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syuの日記・気まま旅

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伊豆の東に位置 「伊東」

2018-01-16 | 気まま旅

中世の豪族「伊東氏」は、「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人。
1261年の日蓮もこの地に流され、居住跡が「仏現寺草案跡」とされた。
1605年ウイリアム・アダムス・三浦按針がここ伊東で西洋式帆船の建造された云われる。
温泉は、和田大湯・松原出来湯・猪戸湯の3種「汲湯」江戸城に運ばれている。現在大川中心に800本近い源泉をもっている。
伊東は、3月の第一日曜日大室山の山焼きで春を迎え観光シーズンに。

                      伊東駅広場


音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)



松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。


幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。

  訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。




                          本殿








                         手石島が








「伊東祐親」平安時代の武将
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、「篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場 
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。

(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)

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