syuの日記・気まま旅

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伊能忠敬 17年間43000kmの男 佐原

2018-06-17 | 気まま旅
江戸との交流によって、文人墨客達が「佐原の街に滞在」。

「伊能忠敬」 1745-1818 50歳で隠居し、天文学者高橋至時の門下となり「測量術」を習得、17年かけて全国測量を行う。
「大日本沿岸輿地全図」編纂する。

「山県大弐」 1725-67 尊王思想の先駆けとなった浪士で、甲府の与力の子として生まれている。27歳で浪人、儒学・兵学を講じて門弟を集め
「柳子新論」を書いて、尊王大義を説いた。幕府謀反の嫌疑を受け捕縛され、処刑された。吉田松陰らに影響を与えた。

「小林一茶」 1773-1827 俳諧師・俳人、信濃国の農民の子、15歳で江戸に出って奉公人に、「我と来て 遊べや 親の無い雀」8歳児の句
父死後、継母らと12年間遺産相続で争う。最後は大火で家を失いその土蔵で死の床に。

「松尾芭蕉」 1644-94 旅の俳諧師・俳人 伊賀国上野城下町で生まれる。23歳で俳諧師の道に、自立し「奥の細道」の旅に出る。
最後の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ回る」大阪で客死した。

「渡辺崋山」 1793-1841 江戸後期の武士・画家、三河国田原藩士、後家老、蘭学に親しみ、「谷文晁」に画の才能を引き出される。また、朱子学
を学んでいる。昌平坂学問所にも通い「佐藤一斉」の指導を受けている。
(谷文晁 1763-1840 老中の武士・絵師・狩野派の画法を学ぶ・後半生は衰退期と酷評されている。)

「勝海舟」 1823-99 幕臣 本所生まれ、神戸海軍操練所長し徳川家存続に尽力、江戸無血開城した。

 「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」      忠敬没後3年目の画像


行動・功績は、異能の地理学者か地図学者の大先達。

                   伊能忠敬像


7歳で母に死なれた忠敬は、養子だった父は、実家に戻ると、一人残されて苦労したと云う。1762年18歳で佐原の伊能家の婿養子に入る。

                   街の中心的忠敬橋


伊能家は、米問屋・酒造・運送などを営む旧家であったが、「天明の飢饉」・凶作で、自家の米・金を供出し、家運は不幸続きであったと云う。
忠敬の勤勉な努力で実り、盛り返し、栄えたと云う。

             小野川・忠敬橋中心にした街並み地図


忠敬出生地は、県九十九里小関・海岸から3km入った農村、徳富蘇峰筆の碑が立っている。

                 小野川沿いの柳が年々大きく成長


「一身にして二生を経る」50歳を境に全く異なった分野で活躍を。

                  二人分の人生を送っている。












                     史跡ー旧宅と店舗


                       昔ながらの宿


忠敬の天文学的測量についての勉強は、家督を長男に譲り隠居し、江戸に出て「幕府天文方、高橋至時」の弟子になってからのものである。
高橋至時32歳・忠敬51歳である。
                         旧宅の土間


                          座敷


車の回転数から距離を算定する「量程車」が用いられた。



旅行日数、17年間・3700日を超え・距離約4万3000km・自費半分以上補足している。

                      山の頂上を基点


忠敬死後3年目にして「大日本沿岸輿地全図」は完成した。

                      明治以降も活用された。


佐原の大祭 無形文化財の鷹山車

2018-06-13 | 気まま旅
「佐原市」
古代の佐原は、下小野貝塚(縄文中期)・大倉南貝塚(縄文後期)、橋替貝塚(縄文後期)などが発見されている地域。
牧野と津宮では丸木舟が見つかり、全体的な遺跡の分布としては、市の東部(香取地区以東)および西部(大戸神社周辺~西和田)に多いと云う。
沿岸部では香取海での漁猟が中心と推定される。
飛鳥時代の佐原は、「下総国の香取郡」海上郡に属し、649年の大化5年、「香取神宮の神郡」となった。
佐原の地名は、香取神宮の祭りに使用する土器、「浅原(さわら)」を造って納めていたので「サワラ」という地名がついたともいわれている。
「サワラ」という地名は「浅原」、「左原」、「砂原」、「沙原」などとも書かれるが、1218年、古文書に「佐原」という文字が最初に登場する。
中世に入り、千葉一族、矢作城主・国分氏」支配し、1590年、矢作城は、落城、その家臣「伊能氏」が帰農し開拓していく。
江戸に入ると「十六島」の新田と利根川のデルタ地域の開発によって、耕地拡大し発展した。
南部の台地上では、「牧」が開かれている。
近世初頭に徳川家康は、江戸幕府の防衛上の開発を進め、四万石の「矢作城」は、譜代家臣の鳥居元忠を配し、元忠は、「岩ヶ崎城」の築城に着手したが、伏見城での元忠の死などにより、結局完成を見ずに廃城となった。
その後は、分割され、幕府直轄領や旗本領・大名領が混在している(ただし大名領となった土地は少ない)。江戸後期になると、小野川周辺は利根川舟運の中継地として栄えた。 
利根川水運が発達し、東北諸藩の年貢米は物流の集積地としても繁栄、交通・経済・文化の中心となった。
気候も温暖で平均14℃で・風向きも夏は南方・冬は北方の比率が高く、水に恵まれ北総の中心地を誇ってる。

