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頼朝が眠る古都鎌倉へ 八幡宮から

2018-10-21 | 気まま旅

鎌倉には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡もあり、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。
万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていた。律令体制下、相模国鎌倉郡の行政の中心となった。
蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。
これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた。平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。
しかし、鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降である。
奈良時代から平安時代中期にかけての鎌倉の実情については、資料が乏しく、あまり明確ではないと云う。
1063年、源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。
この年は、頼義が陸奥の安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。
頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。
そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。
これが今も鎌倉の中心である「鶴岡八幡宮」の起源。
それから1世紀以上経た治承4年の1180年、頼義の玄孫である「源頼朝」が鎌倉入りした。
頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、
「平治の乱・1159年」で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。
これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる「池禅尼」の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある
伊豆の「蛭ヶ小島」へ流された。
それから20年後の1180年、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。
頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。
関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。
現在の鶴岡八幡宮の東方、清泉女学院小学校のあたりがその館跡で、ここは後に「大蔵(倉)幕府」と呼ばれるようになる。
同じ1180年、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地。

源氏の守護神として崇拝された八幡宮は、当初は簡素で鶴岡若宮のみであったが、次第に山門、鐘楼、経蔵などが立ち並び、神仏混合の寺として伽藍配置が整っていった。1868年神仏分離令により仏教関係は取り壊され現在の形になった。

「段 葛」だんかずらー鎌倉の中心を南北に貫く若宮大路の中央、二の鳥居と三の鳥居を結ぶ土盛された歩道は、源頼朝が1182年妻政子の安産を祈願し、鎌倉の都市整備として造営、昔は一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。

段葛の歩道                                    三の鳥居
                 

「源平池」太鼓橋の両側に広がる瓢箪池東が源氏池三つの島がある、西が平家池四つの島がある。三は産、四は死に通じ源氏の繁栄と平家の衰亡を祈ったと伝わる。源氏池の中島の旗上弁財天社は、幕府軍がここで旗揚げ戦勝祈願したところ。

源氏池                                    平家池
  

若宮「下宮」は、国の重要文化財、頼朝が鎌倉入りした時の若宮で八幡宮の起源、現在の朱塗りの流権現造の若宮は、
1624年三大将軍徳川家光が着工を命じたもの。

本宮「上宮」は、源氏の氏祖神である八幡大菩薩を主祭神とするもの。現在の社殿は1828年11代将軍家斉が造営したもの、国指定重要文化財
 入館料¥100。

下宮                                     本宮
  

国宝館は昭和3年開館、八幡宮の弁財天像、円応寺の初江王像、建長寺の北条時頼像など約3500点の文化財が保存されている、入館料¥150。

神苑牡丹庭園は、源氏池の畔に1万㎡の広大な庭園、約2000株の春牡丹が見られる。

鎌倉国宝館                                 ぼたん庭園入り口
  

鎌倉観光の中心鶴岡八満宮を参拝して、静かな住宅街をのんびり歩いていくと、源頼朝の墓のある白旗神社の前に出た。
源頼朝の墓は源氏ゆかりの地、大蔵山の中腹にある。高さ2m程の石塔。

1199年53歳で亡くなった。ここは生前に持仏を祀る法華堂があった場所に遺体を安置したと言われ、1779年薩摩藩主島津重豪によって整備され現在の姿になった。(国指定史跡)

この階段を昇ると正面に頼朝の墓                      頼朝の墓
            

中国地方の毛利家の祖 毛利孝光、薩摩の島津家の祖 島津忠久、京で実務官僚頼朝に招かれた実務官、大江広元「やぐら」の墓があると聞いていたが見つけることができなかった。

九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ日本三天満宮の荏柄天神社、創建は1140年と伝わる。鎌倉時代大蔵幕府の鬼門の鎮守として崇拝された。

祭神は菅原道真。境内には道真が愛した梅が、約100本植えられている。拝殿の右手に大きい絵筆塚があり、鳥居の近くに神木の銀杏があった。

                                    荏柄天神社 本殿
            

横山隆一など漫画家154人の絵筆塚                      神木としての銀杏
               

明治2年明治天皇の勅命で創建された官幣中社、後醍醐天皇の第一皇子「大塔宮護良親王」の祭神、大塔宮とも呼ばれている。
幕倒として大将軍になるが、後足利尊氏と対立28歳で殺害され、親王の首が棄てられた場所が今でも残っている。

10月境内で鎌倉薪能がある、市民の間で人気。
                                    鎌倉宮 社殿
                 

永福寺跡は奥州征伐の際、奥州藤原氏の中尊寺、毛越寺などの荘厳さに感動した頼朝が、義経、藤原泰衝らの冥福を祈ると共に、幕府の権勢を示す目的で1191年永福寺を創建。頼朝の三大寺院の一つ、1405年炎上。現在発掘調査中。

            

