北陸3県の旅に戻ります。
富山魚津「松倉城」は、松倉山の山頂、標高431m・に位置、5郭を構成し越中最大級である。
1335年頃の築城と言われている。城主は普問氏、桃井氏と移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。
椎名氏は最盛期には富山県呉東地域にまで勢力を広げていたが、1570年、城主の椎名康胤が、宗主の上杉氏から対立する武田氏に寝返ったために上杉勢に攻められた。
その結果戦に敗れ、椎名氏は城から逃亡し、椎名氏による長い統治が終わった。その後は河田長親が入ったが、1583年に佐々成政率いる織田氏によって落城し、
麓の鹿熊にあった城下町は魚津へ移った。慶長年間に廃城。
支城 、松倉城はいくつかの支城をもっていて、魚津市山間部一帯に山城群を形成していた。近くに松倉金山があった。 魚津城、 水尾城、北山城(金山城)、
小菅沼城、 升方城、 坪野城、 天神山城。
松倉城跡の碑 土塁、
飛騨国、松倉城は、日本で一番標高が高い山城で、味方の裏切りがなければ落城は難しい城。
高山盆地を眼下に見おろし、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通ずる街道を一望のうちにおさめられたと云う。
魚津市内が一望 松倉城山城の上り坂
「東福寺野自然公園」は、滑川市東福寺野。北陸自動車道滑川ICから車で約10分の山奥、標高300mの台地に広がる自然豊かな公園。
晴れた日には、富山湾が一望、園内には、時計台・芝生広場・大型複合遊具・ゴルフ場・郷土館・バーベキュー広場やSLハウスなど
家族一緒に楽しめる施設が有る。
3月15日~12月15日期間内無休、公園入園料有料、
展望台(わんぱく砦) 眺めが最高。人気は、蒸気機関車を先頭に、客車5両で編成試運転されている。
公園案内板 管理事務所
高い標高のおかげで景色がよく、夜になると新湊や氷見の明かりが見える。
夜は駐車場がいっぱいになることも。
野生猿がたむろしている 良く整備された園内
「本江遺跡」は、田んぼの中にある。昭和46年発掘調査され、縄文時代後期、約4000年前で炉を中心にした村であったようである。
土器(赤土)、石器などが大量に出土している。
剱岳を源にする早月川と大辻山(標高1,361m)を源にする上市川の間の丘陵地にあり、近隣には国の史跡に指定されている。
「上市黒川遺跡群」がある。
田園の中に 古代の住居跡
「穴の谷霊場」は、新川郡上市黒川の霊場境内の湧水、伏流水である。
昔、この洞窟に嘉永4年美濃国の白心法師がこの穴にて3年3ヶ月修行せられており、諸国からその法を聞き参詣人も多くなったと伝えられる。
この穴での修行僧は数多く、近年では明治30年、能登の霊外悟道禅師が3年修行して、真の解脱を得た。このころから「行者穴」ともいう。
また、昭和32年には広島の岡本弘真という女行者が訪れ、6ヶ年修行して「この穴の水は入巧徳水だ、病に苦しむ人に飲ませて欲しいとのお告げがあった」と
遺言して去ったという。
黒川集落から穴の谷までの参道には、三十三の観音像が並び、各行者をしのぶ碑などが多いことからも、古来からの霊場であることがわかる。
穴の谷の砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、第一の洞窟の正面に薬師如来の石仏をまつり、その右横から清水が年中つきることなく湧き出ている。
この霊水こそ、即ち「穴の谷の霊水」なり、 霊水に群がる善男善女は、「薬師如来に病気平癒を一心に祈願して霊水を口に運ぶ」。
不治の病いが治った例は全国に限りなく、日々参詣者の耐えることがない「穴の谷霊場」の由来である。
静かな山道 参道右左石仏が続く
今日も、台車とポリバケツで参詣者が、湧水を運んでいた、湧水は森林に包まれた108段の階段下であった。ポリに入れた容器を階段上まで運ぶトロッコがある。
古来より白蛇伝説が伝わっており、山中に踏み入るものはなかったという。白心法師がこの穴で3年3ヶ月修行し、全国から修業僧が数多く訪れている。
明治30年能登の禅師が3年修業、昭和32年女行者が6年修業などで「行者穴」ともいう。
長い階段の奥に霊水が まず、不動堂参拝
穴の谷は、砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、薬師如来の石仏の穴とその右に清水が年中つきることのない湧き水が霊水である。
北陸の名水は、竜ヶ窪の水 - 杜々森湧水 - 黒部川扇状地湧水群 - 穴の谷の霊水 - 立山玉殿の湧水 - 瓜裂の清水 - 弘法池の水 - 古和秀水 -
御手洗池 - 瓜割ノ滝 - 御清水 - 鵜の瀬。
岩と石仏の間から霊水が お参り後ポリバケツに汲みいれる 自動トロッコで階段上へ
「日石寺」は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。
別名、金剛不壊寺。
寺伝では、725年、行基の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。
岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。
三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。
一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。
山門 境内 阿覚窟
重要文化財は、 大岩日石寺磨崖仏、 不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏。
国の重要文化財に指定。
不動明王像の像高は約2.8メートル。左右に矜羯羅童子像、制咤迦童子像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。