                佐原大祭・国宝無形文化財指定ー仁井宿区「鷹山車」


                       JR「佐原駅舎」


7・10月の年2回、佐原の街が熱気であふれる「佐原の大祭」は、約300年の伝統を誇っている。
夏祭りは、7月10日 金土日曜日ー山車10台が豪快に街を曳き廻される。秋まつりは、10月の第二土を中日に金土日ー14台が。
八坂神社の夏祭りは、小野川干菓子側に鎮守、社宝に「祇園感応天王宮、神祇伯資延王」の扁額がある。
秋の諏訪神社は、川の西側、新宿に鎮守は、伊能氏氏神として奉還したのが始まりと云われている。社殿は1853年造営され「航海・市・酒」神。

                   ユネスコ無形文化遺産登録・佐原の山車行事


         高さ9mの山車や江戸時代の名工の手で造られた大人形・彫刻などの飾りつけも。




国道51号線、利根川水郷大橋を成田方面に向かうと、町を流れる小野川も並行して流れ、その間にJR佐原駅ある。
利根川から小野川の最初の橋が356号線の北振橋・万代橋・新橋・小鮒橋・開運橋・中橋・共栄橋・忠敬橋・樋橋・牧野橋・・と町の中心の観光地を流れている。開運橋から、舟運で栄えた街並みとなり、重伝建地区で昔ながらの建物のお店に出会える。
中橋付近は、酒店や、忠敬橋になると油の正文堂・三菱館等が、樋橋に伊能家・乗船待合所で賑わっている。

            街並み・水郷十二橋舟めぐり、女船頭の操る「サッパ舟」で。


「大祭」
7月の本宿祇園祭と10月の新宿秋祭りで、川越氷川祭・常陸國總社宮大祭とともに関東三大祭りの一つ(ユネスコ世界無形文化遺産に登録)
台車の大人形等が、例えば伊弉那岐尊の田宿区・彫物の例で、三国志や龍の南横宿区・二層構造の山車の上部(大天上)に、歴史上の人物の大人形や町内で藁を用いて製作した大きな飾り物を飾り付け、下段(中天上)に「佐原囃子」を演奏する下座連を乗せ、奏でながら町内衆により曳き回される。
山車の前では手古舞の流れをくむ手踊りが、飾り物の他に多くの山車の周りには彫物が巡らされ、獅子や龍、物語等を題材にしたものが彫られている。
江戸の祭礼文化の影響のもと、享保年間には、山車と囃子を中心とする祭礼が行われ、飾り物については、当初それぞれの町内で趣向を凝らして製作していたが、近世末期に大人形の飾り物が出現し、江戸の人形職人に飾り物の製作を依頼するようになったと云う。
佐原の山車と囃子の形態は、周辺地域の祭礼に大きな影響を与え佐原を中心とする山車文化圏を形成。


「理智山 照徳院・法界寺」
                        浄土宗の寺                             



                   開基 天誉春公上人 1583年。


                     本尊 阿弥陀如来                   


                        山門                       


                  本堂  乳出し不動・清水不動尊


                  徳川家ゆかりの寺  三代将軍家光公尊前灯篭                         


                        墓地と裏山                  


 
                         馬場酒造                         


「馬場本店酒造」
天和年間創業で、大吟醸、勝海舟散人・水郷盛り。白味醂を生産している。

                           蔵の前




「東薫酒造」
大吟醸「叶」は全国新酒鑑評会金賞。
                        蔵見学ができる。






清酒の話  原料の水ー水は清酒の80%以上を占めています。それだけに水は重要、メーカーは望みどおりの水を得るため、濾紙や素焼で濾過や気瀑して
特に鉄分を除去したりします。良い水は、鉄分・アンモ二ア・重金属が無く、カリウム・リン酸・カルシュウムが適度に含む水を求めます。
鉄の有害成分「デフェリフェクリシン」と反応し「フェリクリシン」になり、酒の色を赤かっ色に濃くし香味を害します。
水の鉄分のみでなく同時に容器・ポンプ・配管・・・・鉄製は使いません。
水の条件として、無色透明で臭・味の以上の無い事。PHは中性又は、微アルカリ性・鉄0.02pp以下・マンガン0.002pp以下と細菌検査・有機物
アンモ二ア窒素・・・と神経を使います。



市内に真言宗の「観福寺」がある。889年創建、本尊は、観音像で、平将門の守護仏と云われている。関東三厄除け大師の一つ。
小野川両岸とその周辺は、河岸問屋・醸造・商工者などが軒を連ねている。

