syuの日記・気まま旅

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足利市ー古河の旅 2

2016-07-24 | 気まま旅
「金山城」
太田市のシンボル金山。赤松に覆われている秀麗な山。
戦国時代に城が築かれ,金山山頂中心の18.3ha北城、八王子山の砦と大手の士と屋敷など含め全部でー97.8ha。
平成14年国の史跡に指定される。
戦乱の世が反映された実践的な城で、土塁や堀切、石垣や石敷きなどが多用されているのが特徴。
「桜の井戸」
斜面に「桜の井戸」があり、戦国期から、いままでも水をたたえている。

                 戦国時代を見てきた桜の根


                  金山城の全体模型
  

天正12年の1584年、「小田原北条氏」に金山城主「由良国繁」と、その弟で館林城主「長尾顕長」が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されたが、
二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡し、由良氏は桐生城に退いた。
金山城には北条氏の家臣が配置され、1590年、「豊臣秀吉」の小田原攻略に伴い、金山城は廃城となった。

金山山頂中心に97.8haの広さ           城を囲む山塁 実践的砦
  

金山城の中にある「新田神社」は、1875年本丸跡に建てられた神社ー新田義貞公を祀っている。近くに樹齢800年の大欅がある。

月の池跡                       当時が偲ばれる石垣
  


山頂では、貴重な池                    山頂にある 新田神社
  

金山からは、上毛三山、秩父連峰、日光連山などが一望         幾多の戦いに耐えた山城
  

「群馬県太田市から栃木県足利」

足利学校は、以前数回取り上げている。
室町幕府を開いた足利氏の鑁阿寺・足利学校跡は、JR両毛線・足利駅に近い。
足利市は、渡良瀬川の清流や緑なす山並みが、東の小京都と呼ばれ、文化遺産も数多く残されている。
室町時代の始まり(1336~1573年)、室町時代は、現在の栃木県足利市出身の足利尊氏が、指導的立場にあった「後醍醐天皇」を奈良・吉野山中に追放したことに始まる。
これは、後醍醐天皇が確立した建武の新政が朝廷・公家中心であり源平以降築き上げてきた武士の主張に対して冷遇されたために憤慨したのが理由とされる。
追放した後醍醐天皇とは別に京都に同じ天皇家でも系統違いの光明天皇(北朝)を立て、将軍宣下をいただき後に幕府を開いたことから始まる。
「室町」時代の呼び名は、三代将軍「足利義満」が、京都の室町に御所(花の御所)を開いたことによる。

                      足利尊氏立像
    

足利学校は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府。
下野国足利庄五箇郷村(現栃木県足利市)にあったが、明治初期にはほとんど建物があるだけになっており、明治5年の1872年、に廃校になった。
1990年に方丈や庭園が復元され、公開。
今日では足利市の生涯学習・市教育委員会によって管理。

    
 
近代足利の発展に寄与した松村家。
江戸・明治・大正・昭和期の松村家に伝わる調度品や生活用品などが見学できる。
足利出身の横田千之助司法大臣を初めとする政治家・文化人・学者などの資料を紹介している。入館料¥300

足利市の街並み                           松村記念館
  

「鑁阿寺」
正しくは、「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」で、源姓足利氏の居館でもあった。
1196年ー「足利義兼」が開基。
大御堂、一切経堂、鐘楼、多宝塔、本尊大日如来など国の重要文化財がおおい。また市民から「大日様」として親しまれている。
足利一族の発祥の地で、鎌倉時代の武家屋敷としての面影を強く留めている。

              防御のために作られた水堀や土塁が残っている。
        


室町幕府初代将軍、「足利尊氏・高氏」 1305-58 執権北条氏専制強い、源氏再興を考える。
後醍醐天皇に鞍替え倒幕に旗揚げし、六波羅探題を攻め滅ぼす。
鎌倉に進撃した「新田義貞」軍に4歳の嫡男を参加させている。
入京したが北畠軍に敗れ九州へ逃げた。
態勢を立て直し、東上、入京上皇の弟「光明天皇」を即位させ「建武式目」を発し幕府を開く。
尊氏は、争乱の中、病死している。天皇の名「尊治」の尊を賜り「尊氏」と改名。

