syuの日記・気まま旅

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鎌倉は歴史の町、寺の町

2018-10-19 | 気まま旅
「鎌倉府」
後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。
実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。
観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。
管国は関東10か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)で、1392年に陸奥・出羽が追加された(ただし、1400年に奥州探題の設置によって陸奥・出羽両国に対する鎌倉府の権限が事実上削減される)。
鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏はやがて対立し、1439年の「永享の乱」では、関東管領・上杉憲実、幕府・足利義教と戦った第4代鎌倉公方・足利持氏が敗死し、鎌倉府は長官が一時不在となった。
その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方となるが、享徳の乱で室町幕府・上杉氏と再び対立。上杉氏援軍の今川範忠勢に鎌倉を占領されると、本拠を下総・古河城にあらため、鎌倉府は古河公方・成氏の古河府へ継承された。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(義教の子)を派遣したが、上杉氏との確執から伊豆の堀越御所に根拠を定め(堀越公方)、源頼朝の時代から東国政治の中心だった鎌倉には入れなかった。

「日蓮宗長勝寺」
長勝寺の近くに1253年の創建の「安国論寺」(日蓮は北条時頼宛てに「立正安国論」を提示)がある。長勝寺は山号石井山、本尊大曼茶羅、大本山本圀寺の旧末寺、日蓮が草庵を結んだひとつで1263年創建「石井長勝」開基、長勝はこの地の領主で、日蓮に帰依し名がついた。

                                       山門
            

日蓮(1222-1292)鎌倉時代の僧、論号立正大師、千葉安房小湊、12歳で仏門に入る。
諸宗を学び「法華経」のみ末世の国家の平安もあり得ることを悟り1253年日蓮宗を開く、

各地辻説法で他宗を激しく攻撃し論破した。
1260年「立正安国論」を幕府に献じ、国難を予言した、「南無妙法蓮華経」の唱題による成仏を説いた。鎌倉、佐渡に流され、甲斐の身延山、最後が大田区の池上で没している。
               四天王に囲まれた日蓮上人
               

本堂前にある日蓮像は、高村光太郎の父光雲作、周りにはそれを守るように等身大の四天王像が立っている。
本堂左手の祖師堂は、法華三昧堂とも言われ室町時代の唐様建築で県の重要文化財に指定。

石仏                                     鐘楼
               

境内は自由に入れる。赤木圭一郎の供養碑がある。

祖師堂                                    新緑の本堂
               

坂東33観音3番札 「安養院」                          山門
             

北条政子(1159-1225)尼将軍源頼朝の妻、伊豆の土豪北条時政の娘、頼朝流人時代結婚、頼朝亡き後、長男頼家が将軍。
政子は尼に、父時政、弟義時等と北条の権力拡大を図る。
次男の実朝を将軍にして、その後見役として幕政に参画、弟の義時を二代執権とした。公家政権が弱り武家政権が確立、頼朝の恩義を説いた演説は有名。
安養院は笹目ヶ谷の真言律宗「長楽寺」が前身で、政子が頼朝の菩提を弔うため1225年建立、後に寺名を政子の法名「安養院如実妙観大禅士」にちなんで改めたという。政子が頼朝と結ばれたことで、恋愛成就の御利益があるともいわれている。

境内には樹齢700年の巨木、ツツジと見所多く、別名ツツジ寺とも呼ばれている。鎌倉最古の石塔と、政子の供養塔がある。 拝観料有料。

本殿                                           境内
             

日蓮宗 「上行寺」     寺号法久山1313年創建 山門の龍の彫刻は左甚五郎作・井伊直弼を討った水戸藩浪士広木松之助のゆかりの寺、通善和尚が匿った、2年後切腹。
法華堂は、妙法寺から移築されたもの、七福神が祀られている。瘡守稲荷は、政子が頼朝のため参拝している。                                               
                 日蓮宗 上行寺
                 