次回は、国宝伊能忠敬を訪ねます。

鹿島神宮、緑豊かな長い参道 

2018-06-10 | 気まま旅

茨城県は、日本列島のほぼ中央部、関東地方の北東部にある。常陸国と下総国からなる。東が太平洋鹿島灘に面する。福島・栃木・千葉・埼玉県に接す。
江戸幕府体制には、常陸国 水戸藩(徳川氏35万石・笠間(牧野氏8万石)宍戸(友部)・府中(石岡)・土浦・下館・下妻・牛久・麻生・・。
下総国に結城(水野藩)古河の土井氏・・12藩で幕府に蜜着した親藩がいた。
筑波山麓・霞ヶ浦・鹿島には、天領、旗本領が多い。茨城県は、幕藩体制維持の後背地の役割をしていた。
産業も、綿(縞木・晒木綿)・紬・醤油・清酒・笠間焼・茶・蝋燭・井草・紙・蒟蒻・・・特産物は、那珂川・利根川・・水運で江戸に運ばれた。
我が国第二位の霞ヶ浦埋め立てで2500H2の千拓地などで、大規模米作地帯となっている。
又、北部は、銅鉱石で、日立・常磐・・が近代日本の産業発展に多大な貢献をしてきている。
又、昭和62年、筑波研究学園都市が誕生し教育機関と我が国の頭脳センター的役割をしている地域である。

                      JR臨海鉄道・鹿島神宮駅


「常陸佐竹氏」 源氏一族・
平安末期に源義光の孫である昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着定住し,「佐竹冠者」と称したのが始まりと云う。
常陸奥七郷の豪族・鎌倉・室町幕府の御家人として活躍する中で,「佐竹貞義」以降は代々常陸国の守護として,一族の内乱や常陸国内外の諸勢力と戦いながら領国を拡大した。
室町末期から安土桃山期の義重・義宣の代には,常陸国を統一し太田から水戸へ進出し、領国を維持していく過程で,守護から戦国大名へと変質し,下野宇都宮氏とともに相模の小田原北条氏や陸奥の伊達氏等と覇を競い,豊臣秀吉旗下の大名として54万8000石の知行を与えられ,
「常州の旗頭」に任じられた。1600年、「関ヶ原の戦い」では,東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなり,祖先の地を離れている。
しかし,江戸幕藩体制下多くの大名家が改易等の憂き目をみる中,佐竹氏は外様大名として幕末まで存続した。

                            駅前


「潮来」茨城県行方郡」県南東部・常陸利根川と千葉県佐原市と接している町。東に「北浦」に面している。
常陸国風土記」に「板来のむら 駅家をおく・伊多久の里」から、潮来の地名、1698年徳川光圀が「潮来」と改めたと云う。
利根川に沿って、自然堤防洲上に発達し、水田地帯が広がる低湿地地。また、中継地として「津軽・南部・仙台河岸」がある。
水郷筑波国定公園の拠点でアヤメ・野鳥・十二橋巡りの水郷観光地中心地である。最近は、鹿島臨海工業地域と都市化が進み人口が急増している。

        JR鹿島線 佐原ー香取ー十二橋(千葉県佐原市)・潮来ー延方ー鹿島神宮(茨城県)・6駅


利根川本流と北浦を結んでいるのが「常陸利根川」アヤメ園・十二橋巡りは、前川沿いにある。

                       鹿島台地最南端   常陸利根川


            JR鹿島線「潮来駅」は、利根川を渡ってあるので茨城県潮来市


1214年、浄土真宗「親鸞」は、新潟県佐渡島から茨城県笠間に来住し20年間布教した。

延方駅は、北浦神宮橋手前・鹿島神宮前駅一ッ手前になる。

                  「鹿島神宮駅前広場」駅舎


鹿島一の宮「鹿島神宮」神宮鳥居前町として観光・商業で栄えた。

                        鹿島市観光地図


「塚原卜伝」 1489-1571 将軍に剣術伝授した達人・新当流開祖・鹿島神宮の祝部ト部覚賢の子・塚原主「安幹」に養子。
実父・養父から兵法を学ぶ、将軍「義輝」・武将に刀術を伝授する。19回真剣勝負で一度も敗れず、逃げるも勝負の極意。

鹿島・高天原は、武道発祥の地ともいえると云う。
仁徳天皇の時代(4世紀)に、鹿島神宮の神官で「国摩真人」という人物がいた。
高天原の鬼塚に祭壇を築き、鹿島神宮の武甕槌大神から「神剣の極意」を授かり、これが「日本の剣術の始まり」と伝わる。

                  塚原卜伝の像(墓は、鹿嶋市須賀)


人口港と旧飛行場跡地に製鉄所コンビナート・今は鉄な街に。

     鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社・ 鹿島神宮参道


「鹿島神宮」
古代の関東東部には、
現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座。香取海は、ヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られ、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。
        鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置という。大鳥居


常陸国一宮。祭神ー天照大神命 経津主大神・大国主神・武ミカヅチ大神。
神武天皇の大和国入国の守護、蝦夷に対する大和朝廷の兵站基地であったことで「武神」・奈良時代九州防備に赴く東国の防人達の武運長久を祈願した。
「鹿島立」と呼んだ。
                       境内地図案内板    


