上市から8号線に出て、富山市に入る。市は、県の中部に位置していて、県の面積の3分の1を占める。
西部になだらかな呉羽丘陵が横たわるほかは、神通川、常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。
南東部を見渡すと雄大な北アルプス立山連峰を一望できる。北部に目をやると、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。
市に入ると、小さな「山室江口神社」があった。山室町の鎮座で車を止めて参拝する。
1532年土豪「水越勝重」により、富山城を築城。富山市内は、神通川、蛇行の要害の地で、安住城、浮城とも呼ばれている。
城主は、神保氏、佐々成政、前田氏で、1639年に「前田利次」が初代藩主として10万石の藩として誕生した。
富山と云えば売薬保護を受け発展した。売薬専門は、「反魂丹」の役所がおかれた。
市内は、たびたび河川の氾濫、大火、(1858年)安政地震、立山連峰、鳶山の崩壊、常願川の氾濫、と城内などの大被害を出している。
神通川に舟に板を渡した「舟橋」は、越中名物となった。
現在でも富山と云えば伝統薬業を受け継いで製薬会社が多い。あと梨栽培が盛んで「呉羽梨」で知られている、水産加工業も多い。
市の中央に聳える富山城天守閣
中世に築城したと云われた、神保長職は、1560年、上杉謙信により富山城を追われ、神保氏の治世は僅かな間であった。
その後、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、天正6年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。
しかし、1582年、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。
信長が成政を越中に封じた時期については、前年、上杉方による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。
第二代藩主・前田正甫像、 公園内 松川
富山に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年、秀吉自ら率いる10万の大軍に
城を囲まれ降伏し富山城は破却された。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、1609年に建物の主要部をことごとく焼失、高岡城を築いて移り、
富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。
江戸時代、1639年、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。
1640年、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、
藩の財政がそれを許さなかったため、1659年に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。
1661年、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。
城跡苑内の松並木 堀 石垣
「前田利長」1562-1614 母を人質にお家安泰を図った二代目。関ケ原の戦いで家康東軍に、五大老に就任して、加賀、能登、越中国を拝領した。
将軍秀忠の関係は、友人。
天守閣入口 城外壁
城跡が「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。公園内に残る石垣や堀からは、当時の威容を見ることができる。
また、戦後に建設された天守閣内の「富山市郷土博物館」では、400年以上にわたる富山城の歴史を紹介している。
園内には、東洋の古美術を中心に展示「佐藤記念美術館」もある。
平成18年からの富山城石垣改修工事に合わせて石垣の調査が行われ、石垣の築造技術のすばらしさや、歴史的価値の高さがわかってきているという。有料
苑内 城内の朱色の橋 古木
富山城天守閣の4階天守展望台からは周囲が一望。
博物館正面 富山城正面
城址大通り・富山駅前~城址公園前、 国道41号・桜橋電車通り県道22号線、県道43号、平和通り県道6号・県道62号、県道3号魚津、けやき通り208号線、
すずかけ通り富山駅、雪見通り県道30号富山港、しののめ通り 県道172号などが、県庁城址・富山駅に繋がって、市のアーチ式繁華街が有る。
富山の食材を使った、寿司、鰤のしゃぶしゃぶ、刺身などが目に付いた。
城前から富山駅方面 城の堀にもなっている松川と桜並木
「本願寺富山別院」は、仏教の流れを汲む、浄土真宗本願寺派で、親鸞聖人を宗祖、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。
経典は浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)を正依としている。本山は京都市の「浄土真宗本願寺派本願寺」(西本願寺)。
富山別院は、1800年頃から本山会所を設けている。1884年に許可、1945年、富山大空襲にて別院4度目の焼失。
1996年、蓮如上人500回遠忌・顕如上人400回忌・ 別院再建30周年法要。富山市総曲輪の商店街裏にある。
本願寺富山別院 拝殿 親鸞聖人
鐘楼 本殿
