺

2018-10-04 | 気まま旅
「小田原宿」は、東海道五十三次の9番目の宿場、江戸を出て最初の城下町にある宿場。

箱根駅伝は、国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。
箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。
大正6、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー、東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となったと云う。
東海道駅伝の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたという。
第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われた。

                  箱根鉄道は、国道一号線に沿って。


「居神神社」
北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主「三浦荒次郎義意」が、永正15年の1518年、に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま
3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったという。
江戸期には、山角町・板橋村の鎮守社・明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したと云う。

                           鳥居


祭神ー三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命 ・境内社ー水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社 が。

                           社殿




「古碑群」最も古いもので、鎌倉時代末期のものと云う。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたもの。
五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転。
形状等ー「古碑の種類 碑の高さ(cm)」
五輪塔線刻碑 三九,五・ 文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)・ 五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)・ 五輪塔陽刻碑 四八,〇
(小田原市教育委員会掲示より)



「北条氏綱」 早雲の子 小田原北条二代目。
                    「勝って兜の緒を締めよ」の碑


「石垣山城・一夜城」
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる。
記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には
「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。

                一夜城の遠景


「紹太寺」-入生田駅、黄檗宗の寺、山号長興山
小田原藩主稲葉正則が両親の為城下の旧山角町に建立。が安政年間の大火で焼失、1669年現在地に「稲葉一族や春日局の墓所になる」
天然記念物の樹齢320年枝垂れ桜が。

   箱根登山鉄道線「箱根湯本駅」小田原・板橋・風祭・入生田・箱根湯本の5駅


箱根湯本駅は、明治11年 - 軌道線・後の小田原市内線、が湯本へ乗り入れ。大正8年、 鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。
昭和10年、 鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止し、昭和25年、 小田急車両の乗り入れが開始。
昭和57年に、小田急の大型乗り入れ。


「早川」
早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。
各支流は河床勾配が大変急、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

               早川ー二級河川 延長ー20.65km・面積ー80.59㎡

                    
「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都伊勢氏説が有力と云う。
名は、長氏、新九郎・駿河国今川氏から「興国寺城・下田に近い」を貰い、伊豆国に乱入、堀越公方の子茶々丸殺害し、一国平定した。
後に「大森氏・小田原城」を奪い・三浦氏・新井城を滅ぼし「相模国」併合する。
大森氏攻撃は、贈り物をして城主「大森藤頼」の信用を得てから、早雲は、「伊豆国で鹿狩りをしたら、鹿が皆そちらへ逃げてしまったので、鹿を駆り
たてる「勢子」を入れたい」と頼み込んで「勢子」を小田原に送り、その勢子は、変装した兵であったと云う。
北条軍は、夜襲で知られているが、早雲の時代からであった。

                   農民への租税は「四公六民」の善政


「早雲寺」
早雲・遺命により北条家2代の北条氏綱が大永元年の1521年、箱根湯本に創建した北条家歴代の菩提所。

                          臨済宗大徳寺派の古刹。


「北条氏綱」 1486-1541 小田原北条二代目 北条五代の基礎を築いた。
鎌倉幕府の執権北条氏にちなみ改姓・扇谷上杉「朝興」を破り武蔵国を制圧。今川氏・里見氏を圧迫して領土拡張する。
下総国国府台で、足利義明を討つ。古河公方「足利晴氏」に娘を嫁がせる・鎌倉八幡宮再建。
諸国から商人が集まり大変な賑わいだったと云う。小田原名産「外郎・薬」発祥、広めた。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。

「北条氏康」 1515-1571 三代目・北条家発展に導いた名将。
山内上杉氏武蔵国河越破り、古河公方を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄、上杉謙信と抗争と同盟を繰り返す。税制改革・地検推進
北条重臣「北条綱成」の守る河越城が、囲まれ、氏康兵8千を率いて何度も援軍に向かうが、その都度わざわざ退却する。が、
敵が安心したゆるみを見て「夜襲」し連合軍を撃破し潰走させている。世に云う「河越の夜戦、日本夜戦の一つ」上杉氏は、頼りにならない武田信玄と同盟を結べ遺言し没している。