「楼門」
二代藩主水戸光圀(水戸黄門で知られる水戸藩二代当主光圀)は、
史実としては鹿島神宮に参詣した記録はないが、鹿島神宮の要石を七日七晩掘削したという伝説が残っている。「かしまの伝説・むかし話」
九代藩主 斉昭(九代藩主 斉昭は弘道館や旭日丸船内へ鹿島神宮の御祭神の分霊を勧請したり、領内に鹿島社を建立し、幕末異国船現れたりするようになり国が大きく揺らいだ国難に際しては、祈祷依頼をしていると云う。
沼尾神社(鹿島神宮の摂社で鹿嶋市沼尾に所在)にも扁額を奉納、 天保5年には、500名を超える家臣を引き連れて鹿島神宮に参詣、歴代藩主最大規模の参詣。10代慶篤は、大日本史を奉納している。

回廊ー徳川頼房(徳川家康の11男)修復。

「藤原鎌足」 614-669  古代の中央豪族・大化改革推進者・藤原氏の祖・不比等の父。
中大兄皇子と蘇我入鹿を王宮で殺害、内臣となる。宮廷一実力者となり大織冠を与えられる。天智天皇(中大兄皇子)と大海人との争いを仲裁した話は有名。近年、阿武山古墳が鎌足の墓では?。

                 楼門      徳川頼房が造営(1642年)2階建て3間一戸


藤原鎌足の出生伝承地か?。藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残る。
藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、「常陸国風土記」によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。
また、「大鏡」(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、位置)はその出生地と伝えられる。
藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたと云う。
                       樽献上酒 


朝廷からの重要視を示すものに、神郡 鹿島・香取両神宮ではそれぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められ、
令集解・延喜式の神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったという。
鹿島・香取使ー 両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使と香取使・鹿島香取使の派遣があったと云う。
伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は、両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であったと云う。
「神宮」の呼称 『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみ。

                        拝殿     源頼朝なども武家の崇敬を受けている。


中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。
現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多いと云う。

              拝殿  江戸時代は、幕府の庇護のもとに多くの参詣者で賑わったと云う。


「要石」神が宿る御坐石、霊石(岩磐伝説)ー地中の地震、鯰を押さえて鎮圧し地震を防ぐと云う伝説で、国土安泰の要と考えられている。
幕末諸外国の脅威に警鐘をならした水戸藩9代徳川斉昭が謡曲「要石」を作ったのが1844年。
鹿島大神が海人に姿を変え鹿島神宮に詣でた奉幣使を案内し、やがて建御霊として神の姿を現すと云うもの。
光圀公・斉昭は要石に神が宿ると信じていたと云う。
                        本殿


常陸国風土記ー704年、煮常陸の国司らが「若松の浜」で砂鉄をとって刀を造らせたとある。この刀が、国宝ーふつの御剣。

                       杉並木参道


鹿島立の「祭頭祭」3月9日として行われる。(提灯祭、9月・御船祭は12年毎の午年)

                         鹿園(神の使いは「鹿、神鹿」


重文ー本殿・石の間・幣殿・拝殿・奥の宮・楼門など。国宝ー頼朝が寄贈した直刀他多数「宝物館」

                        奥参道


要石・丸石のあるところが最初の社殿跡と云う。
                         奥院 左手奥に「要石」がある。    


                         御手洗池


                          広場


常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校が立地している。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた
                           奥社


「鹿島城跡城山公園」鹿島神宮駅前・県道18号線沿い

別名吉岡城・中世の連郭式平山城・築城 鹿島政幹、城主 鹿島幹重、鹿島義幹、佐竹氏

鹿島成幹の三男として誕生。父の没後、遺領は六人の息子に分割されたが、父と同じ「鹿島」の名乗りを名乗った「鹿島政幹」は嫡子として扱われ、父が就いていたとみられる鹿島神宮の神郡・鹿島郡の郡司の地位を継いでていたとみられている。
「治承・寿永の乱(源平合戦)」において政幹は、当初、他の常陸平氏と同様に平家方であったとみられるものの、「金砂城の戦い」前後の早い時期に
源頼朝側に転じ、1181年、に頼朝より鹿島社惣追捕使に任じられたとある。「吾妻鏡」
鹿島社惣追捕使は後世には鹿島社惣大行事とも称され、鹿島神宮の神領の検断を任される職である。
鹿島郡を巡っては政幹の従兄弟で行方郡を支配する鹿島社惣検校・行方景幹や周辺地域の有力者である志田義広・上総広常と競合関係にあり、反頼朝の態度を示していた志田義広や行方景幹らと対抗するために頼朝との関係を持ったと考えられている。
政幹の子である宗幹・弘幹兄弟は他の板東平氏と共に家来を率いて頼朝軍に参加して、屋島の戦いで戦死したとされ、政幹の弟にあたる林頼幹も頼朝に重用され、1190年、源頼朝の上洛には政幹と共に供奉している。その後、1216年、鹿島神宮の大禰宜職を巡る訴訟が摂関家に持ち込まれた際に、鹿島郡の地頭と守護人から書状で証言が出されているが、これは鹿島政幹と小田知重(常陸守護)であると考えられ、「承久の乱」後、摂関の地位に就いた近衛家実の時代にも同様の訴訟で「地頭政幹」が同様の書状と出したことが知られている。(承久の乱の頃までは健在であったとみられる)

