茨城県は、日本列島のほぼ中央部、関東地方の北東部にある。常陸国と下総国からなる。東が太平洋鹿島灘に面する。福島・栃木・千葉・埼玉県に接す。
江戸幕府体制には、常陸国 水戸藩(徳川氏35万石・笠間(牧野氏8万石)宍戸(友部)・府中(石岡)・土浦・下館・下妻・牛久・麻生・・。
下総国に結城(水野藩)古河の土井氏・・12藩で幕府に蜜着した親藩がいた。
筑波山麓・霞ヶ浦・鹿島には、天領、旗本領が多い。茨城県は、幕藩体制維持の後背地の役割をしていた。
産業も、綿(縞木・晒木綿)・紬・醤油・清酒・笠間焼・茶・蝋燭・井草・紙・蒟蒻・・・特産物は、那珂川・利根川・・水運で江戸に運ばれた。
我が国第二位の霞ヶ浦埋め立てで2500H2の千拓地などで、大規模米作地帯となっている。
又、北部は、銅鉱石で、日立・常磐・・が近代日本の産業発展に多大な貢献をしてきている。
又、昭和62年、筑波研究学園都市が誕生し教育機関と我が国の頭脳センター的役割をしている地域である。
JR臨海鉄道・鹿島神宮駅
「常陸佐竹氏」 源氏一族・
平安末期に源義光の孫である昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着定住し,「佐竹冠者」と称したのが始まりと云う。
常陸奥七郷の豪族・鎌倉・室町幕府の御家人として活躍する中で,「佐竹貞義」以降は代々常陸国の守護として,一族の内乱や常陸国内外の諸勢力と戦いながら領国を拡大した。
室町末期から安土桃山期の義重・義宣の代には,常陸国を統一し太田から水戸へ進出し、領国を維持していく過程で,守護から戦国大名へと変質し,下野宇都宮氏とともに相模の小田原北条氏や陸奥の伊達氏等と覇を競い,豊臣秀吉旗下の大名として54万8000石の知行を与えられ,
「常州の旗頭」に任じられた。1600年、「関ヶ原の戦い」では,東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなり,祖先の地を離れている。
しかし,江戸幕藩体制下多くの大名家が改易等の憂き目をみる中,佐竹氏は外様大名として幕末まで存続した。
駅前
「潮来」茨城県行方郡」県南東部・常陸利根川と千葉県佐原市と接している町。東に「北浦」に面している。
常陸国風土記」に「板来のむら 駅家をおく・伊多久の里」から、潮来の地名、1698年徳川光圀が「潮来」と改めたと云う。
利根川に沿って、自然堤防洲上に発達し、水田地帯が広がる低湿地地。また、中継地として「津軽・南部・仙台河岸」がある。
水郷筑波国定公園の拠点でアヤメ・野鳥・十二橋巡りの水郷観光地中心地である。最近は、鹿島臨海工業地域と都市化が進み人口が急増している。
JR鹿島線 佐原ー香取ー十二橋(千葉県佐原市)・潮来ー延方ー鹿島神宮(茨城県)・6駅
利根川本流と北浦を結んでいるのが「常陸利根川」アヤメ園・十二橋巡りは、前川沿いにある。
鹿島台地最南端 常陸利根川
JR鹿島線「潮来駅」は、利根川を渡ってあるので茨城県潮来市
1214年、浄土真宗「親鸞」は、新潟県佐渡島から茨城県笠間に来住し20年間布教した。
延方駅は、北浦神宮橋手前・鹿島神宮前駅一ッ手前になる。
「鹿島神宮駅前広場」駅舎
鹿島一の宮「鹿島神宮」神宮鳥居前町として観光・商業で栄えた。
鹿島市観光地図
「塚原卜伝」 1489-1571 将軍に剣術伝授した達人・新当流開祖・鹿島神宮の祝部ト部覚賢の子・塚原主「安幹」に養子。
実父・養父から兵法を学ぶ、将軍「義輝」・武将に刀術を伝授する。19回真剣勝負で一度も敗れず、逃げるも勝負の極意。
鹿島・高天原は、武道発祥の地ともいえると云う。
仁徳天皇の時代(4世紀)に、鹿島神宮の神官で「国摩真人」という人物がいた。
高天原の鬼塚に祭壇を築き、鹿島神宮の武甕槌大神から「神剣の極意」を授かり、これが「日本の剣術の始まり」と伝わる。
塚原卜伝の像(墓は、鹿嶋市須賀)
人口港と旧飛行場跡地に製鉄所コンビナート・今は鉄な街に。
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社・ 鹿島神宮参道
「鹿島神宮」
古代の関東東部には、
現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座。香取海は、ヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られ、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。
鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置という。大鳥居
常陸国一宮。祭神ー天照大神命 経津主大神・大国主神・武ミカヅチ大神。
神武天皇の大和国入国の守護、蝦夷に対する大和朝廷の兵站基地であったことで「武神」・奈良時代九州防備に赴く東国の防人達の武運長久を祈願した。
「鹿島立」と呼んだ。
境内地図案内板
「楼門」
二代藩主水戸光圀(水戸黄門で知られる水戸藩二代当主光圀)は、
史実としては鹿島神宮に参詣した記録はないが、鹿島神宮の要石を七日七晩掘削したという伝説が残っている。「かしまの伝説・むかし話」