鑁阿寺山門                       本堂
  

足利義詮 1330-67二代将軍。尊氏の嫡男、幼時から尊氏と参戦していた将軍、足利直義、直冬と共に新田義貞軍と鎌倉幕府を攻めている。
 
  

足利市は、県南西部に位置し、足尾山地南端の渡良瀬川北岸に町が広がっている。
古代から交通の要地で、東山道の宿駅であった。
また「足利銘仙」でも知られている。足利織物の歴史は古く、奈良時代と云われている。
本格的に発展したのは、江戸に入ってからで隣接する桐生と競合したが独自に生産に取り組み、輸出向けに絹織物を出し注目され増産していった。
大正に入り西宮町に県の工業試験場が出来ている。ここから「足利銘仙」を登場させた。

室町幕府将軍 16代15人。(義植が再任)

臨済宗妙心寺派「善徳寺」
足利氏8代目の直系で、室町幕府初代将軍の足利尊氏を開祖、一門の仏満禅師を開山として1368年に創建された名刹。
2002年から03年にかけて、本堂の解体修理が著名な宮大工小川三夫氏によって行われ、同時にご本尊の薬師如来像と、脇侍の日光・月光菩薩像の修理が行われ、善徳寺に隣接する史跡・足利学校本堂修理後に新しく作られた山門解体修理され、善徳寺本堂須弥檀の配置工事と修理も行われた。

                         善徳寺 本殿
  

              「樹覚寺」                       
                           本殿
  


              「法楽寺」

        足利氏三代目、義氏が,1249年に創建。墓所があり、15代目、義政の建立
  


主な足利氏

足利義満 1358-1408 日本国王と称した三代将軍。義詮の長男、南北朝合一し明との貿易、禅宗寺院の統制、文化指導。金閣寺を建てた。

足利義教 1394-1441 独裁的六代将軍。義満の子、嘉吉の乱 自分も殺されると赤松満祐に殺される。

足利義正 1436-90  東山文化を興す八代将軍 応仁の乱が起きる。宗教芸術に没頭、銀閣寺など次々と建てる。

足利義尚 1465-89  義政と日野富子の子九代将軍 跡継ぎ争いと、富子の干渉うるさく学問に。

足利義晴 1511-50  十二代将軍 一向一揆と法華一揆で京を明渡し近江へ。

幕府の終期に尽いては、1573年に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を
織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した。この間の約240年余りを室町時代と呼ぶ。尚、明徳の和約(1392年、北朝と
南朝の統一)迄を南北朝時代、明応の政変(1493年)までであろう。


正義山 法楽寺  1249年(建長元年)に、足利義氏によって建立。

両崖山を主峯として南端の機神山まで・・・北から南に連なる。高さ100メートル前後の山丘の一つ、鏡山の山ふところに
いだかれた山麓にあり、寺の山門は東面している。
即ち、西が高く、東が低くなる山麓の斜面に墓地が作られている。一段下がった境内の南部に鐘楼、東端に山門が建ち、
山門から石階を下りて直線状に参道がつづき、寺の入口の北隅に石標が建っている。

1860年(万延元年)に境内木小屋からの火災により、大門をのこし本堂、庫裡、土蔵までを消失。
1868年(明治元年)に再建 (住僧天忠和尚)、現在の本堂は1983年(昭和58年)に建立 (圓證洋雄和尚

                   京都銀閣寺を模した堂
  

足利義氏
鎌倉時代前期 生誕 1189年・死没 1255年。武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。

義氏は樺崎寺(かばさきでら)を創建した足利義兼の三男で、鑁阿寺(ばんなじ)の一山十二坊(鑁阿寺とその周囲の十二院からなる寺院経営の体制)を整備した人物。

                     足利義氏の墓




足利市の利性院では、閻魔大王の朱塗りの座像(約2m)が有名で、お堂の前に立つと、自動的に「えんまさま」の姿が照らし出される仕組み。
閻魔さまは地蔵菩薩の化身で農閑期にあたるやぶいり(1月・8月の16日)には閻魔様も休みをとり、地獄の門が開くと考えられている。
「閻魔大王祭」には、甘酒・湯茶の接待もある。

足利駅近くにある「利性院閻魔大魔王」
  

次回は、あしかがフラワーパイク・栗田美術館へ。