                   案内板 春にはソメイヨシノが咲き誇る。


鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になると、鹿島氏は北朝方について功績があった。
そこで、足利氏は鹿島氏当主を鹿島神宮の惣大行事職に補任し、代々世襲していくことに、併せて鹿島氏当主は従五位相当官(おもに受領)に任官するようになる。
「鹿島治乱記」によると、幼少にして鹿島氏の家督を継いだ鹿島義幹は姦臣を近づけ、暴政を布いたために、家老たちが示し合わせて近隣の江戸氏や行方氏の兵を鹿島に入れ、謀反を起こしたと云う。
「鹿島城」は、中世の城郭としては尋常な規模ではなかったと云う。
下総の東城(須賀山城のことと思われる東氏の居城・現在の千葉県東庄町笹川)に退いた。
家老たちは義幹の姪を大掾氏の男子にめあわせて新たな当主とした(この姪は江戸氏当主の姪にもあたるので江戸氏の外圧を受けて義幹を追放した勢力には好都合であった。
義幹は東城で、機会を伺っていたが、同族の島崎氏が流した「今こそ鹿島を奪回する好機である」と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、東城から出撃し、現在の茨城県鹿嶋市高天原に上陸し、城方もこれを迎えうって合戦となる。「高天原合戦」
戦いにおいては、松本備前守や塚原卜伝のような剣豪も参加し、鹿島城は皮肉にも義幹の改築によって、非常に堅固になっていた。
しかし義幹はこの合戦において討ち死にし、義幹方の兵は東城に引き上げていった。
義幹は戦死したが、義幹の孫治幹(治時)は鹿島家当主につくことができたと云う。
 
                    堀・土塁がわずか残されている。


                 最盛期は、三重の堀に囲まれている強固な城。


                         北浦が。

「鹿島氏・戦国時代後期」
内紛を起こした上に急速に衰退、1569年、鹿島治幹(治時)の次男・氏幹と三男・義清が家督を巡って争い、氏幹は、千葉氏の、義清は、江戸氏の援軍を受ける。
氏幹は一時義清を鹿島から追放したが、家臣によって暗殺。家督は、「義清」が継承して江戸通政の娘を娶って江戸氏との同盟を強化した。
1579年、頃から鹿島氏家臣内部の争いが深刻化してきたが、義清が重臣の林氏に殺害されたために再び家督争いが発生。
千葉氏側にあった治幹(治時)の子である貞信(七郎)と清秀(六郎)兄弟が千葉氏一門である国分氏の支援を受けて鹿島復帰を図るが、江戸重通が自ら鹿島を攻めてこれを放逐。
江戸重通は、治幹(治時)の末子である通晴を当主に擁立し、1586年、鹿島貞信・清秀兄弟が再度鹿島を攻めて、通晴を自害に追い込み、貞信が当主となり、これに対して江戸氏は、1587年、になって鹿島を攻めて一時鉾田城を攻め落としたものの、江戸氏側についた鹿島氏重臣が貞信に切り崩されたために敗退・貞信は、妹を国分胤政に嫁がせたものの、1589年、に死去、「清秀」が鹿島氏を継いだ。
佐竹氏ー江戸氏ー鹿島氏の関係にあって反北条氏側に立っていた鹿島氏の姿勢が、北条氏ー千葉氏ー鹿島氏へと変更されることになる。
ところが、小田原の役後に、常陸南部の安堵を獲得した北部の大名・佐竹氏が鹿島氏当主(清秀か)を他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、軍を鹿島に差し向けた。鹿島軍も善戦したが、当主不在もあってか落城した。
徳川氏の代になると、鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、旧家臣たちが幕府に嘆願し、家の再興を願った。
徳川家康はこれを許し、鹿島惣大行事家として存続することにー石高は200石ー
鹿島氏の一族は、庶子等も含めると、旗本になったもの、水戸藩藩士になったもの、高松藩藩士になったもの(高松藩は水戸家の分家のため)、帰農したものと多岐に渡ると云う。
系譜ー桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-平国香-平繁盛-平維幹-平為幹-平重幹(繁幹)-平清幹-鹿島成幹-鹿島政幹-鹿島胤幹-鹿島忠幹-鹿島宗幹-鹿島幹景-鹿島幹氏-鹿島幹定



 サッカーの鹿島アントラーズは、鹿の角の意味。

次回は、千葉県佐原市へ。

犬吠埼から静かな古社香取神宮へ

2018-06-08 | 気まま旅
「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」ー国指定天然記念物
房総半島の地表面の大部分は約6,500万年前より新しい第三紀と云う。
新しくて柔らかい地層でできているが、銚子には古く堅い地層が露出している。
銚子半島の先端にある犬吠埼灯台下の海岸には、白亜紀に海底で堆積した地層が顔を出し、これが、国指定天然記念物「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」。
白亜紀というと恐竜が生きていた時代で、白亜紀の地層は関東から西に分布するが、そのような古い地層を地表で見ることができる場所は、関東地方ではここだけ。犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は、浅い海の海底で作られた堆積物である。
浅海特有の堆積構造として、海底の砂の表面につけられたさざ波の痕跡が観察できる。
この波の痕跡は、波長4~7cm、波高3~6mmで、ほぼ平行に規則正しく並んでおり、このような痕跡を「漣痕」と呼ぶ。
指定地域とその周辺には、銚子層群犬吠砂岩層が分布しており、砂岩と頁岩の互層をなしている。
漣痕は、その砂岩層の表面に観察でき、これは、砂の表面にできたさざ波の跡の上に、頁岩層の元になる泥が静かに堆積したまま地層中に保存。
この地層は化石も豊富で、付近ではアンモナイトの化石が発見されている。