「富山総曲輪商店街」は、城の外堀であった。明治時代の初めに外堀が埋め立てられ、浄土真宗の本願寺別院を参詣する人々で賑わうようになり、
やがて様々な店舗や芝居小屋、寄席などが建ち並び、現在のような繁華街へと発展する事になる。大正時代には全国初の商店街団体「商盛会」も誕生している。
街の中心部には総曲輪通り商店街、グランドプラザ、総曲輪フェリオなどがあり、賑わいを見せる。3施設はそれぞれ接続している。
大手モールから桜橋電車通りを結ぶ商店街。1953年に全国では5番目のアーケードが取り付けられた。
電車通りを挟んで中央通り商店街(さんぽ~ろ)が隣接しており、こちらは1956年にアーケードが設置された。大型モニター、昇降式のステージなどが特徴。
2007年複合商業施設。キーテナントの大和富山店のほか、多くの専門店で賑うが、朝で人出生薔薇であった。
市の中央商店街 居酒屋など夜の繁華街
神通橋は、1969年の豪雨では西岸から2番目の橋脚が3.45m沈下して路面が陥没し、通行が不可能になった。
下流の神通大橋をそれぞれ一方通行にし、翌月には歩道橋と車道橋を橋の西側に仮設。1970年に復旧工事は完了、1990年代に入ると老朽化や片側1車線
という交通容量の小ささが問題になり、文化遺産としての保存も検討されたが耐久面に問題があると判断され、架替と現在の橋の取り壊しが決まった。
2006年より2代目の富山大橋の建設が始まり、予定よりも遅れ2012年完成している。
富山大橋 神通川
「白鳥城址」は、1183年に源義仲の武将、「今井四郎兼平」が陣を張ったとするのが最初の記録で、越中守護代「神保長職」が「上杉謙信」の越中攻めに
備えて本格的に築城、富山城の詰城として利用されたと思われる。
神保氏の降伏により城は上杉方の手に移ったが、1572年には西から攻め寄せる一揆勢により落城した。
白鳥城は、東側が急斜面となっており東からの攻撃には強かったが、西側はなだらかな斜面となっており、西からの攻撃には脆弱な城であったようである。
上杉謙信の死後、越中が織田方の支配下にはいると、「佐々成政」が富山城に入り白鳥城も引き続きその支城として使われたと思われるが、
1585年に羽柴秀吉が成政を攻めた際「富山の役」、富山城を見下ろす位置にある白鳥城に豊臣軍の陣が置かれた。
成政降伏後は前田利家が有し、まだ越中の一部を領していた成政に備えるため城将を置き、慶長年間の初めまで続いた。現存する縄張りはこの頃に完成したもの。
白鳥城跡 土塁 山道
高岡市に向かうが、途中に「明神社」と云う小さな神社があった、明神とは、日本の神道の神の称号の一つ、豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。 参拝。
珍しい明神社が
次回は高岡方面へ。
西部になだらかな呉羽丘陵が横たわるほかは、神通川、常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。
南東部を見渡すと雄大な北アルプス立山連峰を一望できる。北部に目をやると、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。
市に入ると、小さな「山室江口神社」があった。山室町の鎮座で車を止めて参拝する。
1532年土豪「水越勝重」により、富山城を築城。富山市内は、神通川、蛇行の要害の地で、安住城、浮城とも呼ばれている。
城主は、神保氏、佐々成政、前田氏で、1639年に「前田利次」が初代藩主として10万石の藩として誕生した。
富山と云えば売薬保護を受け発展した。売薬専門は、「反魂丹」の役所がおかれた。
市内は、たびたび河川の氾濫、大火、(1858年)安政地震、立山連峰、鳶山の崩壊、常願川の氾濫、と城内などの大被害を出している。
神通川に舟に板を渡した「舟橋」は、越中名物となった。
現在でも富山と云えば伝統薬業を受け継いで製薬会社が多い。あと梨栽培が盛んで「呉羽梨」で知られている、水産加工業も多い。
市の中央に聳える富山城天守閣
中世に築城したと云われた、神保長職は、1560年、上杉謙信により富山城を追われ、神保氏の治世は僅かな間であった。
その後、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、天正6年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。
しかし、1582年、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。
信長が成政を越中に封じた時期については、前年、上杉方による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。
第二代藩主・前田正甫像、 公園内 松川
富山に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年、秀吉自ら率いる10万の大軍に
城を囲まれ降伏し富山城は破却された。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、1609年に建物の主要部をことごとく焼失、高岡城を築いて移り、
富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。
江戸時代、1639年、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。