「北条氏政」 1538-90 四代目 下総国国府台で里見・太田連合軍を破る。北関東へ勢力拡大、上杉・武田同盟・断交繰り返す。
氏直に家督を譲るが実権を握る。父氏康は、氏政食事時「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙した云う。山積みの麦を見て「すぐに
麦飯を作れ」と家臣に命じた、これを信玄が聞き「麦はこき、こなし、ほし、つきて食にするもの、すぐには食えん」と世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、一条戻橋に晒された。

「北条氏直」 1562-91 五代目 幕引き
本能寺の変後、上野国にいた信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡を占領する。甲斐国で家康と争うが講和し、娘「督姫」を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。高野山追放・後1万石で大阪に住むが30歳で没している。
妻と別れ際、早雲が武運祈った「勝栗」の半分渡し「一族で、世に出るものあれば渡してくれ」と頼んだと云う。

                           老木が


                            本堂


                          清閑な境内


                        早雲の墓石 5代の墓 


「今大路道三幻鑑之墓」 徳川二代将軍秀忠公侍医
                          寛永3年50歳で没


「北条幻庵」 1493-1589 北条早雲の三男・北条5代に仕えた一族の長老・幼少で僧籍、三井寺で修行
北条軍の一将で国府台の戦い・平井城攻めに参加している。また歌会を開く文化人でもあったと云う。作庭にも秀でていた。
97歳で没した。娘が嫁ぐ際、彼女に渡した「礼式心得・北条幻庵覚書」は、一級史料。

                       幻庵の庭園




                         惣門

                        早雲寺鐘楼


「弥坂湯」で知られた坂。
地元の湯場、2~3人がせいぜいの小さな温泉共同浴場。
箱根の旧東海道沿い、地元住民中心に愛されている。
弘法の湯と程近い。 中は木造作りで狭く、いかにも共同浴場の雰囲気で、浴槽は、共同湯らしく内湯のみ。
泉質は単純温泉で消毒のみ行っている模様。源泉温度は48.7度と高いがそんなに熱くないと云う。
場所が箱根中心街と離れていることもあり観光客があまり来ないので、ゆっくり入浴可能。

 

箱根 ロープウエイで白煙立ちのぼる大涌谷

2018-10-02 | 気まま旅
「箱根八里」
明治34年、中学唱歌に初出の唱歌・「鳥居忱・作詞、瀧廉太郎作曲」
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。
東海道では大井川とともに難所として知られ、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。
李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれていると云う。
歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で、王朝の死命を制する要衝として有名。
漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを・・・。

箱根の山は、天下の嶮・ 函谷關も ものならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか・一夫關に当たるや、萬夫も開くなし・天下に旅する剛氣の武士・ 大刀腰に足駄がけ・八里の碞根踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士。
箱根の山は天下の岨・蜀の桟道數ならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか・一夫關にあたるや、萬夫も開くなし・山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)・ 猟銃肩に草鞋がけ
八里の碞根踏み破る・ かくこそあるなれ、当時のますらを。

箱根湯本ー塔の沢・大平台・宮ノ下・小涌谷・彫刻の森・強羅














強羅ー早雲山 ケーブルカー約10分


早雲山 標高1151m・強羅は、神奈川県箱根町県の南西部、早雲山は北部に麓に温泉地が、地名は岩石がゴロゴロしている所から。
箱根登山電車が湯本から強羅間の開通が1918年で新しい。箱根観光の中心になっている。公園・美術館・スケートリンク等がある。



箱根火山最高峰神山・駒ヶ岳・二子山は、第一期火山活動中に起きた断層が中心で火口丘形成された。
最後の大きな活動は、約3000年前の神山北斜面の水蒸気爆発で、その土石流が「早川」の上流を堰き止めて、「芦ノ湖」が誕生。
仙石原は、その砂粘土が堆積してできた。
現在の大涌谷や早雲山はその後、噴気活動している。











早雲山ー桃源台 ロープウエイ約20分芦ノ湖へ空中散歩



箱根七湯ー湯本・塔の沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯(早川渓谷の谷底に自然湧出)





大涌谷も箱根町の北部、硫気孔郡のある谷で、上部を閻魔台・下部を地獄沢と呼んでいたが、1873年、明治天皇行幸で「小地獄を小涌谷・大涌谷」
に改名している。中央火口丘が神山、高1438m・箱根ロープウエイの大涌谷駅前に自然館と観測所が併設している。















冠ヶ岳 標高1409m。


「姥子」下車