          地表で白亜紀の地層と漣痕が観察できる、全国的にも数少ない貴重な場所。


                          犬吠埼灯台


「良文貝塚」 国指定史跡・香取市貝塚。
利根川の支流である黒部川の右岸、複雑に開析された標高約50~52mの台地の斜面に良文貝塚が広がっている。
貝層は、東西約340m・南北約170mの範囲から、今までに9地点以上が見つかっており、利根川下流域で最大級の面積、貝層はハマグリが主体で、シオフキ・オキシジミ・アカニシ等が見られることから、主に海に棲む貝を消費したことによる貝塚であることが判明している。
個々の貝層はあまり大きくはないものの、榎谷付近には、貝層の厚さが3mを越す地点もあり、台地の上に居住地を設けた縄文人が谷へ向かう斜面へ大量の貝殻を廃棄したものと考えられている。
記録として残っているこの貝塚の発掘調査は明治時代に始まり、地域に密着した保存活動により、貝層部分を中心として昭和5年付けで文部大臣から民有地15筆が国史跡に指定され、千葉県の貝塚としては、記念すべき初の国指定史跡となった。
貝塚が形成された時期は、縄文時代中期から晩期初頭で、地点によって時期のかたよりも見られ、土器のほかには、石器類・土製品・石製品・骨角器・貝製品等、当時の日用品や装飾品など様々なものが確認されている。
また、貝類以外の自然遺物として哺乳動物や魚類、鳥類の骨も確認されており、縄文人の食料や生活の様子をうかがうことができると云う。



千葉県香取郡小見川町・県北東部の利根川に面した町、麻の産地(麻積郷)と呼ばれら町・「良文村」は編入され、利根川沿いと谷津の低地は、
香取海が入り込んでいた。周辺の下総台地緑辺に史跡の「良文貝塚と阿玉台貝塚・城山古墳群が分布している。
中世から小見川城は築かれ、江戸時代は、小見川藩の城下町であった。特に、利根川水運の中継地として栄え、醸造業が栄えた。
明治30年には総武鉄道・成田鉄道が開通している。

昭和48年小見川大橋完成で「鹿島臨海工業地域」と結ばれた。

                 利根川・黒部川で稲作・野菜・家畜盛んに。


「香取郡小見川郷・香取市小見川」一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「 あいはら」「あいばら」と読み、平安時代末期、
平常長(千葉大夫常長)の四男・粟飯原常基を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領したとある。
しかし、下総国内に「 粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市相原)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原(藍原)氏は武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないと云う。

                        JR香取駅(無人)


                          庚申塚


                        毘沙門天・千仏寺


                            本堂


                           忍男神社


東の宮、1607年徳川幕府社殿造営
                            社殿


                          JR成田線神宮踏切


「董橋・草履抜橋・じょん抜橋」 湧き水で身を清める。
                            董橋


「神道山古墳群」
香取駅南西の利根川南岸台地上に分布。「前方後円墳1、円墳11基」からなる。古墳名は 墳形
前方後円墳 墳長47m、後円部径27m、同高約4m、前方部幅25m、同高4m 香取字神道他 台地 前方後円墳集成、
北西から。左が後円部、右が前方部。尾根上に築かれた前方後円墳で後期の築造と推定され、古墳は、昭和の初め頃、香取神宮主の御陵墓かと騒がれた。
北東から、後円部。丘陵上は、ハイキングコースが整備されている。
南西から、前方部。
関連する古墳ー山武市蕪木5号墳・香取市富田1号墳・香取市神道山古墳群その他・香取市宗勝寺古墳 が。







又見古墳、神道山古墳は、下海上国(香取市)の古墳、墳丘からの眺めは良い。
香取神宮の西側300m位、「又見神社」が、石段を上がっていくと、小さな社殿がある。
「又見古墳」は、 7世紀中葉. 石室のみが現存し、現状では墳丘を確認することはできない、とある。
玄門をコの字型に抉り抜いた2枚の板石を組み合わせているのは珍しい。下総には類例がなくと云う。





              東関東自動車道「佐原・香取IC」と結ぶ 55号線


「香取神宮」 下総国一宮。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。
宮中の四方拝で遥拝される一社である。
                         参道入口


創建ー社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記・8世紀初頭成立」
にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とある。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説と、これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説がある。

