「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」ー国指定天然記念物
房総半島の地表面の大部分は約6,500万年前より新しい第三紀と云う。
新しくて柔らかい地層でできているが、銚子には古く堅い地層が露出している。
銚子半島の先端にある犬吠埼灯台下の海岸には、白亜紀に海底で堆積した地層が顔を出し、これが、国指定天然記念物「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」。
白亜紀というと恐竜が生きていた時代で、白亜紀の地層は関東から西に分布するが、そのような古い地層を地表で見ることができる場所は、関東地方ではここだけ。犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は、浅い海の海底で作られた堆積物である。
浅海特有の堆積構造として、海底の砂の表面につけられたさざ波の痕跡が観察できる。
この波の痕跡は、波長4~7cm、波高3~6mmで、ほぼ平行に規則正しく並んでおり、このような痕跡を「漣痕」と呼ぶ。
指定地域とその周辺には、銚子層群犬吠砂岩層が分布しており、砂岩と頁岩の互層をなしている。
漣痕は、その砂岩層の表面に観察でき、これは、砂の表面にできたさざ波の跡の上に、頁岩層の元になる泥が静かに堆積したまま地層中に保存。
この地層は化石も豊富で、付近ではアンモナイトの化石が発見されている。
地表で白亜紀の地層と漣痕が観察できる、全国的にも数少ない貴重な場所。
犬吠埼灯台
「良文貝塚」 国指定史跡・香取市貝塚。
利根川の支流である黒部川の右岸、複雑に開析された標高約50~52mの台地の斜面に良文貝塚が広がっている。
貝層は、東西約340m・南北約170mの範囲から、今までに9地点以上が見つかっており、利根川下流域で最大級の面積、貝層はハマグリが主体で、シオフキ・オキシジミ・アカニシ等が見られることから、主に海に棲む貝を消費したことによる貝塚であることが判明している。
個々の貝層はあまり大きくはないものの、榎谷付近には、貝層の厚さが3mを越す地点もあり、台地の上に居住地を設けた縄文人が谷へ向かう斜面へ大量の貝殻を廃棄したものと考えられている。
記録として残っているこの貝塚の発掘調査は明治時代に始まり、地域に密着した保存活動により、貝層部分を中心として昭和5年付けで文部大臣から民有地15筆が国史跡に指定され、千葉県の貝塚としては、記念すべき初の国指定史跡となった。
貝塚が形成された時期は、縄文時代中期から晩期初頭で、地点によって時期のかたよりも見られ、土器のほかには、石器類・土製品・石製品・骨角器・貝製品等、当時の日用品や装飾品など様々なものが確認されている。
また、貝類以外の自然遺物として哺乳動物や魚類、鳥類の骨も確認されており、縄文人の食料や生活の様子をうかがうことができると云う。
千葉県香取郡小見川町・県北東部の利根川に面した町、麻の産地(麻積郷)と呼ばれら町・「良文村」は編入され、利根川沿いと谷津の低地は、
香取海が入り込んでいた。周辺の下総台地緑辺に史跡の「良文貝塚と阿玉台貝塚・城山古墳群が分布している。
中世から小見川城は築かれ、江戸時代は、小見川藩の城下町であった。特に、利根川水運の中継地として栄え、醸造業が栄えた。
明治30年には総武鉄道・成田鉄道が開通している。
昭和48年小見川大橋完成で「鹿島臨海工業地域」と結ばれた。
利根川・黒部川で稲作・野菜・家畜盛んに。
「香取郡小見川郷・香取市小見川」一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「 あいはら」「あいばら」と読み、平安時代末期、
平常長(千葉大夫常長)の四男・粟飯原常基を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領したとある。
しかし、下総国内に「 粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市相原)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原(藍原)氏は武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないと云う。
JR香取駅(無人)
庚申塚
毘沙門天・千仏寺
本堂
忍男神社
東の宮、1607年徳川幕府社殿造営
社殿
JR成田線神宮踏切
「董橋・草履抜橋・じょん抜橋」 湧き水で身を清める。
董橋
「神道山古墳群」
香取駅南西の利根川南岸台地上に分布。「前方後円墳1、円墳11基」からなる。古墳名は 墳形
前方後円墳 墳長47m、後円部径27m、同高約4m、前方部幅25m、同高4m 香取字神道他 台地 前方後円墳集成、
北西から。左が後円部、右が前方部。尾根上に築かれた前方後円墳で後期の築造と推定され、古墳は、昭和の初め頃、香取神宮主の御陵墓かと騒がれた。
北東から、後円部。丘陵上は、ハイキングコースが整備されている。
南西から、前方部。
関連する古墳ー山武市蕪木5号墳・香取市富田1号墳・香取市神道山古墳群その他・香取市宗勝寺古墳 が。
又見古墳、神道山古墳は、下海上国(香取市)の古墳、墳丘からの眺めは良い。
香取神宮の西側300m位、「又見神社」が、石段を上がっていくと、小さな社殿がある。
「又見古墳」は、 7世紀中葉. 石室のみが現存し、現状では墳丘を確認することはできない、とある。
玄門をコの字型に抉り抜いた2枚の板石を組み合わせているのは珍しい。下総には類例がなくと云う。
東関東自動車道「佐原・香取IC」と結ぶ 55号線
「香取神宮」 下総国一宮。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。
宮中の四方拝で遥拝される一社である。
参道入口
創建ー社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記・8世紀初頭成立」
にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とある。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説と、これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説がある。
大鳥居
樹木に覆われた参道
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山」と称される丘陵上に鎮座・日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する「経津主神」を
祭神とすることで知られ古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。
その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社。
主祭神は、経津主。日本書紀(720年)一書として「原 1」イザナギ(伊弉諾尊)がカグツチ(軻遇突智)を斬った際、剣から滴る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であるとしている。
また別の一書として「原 1」カグツチの血が岩群を染めイワサク・ネサク(磐裂神・根裂神)が生まれ、その御子のイワツツノオ・イワツツノメ
(磐筒男神・磐筒女神)がフツヌシを生んだとしている。
その後、日本書紀本文では、「原 2」天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行なったという。(古事記ではフツヌシは登場しない)
古社 香取神宮
神徳ー古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く、特に「神宮」の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は「下総国の一宮」。
明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っている。
奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地(400余)に及んでいて、広く尊崇をあつめている。
家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰され、さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、
勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名。
境内
中門
「文化財」-中国唐代の海獣葡萄鏡が国宝に指定・建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定・その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
仁王門
献上樽酒
重要文化財の「狛犬」 東国三社「香取神宮・鹿島神主・息栖神社(富士山を起点とし90度)」
祭神ー経津主大神(伊波比主神・斉主神・斉之大人)
社殿
次回は、鹿嶋神社へ。
房総半島の地表面の大部分は約6,500万年前より新しい第三紀と云う。
新しくて柔らかい地層でできているが、銚子には古く堅い地層が露出している。
銚子半島の先端にある犬吠埼灯台下の海岸には、白亜紀に海底で堆積した地層が顔を出し、これが、国指定天然記念物「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」。
白亜紀というと恐竜が生きていた時代で、白亜紀の地層は関東から西に分布するが、そのような古い地層を地表で見ることができる場所は、関東地方ではここだけ。犬吠埼の白亜紀浅海堆積物は、浅い海の海底で作られた堆積物である。
浅海特有の堆積構造として、海底の砂の表面につけられたさざ波の痕跡が観察できる。
この波の痕跡は、波長4~7cm、波高3~6mmで、ほぼ平行に規則正しく並んでおり、このような痕跡を「漣痕」と呼ぶ。
指定地域とその周辺には、銚子層群犬吠砂岩層が分布しており、砂岩と頁岩の互層をなしている。
漣痕は、その砂岩層の表面に観察でき、これは、砂の表面にできたさざ波の跡の上に、頁岩層の元になる泥が静かに堆積したまま地層中に保存。
この地層は化石も豊富で、付近ではアンモナイトの化石が発見されている。
地表で白亜紀の地層と漣痕が観察できる、全国的にも数少ない貴重な場所。
犬吠埼灯台
「良文貝塚」 国指定史跡・香取市貝塚。
利根川の支流である黒部川の右岸、複雑に開析された標高約50~52mの台地の斜面に良文貝塚が広がっている。
貝層は、東西約340m・南北約170mの範囲から、今までに9地点以上が見つかっており、利根川下流域で最大級の面積、貝層はハマグリが主体で、シオフキ・オキシジミ・アカニシ等が見られることから、主に海に棲む貝を消費したことによる貝塚であることが判明している。
個々の貝層はあまり大きくはないものの、榎谷付近には、貝層の厚さが3mを越す地点もあり、台地の上に居住地を設けた縄文人が谷へ向かう斜面へ大量の貝殻を廃棄したものと考えられている。
記録として残っているこの貝塚の発掘調査は明治時代に始まり、地域に密着した保存活動により、貝層部分を中心として昭和5年付けで文部大臣から民有地15筆が国史跡に指定され、千葉県の貝塚としては、記念すべき初の国指定史跡となった。
貝塚が形成された時期は、縄文時代中期から晩期初頭で、地点によって時期のかたよりも見られ、土器のほかには、石器類・土製品・石製品・骨角器・貝製品等、当時の日用品や装飾品など様々なものが確認されている。
また、貝類以外の自然遺物として哺乳動物や魚類、鳥類の骨も確認されており、縄文人の食料や生活の様子をうかがうことができると云う。
千葉県香取郡小見川町・県北東部の利根川に面した町、麻の産地(麻積郷)と呼ばれら町・「良文村」は編入され、利根川沿いと谷津の低地は、
香取海が入り込んでいた。周辺の下総台地緑辺に史跡の「良文貝塚と阿玉台貝塚・城山古墳群が分布している。