九代藩主 斉昭(九代藩主 斉昭は弘道館や旭日丸船内へ鹿島神宮の御祭神の分霊を勧請したり、領内に鹿島社を建立し、幕末異国船現れたりするようになり国が大きく揺らいだ国難に際しては、祈祷依頼をしていると云う。
沼尾神社(鹿島神宮の摂社で鹿嶋市沼尾に所在)にも扁額を奉納、 天保5年には、500名を超える家臣を引き連れて鹿島神宮に参詣、歴代藩主最大規模の参詣。10代慶篤は、大日本史を奉納している。
回廊ー徳川頼房(徳川家康の11男)修復。
「藤原鎌足」 614-669 古代の中央豪族・大化改革推進者・藤原氏の祖・不比等の父。
中大兄皇子と蘇我入鹿を王宮で殺害、内臣となる。宮廷一実力者となり大織冠を与えられる。天智天皇(中大兄皇子)と大海人との争いを仲裁した話は有名。近年、阿武山古墳が鎌足の墓では?。
楼門 徳川頼房が造営(1642年)2階建て3間一戸
藤原鎌足の出生伝承地か?。藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残る。
藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、「常陸国風土記」によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。
また、「大鏡」(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、位置)はその出生地と伝えられる。
藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたと云う。
樽献上酒
朝廷からの重要視を示すものに、神郡 鹿島・香取両神宮ではそれぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められ、
令集解・延喜式の神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったという。
鹿島・香取使ー 両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使と香取使・鹿島香取使の派遣があったと云う。
伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は、両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であったと云う。
「神宮」の呼称 『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみ。
拝殿 源頼朝なども武家の崇敬を受けている。
中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。
現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多いと云う。
拝殿 江戸時代は、幕府の庇護のもとに多くの参詣者で賑わったと云う。
「要石」神が宿る御坐石、霊石(岩磐伝説)ー地中の地震、鯰を押さえて鎮圧し地震を防ぐと云う伝説で、国土安泰の要と考えられている。
幕末諸外国の脅威に警鐘をならした水戸藩9代徳川斉昭が謡曲「要石」を作ったのが1844年。
鹿島大神が海人に姿を変え鹿島神宮に詣でた奉幣使を案内し、やがて建御霊として神の姿を現すと云うもの。
光圀公・斉昭は要石に神が宿ると信じていたと云う。
本殿
常陸国風土記ー704年、煮常陸の国司らが「若松の浜」で砂鉄をとって刀を造らせたとある。この刀が、国宝ーふつの御剣。
杉並木参道
鹿島立の「祭頭祭」3月9日として行われる。(提灯祭、9月・御船祭は12年毎の午年)
鹿園(神の使いは「鹿、神鹿」
重文ー本殿・石の間・幣殿・拝殿・奥の宮・楼門など。国宝ー頼朝が寄贈した直刀他多数「宝物館」
奥参道
要石・丸石のあるところが最初の社殿跡と云う。
奥院 左手奥に「要石」がある。
御手洗池
広場
常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校が立地している。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた
奥社
「鹿島城跡城山公園」鹿島神宮駅前・県道18号線沿い
別名吉岡城・中世の連郭式平山城・築城 鹿島政幹、城主 鹿島幹重、鹿島義幹、佐竹氏
鹿島成幹の三男として誕生。父の没後、遺領は六人の息子に分割されたが、父と同じ「鹿島」の名乗りを名乗った「鹿島政幹」は嫡子として扱われ、父が就いていたとみられる鹿島神宮の神郡・鹿島郡の郡司の地位を継いでていたとみられている。
「治承・寿永の乱(源平合戦)」において政幹は、当初、他の常陸平氏と同様に平家方であったとみられるものの、「金砂城の戦い」前後の早い時期に
源頼朝側に転じ、1181年、に頼朝より鹿島社惣追捕使に任じられたとある。「吾妻鏡」
鹿島社惣追捕使は後世には鹿島社惣大行事とも称され、鹿島神宮の神領の検断を任される職である。
