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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

友好都市、英メドウエイ市(按針生誕地)

2018-01-19 | 気まま旅
伊東のミカンは甘くて旨い。

「みかんの花咲く丘」
第2次世界大戦の終戦直後に生まれた童謡が、伊東から。
日本を代表する名作の1つとして知られ、1946年、発表。
作詞は、加藤省吾、作曲は、海沼實・「井口小夜子が吹き込んだ物と、川田正子が吹き込んだ物がある」

    「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる・・・・・。

「三浦按針・アダムス」 1564-1620 日本最初のイギリス人航海士 イギリスと友好都市に。
徳川家康からー250石を貰い、家臣となる。日本橋に屋敷を与えられ、日本女性と結婚し1男1女の4人家族。
家康の命令で、ここ伊東で西洋風船を造る。他にも幾何学・数理学などを講じたとある。現在、横須賀に按針塚が残されている。

                   オリーブの木の囲まれた公園


                     徳川家康と大名時計


                         三浦按針


「松原・湯川」の海岸を「伊東海岸と云う。
延長1kmで遠浅の砂山である。6月中旬海開き「市営海浜・温泉プールもある」・夏ミカン狩りは3~5月頃

                     伊東港の岸壁


                    伊東港の灯台と初島


                  按針の指導で、帆かけ船建造場面


        宇佐美ー伊東港ー川奈ー小室山―門脇岬―蓮着寺(日蓮上人の霊場)-城ヶ島と続く


                        オリーブの木




「木下杢太郎」 明治時代の医学者で文学者・記念館が近くである。伊東公園に碑が建つ。
「北原白秋」の伊東音頭の碑・「尾崎士郎」文学碑(戦時中疎開)・「与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・高浜虚子」の碑がある。
これは、木下の「明星」の仲間と云う。





伊東は終了します。

伊東 なぎさ公園 海岸

2018-01-17 | 気まま旅
東京都大島町・伊豆半島の東・都の南120km・東西約9km、南北約15km・伊豆諸島最大の島・富士箱根伊豆国立公園・大部分が玄武岩三重式成層
火山・島中央にあるカルテラは、7~8頃噴火に2つのカルテラが合体した。
9世紀頃海岸が割「池」が。1703年地震で津波のより海に、1777年大噴火により「三原山標高758m」誕生、島周囲53km。

                      伊東の街の夜景


                        朝が 日の出


                     太陽が顔を出した


               大室山の山開きは3月の第一日曜日


                        朝の相模湾


                       伊豆高原方面


                町の中央を流れる大川沿いにある「東海館」


                           大川橋


                       大川橋からの東海館


              三浦按針(ウイリアム・アダムス)に指導で造船作業が


「夢花火」 伊東海岸. 8月・ 宇佐美花火大会 ー 宇佐美海岸. 8月、「灯籠の流れ」打上花火. 伊東 海岸. 8月・
「太鼓の響き」打上花火.伊東海岸. 8月、 第72回按針祭 海の花火大会. 伊東海岸一帯. 8月・ やんもの 里花火大会. 八幡野海岸. 8月・
川奈港いるか浜花火大会と続く。
                       伊東の花火


                      伊東湾灯台と向かいの大島


                   伊東ー初島を結ぶ 東海汽船乗り場


                         朝の岸壁で釣り人が


                         なぎさ公園へ


渚町ー伊東駅前12号線を海岸に向かうと、国道135号線と交差、大川に沿って、川口公園を抜けると伊東湾に出る、次回に。


伊豆の東に位置 「伊東」

2018-01-16 | 気まま旅

中世の豪族「伊東氏」は、「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人。
1261年の日蓮もこの地に流され、居住跡が「仏現寺草案跡」とされた。
1605年ウイリアム・アダムス・三浦按針がここ伊東で西洋式帆船の建造された云われる。
温泉は、和田大湯・松原出来湯・猪戸湯の3種「汲湯」江戸城に運ばれている。現在大川中心に800本近い源泉をもっている。
伊東は、3月の第一日曜日大室山の山焼きで春を迎え観光シーズンに。

                      伊東駅広場


音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)



松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。


幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。

  訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。




                          本殿








                         手石島が








「伊東祐親」平安時代の武将
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、「篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場 
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。

(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)

下田駅から 歩いてみよう。

2018-01-13 | 気まま旅

下田は駅付近、歩ける距離に名所旧跡が多い。
これは蓮台寺駅近く


                   稲生沢川ー下田港へ


「伊豆急下田駅の黒船の模型」

                 黒船「サスケハナ号」の模型




「蓮杖写真記念館」-ヒュースケンから写真術を学ぶ。


        下田駅に聳える 「寝姿山」 (駅からロープウエイ(黒船来航記念館)


                  喉の神様 香煎通り塚








                     新田御陣跡


            澤村邸 下田の特徴的な建物・旧下田創業者・旧下田町長(無料)






            




                  ペリーロード


               長楽寺  日露和親条約締結所


曹洞宗 行基開創と云われている。




               了仙寺 日米下田条約締結所


日蓮宗 1635年開創・アメリカの外交の舞台に

                    木造阿弥陀如来坐像


                     了仙寺前


                   下田ペリーロード


           下田市民文化会館・マイマイ通り 八幡神社


瑞龍山 玉泉寺
1856年アメリカ領事館に、2年10か月、ハリス利用していた。  1859年に江戸麻布の善福寺に移る。








下田ー山内容堂・勝海舟・竜馬

2018-01-10 | 気まま旅

山号ー八幡山 「宝福寺」
山内容堂・勝海舟謁見の間・坂本龍馬 脱藩の罪を許してもらうために謁見した寺ー龍馬は、この後更に活動を活発化していく。



1559年織田信長の圧迫を逃れ・「本願寺第11代顕如並に法孫釈了善」真言を改め開基した。
1854年日米和親交渉にあたり、日本全権本陣となる。(奉行所設置)
1865年韮山代官「江川太郎左衛門英武の本陣。
   農兵調錬所
明治に入りー第一回徴兵検査場に。



竜馬と海舟ー蝦夷開拓の夢を語っている。


19歳でハリス侍妾をやめ、22歳で京都祇園で芸妓(空白の5年)・28才で鶴松と再会し横浜で生活・36歳で下田芸妓に。
「安直楼」44歳で廃業、その後乞食の群れに、明治24年生涯を終える。













「山内容堂」 1827-72 土佐15代藩主、井伊直弼と対立、大政奉還建白書を提出  晩年隠居
「勝海舟」  1823-99 幕臣、かいりん丸艦長、アメリカへ渡る、海軍操錬所所長、徳川家存続に尽力 晩年隠居
「坂本龍馬」 1835-67 土佐藩、北辰流 千葉定吉に学ぶ、亀山社中を組織し、薩長同盟を締結、海援隊長となり倒幕運動に、
             「船中八策」を著して大政奉還を。



「大安寺」  伊豆88ヶ所霊場・ 第43番札所 の寺

山号ー乳峰山、宗派は、曹洞宗、本尊 釈迦如来。

初めは小田原にあった寺院、1573~1591年、に再興され、現在地に。

日向佐土原藩の船が、将軍家に献上するための御用材を積んで江戸に向かう途中で暴風雨に遭い、やむを得ず積荷の一部を捨てて下田港に入港、御用材を捨てた責任をとり16人が自害。
帰葬が許されなかったため、故郷の菩提寺と同名の大安寺に葬られる。
船に残されていた材木は、大安寺の本堂の柱として残っている。