中世から小見川城は築かれ、江戸時代は、小見川藩の城下町であった。特に、利根川水運の中継地として栄え、醸造業が栄えた。
明治30年には総武鉄道・成田鉄道が開通している。
昭和48年小見川大橋完成で「鹿島臨海工業地域」と結ばれた。
利根川・黒部川で稲作・野菜・家畜盛んに。
「香取郡小見川郷・香取市小見川」一帯を領した千葉氏の古族である。「粟飯原」は「 あいはら」「あいばら」と読み、平安時代末期、
平常長(千葉大夫常長)の四男・粟飯原常基を祖とし、戦国末期までの約五百年、小見川周辺を領したとある。
しかし、下総国内に「 粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市相原)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原(藍原)氏は武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないと云う。
JR香取駅(無人)
庚申塚
毘沙門天・千仏寺
本堂
忍男神社
東の宮、1607年徳川幕府社殿造営
社殿
JR成田線神宮踏切
「董橋・草履抜橋・じょん抜橋」 湧き水で身を清める。
董橋
「神道山古墳群」
香取駅南西の利根川南岸台地上に分布。「前方後円墳1、円墳11基」からなる。古墳名は 墳形
前方後円墳 墳長47m、後円部径27m、同高約4m、前方部幅25m、同高4m 香取字神道他 台地 前方後円墳集成、
北西から。左が後円部、右が前方部。尾根上に築かれた前方後円墳で後期の築造と推定され、古墳は、昭和の初め頃、香取神宮主の御陵墓かと騒がれた。
北東から、後円部。丘陵上は、ハイキングコースが整備されている。
南西から、前方部。
関連する古墳ー山武市蕪木5号墳・香取市富田1号墳・香取市神道山古墳群その他・香取市宗勝寺古墳 が。
又見古墳、神道山古墳は、下海上国(香取市)の古墳、墳丘からの眺めは良い。
香取神宮の西側300m位、「又見神社」が、石段を上がっていくと、小さな社殿がある。
「又見古墳」は、 7世紀中葉. 石室のみが現存し、現状では墳丘を確認することはできない、とある。
玄門をコの字型に抉り抜いた2枚の板石を組み合わせているのは珍しい。下総には類例がなくと云う。
東関東自動車道「佐原・香取IC」と結ぶ 55号線
「香取神宮」 下総国一宮。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。
宮中の四方拝で遥拝される一社である。
参道入口
創建ー社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記・8世紀初頭成立」
にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とある。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説と、これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説がある。
大鳥居
樹木に覆われた参道
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山」と称される丘陵上に鎮座・日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する「経津主神」を
祭神とすることで知られ古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。
その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社。
主祭神は、経津主。日本書紀(720年)一書として「原 1」イザナギ(伊弉諾尊)がカグツチ(軻遇突智)を斬った際、剣から滴る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であるとしている。
また別の一書として「原 1」カグツチの血が岩群を染めイワサク・ネサク(磐裂神・根裂神)が生まれ、その御子のイワツツノオ・イワツツノメ
(磐筒男神・磐筒女神)がフツヌシを生んだとしている。
その後、日本書紀本文では、「原 2」天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行なったという。(古事記ではフツヌシは登場しない)
古社 香取神宮
神徳ー古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く、特に「神宮」の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は「下総国の一宮」。
明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っている。
奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地(400余)に及んでいて、広く尊崇をあつめている。
家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰され、さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、
勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名。
境内
中門
「文化財」-中国唐代の海獣葡萄鏡が国宝に指定・建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定・その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
仁王門
献上樽酒
重要文化財の「狛犬」 東国三社「香取神宮・鹿島神主・息栖神社(富士山を起点とし90度)」
祭神ー経津主大神(伊波比主神・斉主神・斉之大人)
社殿
次回は、鹿嶋神社へ。