1640年、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、
藩の財政がそれを許さなかったため、1659年に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。
1661年、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。
城跡苑内の松並木 堀 石垣
「前田利長」1562-1614 母を人質にお家安泰を図った二代目。関ケ原の戦いで家康東軍に、五大老に就任して、加賀、能登、越中国を拝領した。
将軍秀忠の関係は、友人。
天守閣入口 城外壁
城跡が「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。公園内に残る石垣や堀からは、当時の威容を見ることができる。
また、戦後に建設された天守閣内の「富山市郷土博物館」では、400年以上にわたる富山城の歴史を紹介している。
園内には、東洋の古美術を中心に展示「佐藤記念美術館」もある。
平成18年からの富山城石垣改修工事に合わせて石垣の調査が行われ、石垣の築造技術のすばらしさや、歴史的価値の高さがわかってきているという。有料
苑内 城内の朱色の橋 古木
富山城天守閣の4階天守展望台からは周囲が一望。
博物館正面 富山城正面
城址大通り・富山駅前~城址公園前、 国道41号・桜橋電車通り県道22号線、県道43号、平和通り県道6号・県道62号、県道3号魚津、けやき通り208号線、
すずかけ通り富山駅、雪見通り県道30号富山港、しののめ通り 県道172号などが、県庁城址・富山駅に繋がって、市のアーチ式繁華街が有る。
富山の食材を使った、寿司、鰤のしゃぶしゃぶ、刺身などが目に付いた。
城前から富山駅方面 城の堀にもなっている松川と桜並木
「本願寺富山別院」は、仏教の流れを汲む、浄土真宗本願寺派で、親鸞聖人を宗祖、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。
経典は浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)を正依としている。本山は京都市の「浄土真宗本願寺派本願寺」(西本願寺)。
富山別院は、1800年頃から本山会所を設けている。1884年に許可、1945年、富山大空襲にて別院4度目の焼失。
1996年、蓮如上人500回遠忌・顕如上人400回忌・ 別院再建30周年法要。富山市総曲輪の商店街裏にある。
本願寺富山別院 拝殿 親鸞聖人
鐘楼 本殿
「富山総曲輪商店街」は、城の外堀であった。明治時代の初めに外堀が埋め立てられ、浄土真宗の本願寺別院を参詣する人々で賑わうようになり、
やがて様々な店舗や芝居小屋、寄席などが建ち並び、現在のような繁華街へと発展する事になる。大正時代には全国初の商店街団体「商盛会」も誕生している。
街の中心部には総曲輪通り商店街、グランドプラザ、総曲輪フェリオなどがあり、賑わいを見せる。3施設はそれぞれ接続している。
大手モールから桜橋電車通りを結ぶ商店街。1953年に全国では5番目のアーケードが取り付けられた。
電車通りを挟んで中央通り商店街(さんぽ~ろ)が隣接しており、こちらは1956年にアーケードが設置された。大型モニター、昇降式のステージなどが特徴。
2007年複合商業施設。キーテナントの大和富山店のほか、多くの専門店で賑うが、朝で人出生薔薇であった。
市の中央商店街 居酒屋など夜の繁華街
神通橋は、1969年の豪雨では西岸から2番目の橋脚が3.45m沈下して路面が陥没し、通行が不可能になった。
下流の神通大橋をそれぞれ一方通行にし、翌月には歩道橋と車道橋を橋の西側に仮設。1970年に復旧工事は完了、1990年代に入ると老朽化や片側1車線
という交通容量の小ささが問題になり、文化遺産としての保存も検討されたが耐久面に問題があると判断され、架替と現在の橋の取り壊しが決まった。
2006年より2代目の富山大橋の建設が始まり、予定よりも遅れ2012年完成している。
富山大橋 神通川
「白鳥城址」は、1183年に源義仲の武将、「今井四郎兼平」が陣を張ったとするのが最初の記録で、越中守護代「神保長職」が「上杉謙信」の越中攻めに
備えて本格的に築城、富山城の詰城として利用されたと思われる。
神保氏の降伏により城は上杉方の手に移ったが、1572年には西から攻め寄せる一揆勢により落城した。
白鳥城は、東側が急斜面となっており東からの攻撃には強かったが、西側はなだらかな斜面となっており、西からの攻撃には脆弱な城であったようである。
上杉謙信の死後、越中が織田方の支配下にはいると、「佐々成政」が富山城に入り白鳥城も引き続きその支城として使われたと思われるが、
1585年に羽柴秀吉が成政を攻めた際「富山の役」、富山城を見下ろす位置にある白鳥城に豊臣軍の陣が置かれた。
成政降伏後は前田利家が有し、まだ越中の一部を領していた成政に備えるため城将を置き、慶長年間の初めまで続いた。現存する縄張りはこの頃に完成したもの。
白鳥城跡 土塁 山道
高岡市に向かうが、途中に「明神社」と云う小さな神社があった、明神とは、日本の神道の神の称号の一つ、豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。 参拝。
珍しい明神社が
次回は高岡方面へ。