                         大鳥居


                      樹木に覆われた参道


千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山」と称される丘陵上に鎮座・日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する「経津主神」を
祭神とすることで知られ古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。
その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社。
主祭神は、経津主。日本書紀(720年)一書として「原 1」イザナギ(伊弉諾尊)がカグツチ(軻遇突智)を斬った際、剣から滴る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であるとしている。
また別の一書として「原 1」カグツチの血が岩群を染めイワサク・ネサク(磐裂神・根裂神)が生まれ、その御子のイワツツノオ・イワツツノメ
(磐筒男神・磐筒女神)がフツヌシを生んだとしている。
その後、日本書紀本文では、「原 2」天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行なったという。(古事記ではフツヌシは登場しない)

                        古社 香取神宮


神徳ー古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く、特に「神宮」の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は「下総国の一宮」。
明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っている。
奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地(400余)に及んでいて、広く尊崇をあつめている。
家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰され、さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、
勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名。
                          境内


                          中門


「文化財」-中国唐代の海獣葡萄鏡が国宝に指定・建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定・その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
                          仁王門


                          献上樽酒


         重要文化財の「狛犬」  東国三社「香取神宮・鹿島神主・息栖神社(富士山を起点とし90度)」


祭神ー経津主大神(伊波比主神・斉主神・斉之大人)
                           社殿


次回は、鹿嶋神社へ。

利根川の河口 笹川と水滸伝

2018-06-05 | 気まま旅
「千葉一族・東氏」 千葉氏の庶族。桓武平氏。古今伝授の家として知られている。
鎌倉時代の初めに「千葉常胤」の六男「胤頼」が下総国東荘(現在の東庄町)に住み、東大社の神官より名前を譲り受け、「東六郎大夫」と称した。
子の重胤、孫の胤行は歌道に優れ、ともに鎌倉幕府3代将軍「源 実朝」に重んじられたと云う。
胤行は、承久の乱の戦功により美濃国山田荘(現在の岐阜県郡上市)の地頭となり、篠脇城を居城とし、子の行氏がこの地に土着し、以後、子孫は在京人として「六波羅探題」のもとで活躍した。
室町時代には室町幕府奉公衆となる。
室町時代中期の当主東常縁は古今伝授を受けた歌人として有名で、「応仁の乱」が勃発すると、東氏は山名氏の西軍に味方し、細川氏の東軍に味方した美濃守護の土岐氏と対立する。
戦国時代に入ると衰退し、永禄2年の1559年、、東常慶は一族(異説あり)の遠藤氏と対立し、娘婿の遠藤盛数に攻められ滅亡した。
以後は遠藤氏が東氏の家督も継承した。一方で家督を奪われた常慶の子の常尭は飛騨の内ヶ島氏理の庇護を受けたものの、天正大地震で内ヶ島氏と運命を共にしている。
盛数の子で常慶の外孫である遠藤慶隆は戦国時代、安土桃山時代を乗り切り、江戸時代には美濃郡上藩主となり、その後子孫は近江三上藩(滋賀県野洲市)へ移封されて存続した。
最後の藩主である遠藤胤城は明治維新後に縁のある東氏に改姓し、子爵を授けられていると云う。郡上市大和町には東氏の館の庭園跡が。
歴代当主ー東 胤頼・東 重胤・東 胤行・この後、下総系東氏と美濃系東氏に分かれる。東 行氏。

「須賀山城・森山城址」
主郭の空堀の 須賀山城は、森山城の外郭として機能した城であると云う。
元は、森山城同様、 鎌倉初期の1190年、に、「千葉常胤」の6男「東 胤頼」によって築かれたとされる。
胤頼は、源頼朝の挙兵に尽力した功績により、1185年、東荘33郷・三崎荘55郷を拝領したとある。
当初は桜井城を居城としたが、1190年に須賀山城を築いて居城を移し、更に1218年に隣接地に森山城を築いて移ったと言われている。
その後も須賀山城には一族が拠ったと思われ、「東頼数・教頼・常綱」等の在城が伝えられていると云う。

                 最大の利根川の河口付近  笹川港と笹川新橋


「利根川」ー首都圏を支える大河「坂東太郎」
群馬県の大水上山(標高1,840m)群馬県北部丹後山に源を発し、幾つもの川と合流したり、分派 したりしたのち千葉県銚子市で太平洋に注ぐ我が国を代表する大河川。
幹川の流路延長は322km・水源から河口までの支川を含めた流路延長は約6,700km。
流域は東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、埼玉県の1都5県にまたがり、流域面積は16,840km2におよび我が国最大の河川。

                    東庄町を流れる「桁沼川」


                  東庄町新宿に鎮座する  八坂神社


                          社殿


               利根の河原に(現在水田)に架かる「笹川橋」 


「天保水滸伝」
平手造酒は笹川一家の用心棒で繁蔵の信頼も厚かった。
飯岡側と決闘で命を落とす。



                    農業水路、その脇で


「笹川繁蔵最期の地」
1847年に繁蔵は笹川に戻り、ある夜、愛人「豊子」宅の向かう途中、ビヤク橋で、飯岡一家の闇討ちに遭井殺害された。

                    石碑が残されている。


「勢力富五郎」 笹川繁蔵の一の子分
繁蔵が殺され、富五郎は報復を試みるが志し果たせず、金毘羅山で自刃する。
現在の勢力山、東庄県民の森。
                       住宅路に