源義光(1045-1127)頼義の三男 常陸佐竹氏、甲斐武田氏の祖。後三年の役で、兄が苦戦と聞き朝廷の許可を得ずに奥州へ赴いた為左衛門尉を解任されている。
八雲神社は、石鳥居の鎌倉最古の「己除開運」の神社と言われ、寛文10年鎌倉で疫病が大流行、多くの人々が苦しむ様子を見た源義光が、京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まりと伝わる。
地元では「八雲さん」「お天王さん」と呼ばれ親しまれている、鎌倉駅徒歩約7分。

八雲神社 鳥居
             

鎌倉の市名の由来は諸説あるが「かま」洞窟、「くら」岩の意味が定説。前後の起伏に富んだ丘陵に三方囲まれ、一方は海、現在は盆地に住宅が密集。
道路は京都の制度を取り入れ東西、南北に大路が広がっている。

「本覚寺」山号妙巌山 本尊釈迦三尊像 日蓮宗 鎌倉駅東口に近い。足利持氏が、鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進したとある、鎌倉時代の刀匠岡崎五郎正宗の墓もある。
久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨している、東身延とも呼ばれている寺。鎌倉七福神夷様駅に近いのか近隣の住人、学生、主婦などが境内を通り抜ける姿もあり、オープンな寺。

本堂でドラのようなゴーンと言う音はかなり大きい音、山門を潜ると右手に八角の堂がありこれが夷神堂。源頼朝が裏鬼門として夷神を守り神として祀った。

「本覚寺」                               山門
             

鎌倉七福神はこの本覚寺が夷さま、鶴岡八幡宮が弁天様、長谷寺が大黒天、浄智寺が布袋、宝戒寺が毘沙門天,妙隆寺が寿老人、御霊神社が福禄寿。
本覚寺には樹齢100年のサルスベリの巨木が2本ある、しだれ桜も見事。

本堂                                  鐘楼
             

大巧寺は「おんめさま」の呼称で親しまれている日蓮宗の寺。頼朝の作戦の祈願所が12箇所あり「大行寺」といった。
特に平家に大勝した作戦が成功したので大巧寺として、1320年現在地にまとめた。
安産祈願でも有名、若宮大路に面し漆塗りの門、境内には季節の花が楽しめる寺。

「大巧寺」                                 境内    
  

小町通りは、鎌倉駅東口から鶴岡八幡宮へ、若宮大路と平行して約600mの通り、通り沿いや裏路地に約200軒以上のショップ、
レストラン、和、洋菓子店、陶器屋、などバラヱテイに富んだ店が連なっている。

鶴岡八幡宮 三の鳥居                  小町通り


鎌倉府ー京都扶持衆・幕府との対立激化、上杉禅秀の乱で禅秀に与した関東武士は、鎌倉公方・足利持氏からの弾圧から逃れるために、幕府との結び付きを強め、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。
一旦確立した鎌倉府管轄国の内部に、幕府があからさまに干渉を始め、持氏は危機感を強める。
持氏は鎌倉府管轄外だった越後、信濃、駿河に干渉して、逆に「鎌倉扶持衆(関東扶持衆)」と呼ぶべき集団を形成し、鎌倉府と幕府との対立が深まっていった。
「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」に、1428年、将軍・足利義持が後継者不在のまま亡くなり、1429年、くじ引きで選ばれた「足利義教」が新たな将軍となる。
鎌倉公方・足利持氏は、自らが将軍になる野心を持っていたため、京都の幕府・義教との関係はさらに悪化。
1438年、持氏は京都との調停役となっていた関東管領・上杉憲実討伐を始めた(永享の乱 )。
しかし幕府が軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐に失敗して降伏。
さらに義教は憲実の助命嘆願も無視し、1439年、持氏と嫡子・義久を攻め滅ぼす。
このとき持氏に対して厳しい姿勢を示した義教も、鎌倉府そのものは否定しなかったと云う。
新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉に下向させ、鎌倉府を再興させようとする。
この構想は、1441年、義教暗殺(嘉吉の乱)により白紙化されるが、1447年、鎌倉府は持氏の遺児・足利成氏のもとで再興。
「永享の乱」とその後の「結城合戦」を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。
しかし、対立は解消されないまま、成氏は、幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年の1454年、に始まった「享徳の乱」にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した。崩壊した「鎌倉府」古河公方・古河府に継承された。