鹿島郡を巡っては政幹の従兄弟で行方郡を支配する鹿島社惣検校・行方景幹や周辺地域の有力者である志田義広・上総広常と競合関係にあり、反頼朝の態度を示していた志田義広や行方景幹らと対抗するために頼朝との関係を持ったと考えられている。
政幹の子である宗幹・弘幹兄弟は他の板東平氏と共に家来を率いて頼朝軍に参加して、屋島の戦いで戦死したとされ、政幹の弟にあたる林頼幹も頼朝に重用され、1190年、源頼朝の上洛には政幹と共に供奉している。その後、1216年、鹿島神宮の大禰宜職を巡る訴訟が摂関家に持ち込まれた際に、鹿島郡の地頭と守護人から書状で証言が出されているが、これは鹿島政幹と小田知重(常陸守護)であると考えられ、「承久の乱」後、摂関の地位に就いた近衛家実の時代にも同様の訴訟で「地頭政幹」が同様の書状と出したことが知られている。(承久の乱の頃までは健在であったとみられる)
案内板 春にはソメイヨシノが咲き誇る。
鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になると、鹿島氏は北朝方について功績があった。
そこで、足利氏は鹿島氏当主を鹿島神宮の惣大行事職に補任し、代々世襲していくことに、併せて鹿島氏当主は従五位相当官(おもに受領)に任官するようになる。
「鹿島治乱記」によると、幼少にして鹿島氏の家督を継いだ鹿島義幹は姦臣を近づけ、暴政を布いたために、家老たちが示し合わせて近隣の江戸氏や行方氏の兵を鹿島に入れ、謀反を起こしたと云う。
「鹿島城」は、中世の城郭としては尋常な規模ではなかったと云う。
下総の東城(須賀山城のことと思われる東氏の居城・現在の千葉県東庄町笹川)に退いた。
家老たちは義幹の姪を大掾氏の男子にめあわせて新たな当主とした(この姪は江戸氏当主の姪にもあたるので江戸氏の外圧を受けて義幹を追放した勢力には好都合であった。
義幹は東城で、機会を伺っていたが、同族の島崎氏が流した「今こそ鹿島を奪回する好機である」と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、東城から出撃し、現在の茨城県鹿嶋市高天原に上陸し、城方もこれを迎えうって合戦となる。「高天原合戦」
戦いにおいては、松本備前守や塚原卜伝のような剣豪も参加し、鹿島城は皮肉にも義幹の改築によって、非常に堅固になっていた。
しかし義幹はこの合戦において討ち死にし、義幹方の兵は東城に引き上げていった。
義幹は戦死したが、義幹の孫治幹(治時)は鹿島家当主につくことができたと云う。
堀・土塁がわずか残されている。
最盛期は、三重の堀に囲まれている強固な城。
北浦が。
「鹿島氏・戦国時代後期」
内紛を起こした上に急速に衰退、1569年、鹿島治幹(治時)の次男・氏幹と三男・義清が家督を巡って争い、氏幹は、千葉氏の、義清は、江戸氏の援軍を受ける。
氏幹は一時義清を鹿島から追放したが、家臣によって暗殺。家督は、「義清」が継承して江戸通政の娘を娶って江戸氏との同盟を強化した。
1579年、頃から鹿島氏家臣内部の争いが深刻化してきたが、義清が重臣の林氏に殺害されたために再び家督争いが発生。
千葉氏側にあった治幹(治時)の子である貞信(七郎)と清秀(六郎)兄弟が千葉氏一門である国分氏の支援を受けて鹿島復帰を図るが、江戸重通が自ら鹿島を攻めてこれを放逐。
江戸重通は、治幹(治時)の末子である通晴を当主に擁立し、1586年、鹿島貞信・清秀兄弟が再度鹿島を攻めて、通晴を自害に追い込み、貞信が当主となり、これに対して江戸氏は、1587年、になって鹿島を攻めて一時鉾田城を攻め落としたものの、江戸氏側についた鹿島氏重臣が貞信に切り崩されたために敗退・貞信は、妹を国分胤政に嫁がせたものの、1589年、に死去、「清秀」が鹿島氏を継いだ。
佐竹氏ー江戸氏ー鹿島氏の関係にあって反北条氏側に立っていた鹿島氏の姿勢が、北条氏ー千葉氏ー鹿島氏へと変更されることになる。
ところが、小田原の役後に、常陸南部の安堵を獲得した北部の大名・佐竹氏が鹿島氏当主(清秀か)を他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、軍を鹿島に差し向けた。鹿島軍も善戦したが、当主不在もあってか落城した。
徳川氏の代になると、鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、旧家臣たちが幕府に嘆願し、家の再興を願った。
徳川家康はこれを許し、鹿島惣大行事家として存続することにー石高は200石ー
鹿島氏の一族は、庶子等も含めると、旗本になったもの、水戸藩藩士になったもの、高松藩藩士になったもの(高松藩は水戸家の分家のため)、帰農したものと多岐に渡ると云う。
系譜ー桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-平国香-平繁盛-平維幹-平為幹-平重幹(繁幹)-平清幹-鹿島成幹-鹿島政幹-鹿島胤幹-鹿島忠幹-鹿島宗幹-鹿島幹景-鹿島幹氏-鹿島幹定
サッカーの鹿島アントラーズは、鹿の角の意味。
次回は、千葉県佐原市へ。