96代「後醍醐天皇」(1288-1339)親政を試みた最後の天皇で、足利尊氏が幕府を開き97代光明天皇を即位させ、その後南北朝が成立抗争、上皇は京都には入れず吉野で没した。公家政権の復活は以降無い。

「護良親王墓」
160段の急な階段を上り詰めると玉垣に囲まれ、印塔がある。後醍醐天皇の皇子父と共に倒幕運動征夷大将軍となり、1335年幽閉翌年足利直義の令で暗殺、首は草むらに投げ捨てられていたと言う。「理智光寺」の僧が手厚く葬った。

            

「瑞泉寺」
北条高時(1303-1333)執権北条貞時の嫡男、14歳で執権、24歳で降りたが権威は持った。新田義貞に鎌倉攻略され自害、870余人が死出の旅路を共にしたとある。政務に興味なく闘犬に明け暮れた。
第九代執権北条貞時の夫人や、第14代高時に深く帰依された「夢窓疎石」が、1327年臨済宗の寺として創建。

その後足利基氏が中興、本堂には徳川光圀寄進の先手観音が祭られている、地蔵堂には「どこも苦地蔵」が安置、どこに逃げても苦は同じと夢に出てお告げが有ったと言う。本堂裏には、天女洞、池、中島と鎌倉禅宗様式の古寺。豊かな自然に囲まれ、人は疎らで、ゆっくり見て回れた。

            

境内の踏み石                                絵のような山門
            

吉田松陰 留跡石碑                             書院
            

庭の約束事を全て備えた池泉式庭園、かつては草木に埋もれていたが、昭和44年に古図面を基に復元された。

             

禅の思想を伝える石庭 天女洞                        岩盤を巧みに削り造られた貯清池                            
             

「覚園寺」
1218年第二代執権北条義時が大倉薬師堂を建立。1296年貞時が元寇の難を逃れる祈願の為智海真慧を招いて建立し覚園寺と称したと伝わる古寺。

北条の後足利氏の祈願所として栄えた。足利尊氏の直筆の文字も堂宇に残っている。本尊は阿弥陀三尊「国の重要文化財に指定。堂内には、三尊像を取り巻くように12体の神将像が安置されている。

覚園寺 山門                                   印塔                                
             

北条義時の伝説が残っている。
源実朝が暗殺された右大臣拝賀の儀式で、義時は、白い犬の姿を見て気分が悪くなり、一人屋敷に戻った。
戌神将が白い犬に姿を替え、義時に暗殺の危機を告げたと「吾妻鏡」は記している。

本堂                                    新緑の境内
  

太平記の悲劇を思いながら歩く古寺は、やはり趣き深いものがある。瑞泉寺は花の寺として有名だが、今回は新緑が美しい。花まではまだ間がある。

「杉本寺」は、坂東札所第一番鎌倉最仏地「大蔵山」鎌倉二十四地蔵霊場四番・六番。鎌倉駅北東の二階堂にある天台宗の寺 山号「大蔵山」、開山行基、中興開山円仁と伝わる。743年創建、鎌倉で最も古い寺、大蔵観音、杉本観音とも言われている。

本尊 木造十一面観音像2体(伝円仁、源信作)。

文治5年燐家火災類焼の際、本尊庭内の大杉の下へ火を避けた。それにより杉の木観音と呼ばれるようになったと言う。「吾妻鏡」。

                  杉本寺 山門
                  

光明皇后が、大臣藤原房前と僧行基に命じて建立、行基自ら十一面観世音を安置とある。
851年僧円仁(慈覚大師)も十一面観世音を刻み安置し坂東第一番の札所と定めた。

仁王像
            

建久2年源頼朝公が再興立像七尺の十一面観世音を寄進している。
言い伝えによると信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者は、必ず落馬すると言うので下馬観音とも言われた。

光明皇后(701-760)夫聖武天皇、藤原不比等の三女、仏教興隆に尽くし病人孤児を救う。
藤原房前(681-737)天皇の側近官僚、和歌、漢詩多く残す。世渡り上手といわれた。

丘陵から見る雪ノ下町方面                      本殿
  

大蔵山30m比高、寺の背後裏山に杉本城跡があったと聞いていたが判らず残念であった。
ここは1337年北畠顕家、新田義興等の鎌倉攻めの軍勢が攻めて、朝比奈方面の守りとして斯波三郎家長以下300名が、
ここで激戦全員討死、落城した。

℡0467-22-3463   拝観料¥300

11面観音上り旗                                      数多い石仏と苔むした五輪塔
                    

大蔵幕府跡は、1180年頼朝が鎌倉に入り、まず最初に居を構え幕府を開いた、武家社会の発祥の地。源氏の頼朝、頼家、実朝の三代と尼将軍政子が幕府を治めた(46年間)。度々大火で焼失、石碑のみになった。

大蔵幕府跡                                        幕府跡石碑
            

杉本城跡地があるが。