「十一屋」 笹川の花会。
各地の親分衆が集まり花会が開かれたと伝わり、繁蔵が定宿にしていたと云う。「岩瀬繁蔵生家は、笹川大木戸で現存しない」

                     現在は、民家に


「笹川山城蓮院・延命寺」   真言宗智山派
東庄町笹川の町中の桁沼川蒸気船乗着場の面影が残る。
江戸期には鹿島神宮寺の末寺と云う。
境内には昭和15年の1940年、建立された天保水滸伝でおなじみの笹川繁蔵の供養碑があり、両脇には笹川繁蔵の一の子分・勢力富五郎の供養碑と客分・平手造酒の墓がありる。



飯岡方と笹川方の乱闘は、
この辺りから利根の河原にかけ行われたといわれ、周辺には、天保水滸伝遺品館、諏訪神社、千賀ノ浦土俵場、花会を行った料亭十一屋など天保水滸伝ゆかりの場所がある。
                         延命寺境内


                        勢力富五郎之碑 


「天保水滸伝」講談・歌舞伎・映画・浪曲・演劇・歌謡曲・小説などで知られている。
天保15年、1844年、大利根瓦の決闘ー飯岡勢のよる笹川勢への切込み事件。前後に大小の喧嘩が繰り返され、この地方の大親分「助五郎」に対し
新興の繁蔵の台頭が対立の基となる。利権(岩井不動尊の縄張り争い)と相撲好きの繁蔵の野見宿の碑・農民救済の花会等の活動が助五郎との対立を激化した。笹川には、用心棒に剣客平手造酒・組を束ねた代貸勢力富五郎がいた。
平手は、大利根河原の決闘で命を落としている。繁蔵も決闘後旅に出るが2年後笹川に戻り1847年飯岡方3人に暗殺された。38歳
幕府は、下総小金原(松戸)10万人余りの兵を動員し、銃による弾圧に乗り出し、笹川一家鉄砲があるのは困ると、諏訪神社に関東取り締まり役を置き
集結、親分無き勢力富五郎は、親分の敵討と再度飯岡方に乱入するも目的果たせず、幕府役人500人余りは連日富五郎らを検索し続け、
金毘羅山で最期を遂げた。幕府の兵は2か月近くで滞在費は村が負担した云う。
富五郎の金毘羅山立て籠り事件を中国の四大奇書の一つ「水滸伝」になぞられたと云う。

                        笹川繁蔵之碑


                         勝負石


                       寺近くの桁沼川


                         延命寺 本殿


飯沼勢は、舟で笹川港から、笹川勢港で応戦・陸路は、金毘羅山(勢力山)で繁蔵生家・ビヤク橋跡で応戦した。

                       決戦路・案内標


                   岩瀬家、繁蔵の墓は、「西福院」


                東庄町観光会館と水滸伝遺品館の前に木戸門の台石


「笹川相撲祭」 7月最終土曜日 笹川は、天保水滸伝に登場する由緒あるお祭り。
また、大相撲「出羽海部屋・笹川夏合宿」8月頃2週間ほどあると云う。



「諏訪神社」 坂上田村麻呂(807)勧請しと伝わる。境内には立派な土俵がある。江戸時代から続く奉納相撲が夏行われる。
水滸伝にも、繁蔵は、農民救済のために、国定忠治らを招待している。

                      諏訪神社 舞殿


                    神社境内内に、観光会館がある。


東光山宝樹院「来迎寺」 浄土宗の寺 良文貝塚に近い。
1088年「千葉常将」の建立した釈迦堂で知られている。

      明恵高弁上人の開山と伝わる。(北条泰時・頼朝など武家衆に教化)正門


源頼朝、鹿島社参拝で、来迎寺に憩いの場を構えたと伝わる。寺では、7月中旬頼朝の施餓鬼法要が、源頼朝・頼家・実朝の三代将軍の供養とがある。
又寺の周りに土塁は、陣屋が置かれた名残と云う。境内には、徳川家康養女「おふうの方」の墓所もあると云う。源氏・徳川家との縁のある寺。

                       鐘楼堂開山    1198年の古刹


境内には、榧の老木が(戦時中の食糧難時種子は食用となったと云う。

                 本堂  寄棟造り、棟梁は、権右衛門が施工


               本尊阿弥陀如来、1555年~過去帳・釈迦誕生絵等が、                    


           利根川に沿って、「利根川水郷ライン・国道356号線とJR成田線が。


1~5月まで、いちご狩りが。
                          JR笹川駅前


          JR笹川駅から鎌倉南北朝の下総国・東氏の森山城(居城)が見える。


JR 成田線主な駅は、銚子ー松岸ー橘ー「笹川」ー小見川ー水郷ー香取ー佐原ー神崎ー滑川ー成田。


「入正醤油」創業290年の老舗は、徒歩10分、NHK「澪つくし」のロケ地。

                    日中は一時間に1本か、ホームで待つ


次回は、香取神社へ。