「田沼意次」 1719-88 政争に敗れた経済官僚 相良藩主 17歳で父から600石禄高相続し、異例の出世・幕閣、老中に。積極的経済政策実施
幕府経済の根本的転換を、が保守層によって失脚・また、賄賂政治家でも知られている。後、賄賂政治家の烙印を押された。
「印旛沼干拓」
千葉県(下総国)北西部にある印旛沼の干拓事業、香取海の一部であった印旛沼は、利根川東遷工事などの影響によって江戸時代前期にはW字形の周囲47km・面積20㎢の閉じられた沼となり、利根川増水時の遊水地的な役割を果たしていた。
が、洪水防止の観点から印旛沼の水を内海(現在の東京湾)に排水(開疎)することで新田開発や利根川流域から江戸方面への水運の利を確保しようとし
享保9年の1724年、下総国千葉郡平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が同村から同郡検見川村(現在の千葉市花見川区検見川町)に向けて
約4里12町(約17km)の水路を開くことを江戸幕府に出願した。
幕府もこれに賛同して6000両を貸し与え、源右衛門も同志を集めて工事を開始したものの、思い通りにはいかず、難工事のために資金を使い果たしてしまい、ついに源右衛門は破産に追い込まれた.
1782年、当時の老中「田沼意次」は、再び開疎工事を計画、1785年、手賀沼干拓と並行する形で本格的工事に乗り出し、工事は途中まで進んだものの、翌年の利根川洪水及び田沼の失脚によって挫折した。1842年、老中「水野忠邦」は、三度開疎工事を計画、鳥居忠耀・二宮尊徳も計画実際に関与し、鳥取藩・庄内藩・沼津藩・秋月藩・貝淵藩の5藩には御手伝普請を命じたと云う。
6万人の人員と23万両の費用をかけて工事が行われたが、水野の失脚によって三度挫折し、後の黒船来航時に工事再開論が出ていることから、幕府内では引き続き工事を推進する動きがあった事が知られると云う。
天保の工事の背景として、1833年、「佐藤信淵」が著した「内洋経緯記」-外国船によって浦賀が封鎖された時に備えて、印旛沼と検見川を結んで北関東あるいは銚子から利根川・印旛沼・検見川を経由して江戸に物資を運びこむ水運を開くべきであると主張しており、当時危惧されていた外国船からの江戸防衛の一環として印旛沼開疎が計画されたと考えられていると云う。
明治以降も何度か計画が立てられたものの、本格的な干拓工事が再開されたのは、
昭和21年の1946年、28年の歳月をかけて印旛放水路を完成させるとともに約900haの水田を開いた。
この結果、印旛沼は、5.1㎢の北印旛沼と5.6㎢の西印旛沼に2分された。
私鉄 京成電鉄成田線 成田駅から二つ目 「京成宗吾参道駅」
「佐倉 惣五郎」生年不詳・ 承応2年、1653年ー。?
江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。
下総国印旛郡公津村( 現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は 木内 惣五郎・通称、宗吾とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。
代表的な義民として名高いが、 史実として確認できることは少ない。
惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成されている。
義民「佐倉惣五郎」の旧宅は印旛沼に近い。
東勝寺の宗吾霊堂は、五輪マラソン金メダリスト「高橋尚子」必勝祈願を。
麻賀多神社の1200年・大杉、幹回り8mは、関東一。
駅前の山門
「佐倉城址公園」
佐倉城跡を整備した公園。
市内の中心に位置し、市民の憩いの場でもある。園内には、740本の桜が4月上旬に咲き「桜祭り」が開催される。
又、6500本の花菖蒲が6月咲き乱れる。秋は、大木の紅葉と季節ごとの彩りの美しさでも昔から知られている公園である。
城跡でも、未だに水堀・空堀・本丸跡・等の遺構も残り、歴史的でも見どころの多い公園である。
千葉県は、小さい藩が多い中に佐倉藩は、11万石の城下町であった。
「佐倉街道」
足立区の千住で日光街道からわかれて、葛飾の新宿で「陸前浜街道」と分かれ、下総の八幡(千葉県市川市)-船橋を経て「佐倉」へはいる。
八幡までは、五街道に準じて「道中奉行支配」。
佐倉藩主参勤交代路ー小岩(江戸川)の関所があり、一般旅人は「行徳(市川)」まで水路を利用し、途中から街道へ入っている。
小岩ー船橋までは、国道14号線の千葉街道・船橋から先は国道296号線・佐倉から千葉は国道51号線で「佐倉街道」と云っていた。
「旧城下町佐倉武家屋敷」
佐倉らしい土塁・生垣が続き、「宮小路町」に残っている。
旧河原家住宅・旧但馬家住宅・他3棟の武家屋敷跡、江戸後期の建築と云う。(県文化財指定)
入館有料
「大聖院」
佐倉藩刀工「細川忠義」の墓がある。
本尊は、市指定文化財
静かな武家屋敷に隣接し和風庭園が。
「植物苑」 公園入口にある。
暮らしの植物が
「佐倉の山車」
戦国時代末期、千葉氏は、佐倉城(現在・本佐倉城)が手狭になっていた事から鹿島川沿いの鹿島山(現在の佐倉城址)を新たな拠点とするべく
鹿嶋城の築城を始める。
完成する事はなかった。が、1603年、「徳川家康」が・ その当時の祭礼ー3年に1度を大祭とし山車、御神酒所を引き廻し、それ以外の年は御神酒所のみを引き廻したと言われ、神社御神輿の渡御とあわせ、 その祭礼が、「佐倉新町江戸まさり」。伝統行事に。
鹿嶋神社
社殿
堀田氏紫袖ー濃桐丸
「香取秀真」 1871-1954 工芸作家・歌人 (正岡子規門下・芥川竜之介などと親交)・芸大教授
千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれ、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。
一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごし、佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていたと云う。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学び、和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書「万葉集」を写し作歌を学んだ。
この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになり、
「秀綱」に上京したい、と願い出たと云う。
秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れ、上京の資金は、代々受け継がれていた土地を売って準備してくれたと云う。
秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。
麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されていると云う。
1891年、東京美術学校首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。
卒業制作は「上古婦人立像」・その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚している。
碑
「佐倉順天堂」
藩主「堀田正睦」の招きを受けた蘭医「佐藤泰然」が、天保の1843年、に開いた蘭医学の塾兼診療所。
西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出。
現在、安政5年の1858年、に建てられた建物の一部が残り、「旧佐倉順天堂」として県の史跡に指定。
私立衛生病院院長 浜野 界
次回も公園内の「佐倉連隊」。