不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われる。1335年、不動堂が大風で倒壊した際に大破し、
1342年に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のまま。
室町時代に上杉勢の兵火に遭い、1967年に本堂が火事に遭うが、磨崖仏はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。
史跡は、1930年、磨崖仏のある巨岩所在地一帯は「大岩日石寺石仏」として国の史跡に指定。
観音堂 本堂
大岩山は、新川郡内の大社で21末社を有し、60の坊社、一千余りの僧兵を持ち、真言密教の修験道と立山信仰で盛を極めていた。
が、天正に入り、上杉勢越中平定の兵火で焼失したと云う。
三重ノ塔 大日堂
不動明王磨崖仏三尊は立山・釼岳の神の本地仏として、阿弥陀如は、立山の神として、伝行基は、山の開山慈興、慈朝を示す者であろうと云う説もある。
六本滝 地蔵堂 夫婦岩入口
不動明王磨崖仏 菩薩坐像 大岩川渓流
「柿澤神社」の( とやまの祭り)10月に、勇壮な暴れ神輿が午前9時から深夜までかけて各家々を渡御し、最後は柿沢神社の境内で燃え盛る火の中を
走り抜ける火渡りの神事が行なわれる。
拝殿
柿澤城は、富山県上市町柿沢にあった。 弓庄城土肥政繁の家老桂田善左衛門が居城したと伝えられる繋ぎの城。
現在「城山」と呼ばれる。
城の西側は極めて急峻な山、「城山の湧水」で知られている。
富山市山室江口神社 拝殿
次回は、富山市内に。
富山魚津「松倉城」は、松倉山の山頂、標高431m・に位置、5郭を構成し越中最大級である。
1335年頃の築城と言われている。城主は普問氏、桃井氏と移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。
椎名氏は最盛期には富山県呉東地域にまで勢力を広げていたが、1570年、城主の椎名康胤が、宗主の上杉氏から対立する武田氏に寝返ったために上杉勢に攻められた。
その結果戦に敗れ、椎名氏は城から逃亡し、椎名氏による長い統治が終わった。その後は河田長親が入ったが、1583年に佐々成政率いる織田氏によって落城し、
麓の鹿熊にあった城下町は魚津へ移った。慶長年間に廃城。
支城 、松倉城はいくつかの支城をもっていて、魚津市山間部一帯に山城群を形成していた。近くに松倉金山があった。 魚津城、 水尾城、北山城(金山城)、
小菅沼城、 升方城、 坪野城、 天神山城。
松倉城跡の碑 土塁、
飛騨国、松倉城は、日本で一番標高が高い山城で、味方の裏切りがなければ落城は難しい城。
高山盆地を眼下に見おろし、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通ずる街道を一望のうちにおさめられたと云う。
魚津市内が一望 松倉城山城の上り坂
「東福寺野自然公園」は、滑川市東福寺野。北陸自動車道滑川ICから車で約10分の山奥、標高300mの台地に広がる自然豊かな公園。
晴れた日には、富山湾が一望、園内には、時計台・芝生広場・大型複合遊具・ゴルフ場・郷土館・バーベキュー広場やSLハウスなど
家族一緒に楽しめる施設が有る。
3月15日~12月15日期間内無休、公園入園料有料、
展望台(わんぱく砦) 眺めが最高。人気は、蒸気機関車を先頭に、客車5両で編成試運転されている。
公園案内板 管理事務所
高い標高のおかげで景色がよく、夜になると新湊や氷見の明かりが見える。
夜は駐車場がいっぱいになることも。
野生猿がたむろしている 良く整備された園内
「本江遺跡」は、田んぼの中にある。昭和46年発掘調査され、縄文時代後期、約4000年前で炉を中心にした村であったようである。
土器(赤土)、石器などが大量に出土している。
剱岳を源にする早月川と大辻山(標高1,361m)を源にする上市川の間の丘陵地にあり、近隣には国の史跡に指定されている。
「上市黒川遺跡群」がある。
田園の中に 古代の住居跡
「穴の谷霊場」は、新川郡上市黒川の霊場境内の湧水、伏流水である。
昔、この洞窟に嘉永4年美濃国の白心法師がこの穴にて3年3ヶ月修行せられており、諸国からその法を聞き参詣人も多くなったと伝えられる。
この穴での修行僧は数多く、近年では明治30年、能登の霊外悟道禅師が3年修行して、真の解脱を得た。このころから「行者穴」ともいう。
また、昭和32年には広島の岡本弘真という女行者が訪れ、6ヶ年修行して「この穴の水は入巧徳水だ、病に苦しむ人に飲ませて欲しいとのお告げがあった」と
遺言して去ったという。
黒川集落から穴の谷までの参道には、三十三の観音像が並び、各行者をしのぶ碑などが多いことからも、古来からの霊場であることがわかる。
穴の谷の砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、第一の洞窟の正面に薬師如来の石仏をまつり、その右横から清水が年中つきることなく湧き出ている。
この霊水こそ、即ち「穴の谷の霊水」なり、 霊水に群がる善男善女は、「薬師如来に病気平癒を一心に祈願して霊水を口に運ぶ」。
不治の病いが治った例は全国に限りなく、日々参詣者の耐えることがない「穴の谷霊場」の由来である。
静かな山道 参道右左石仏が続く
今日も、台車とポリバケツで参詣者が、湧水を運んでいた、湧水は森林に包まれた108段の階段下であった。ポリに入れた容器を階段上まで運ぶトロッコがある。
古来より白蛇伝説が伝わっており、山中に踏み入るものはなかったという。白心法師がこの穴で3年3ヶ月修行し、全国から修業僧が数多く訪れている。
明治30年能登の禅師が3年修業、昭和32年女行者が6年修業などで「行者穴」ともいう。
長い階段の奥に霊水が まず、不動堂参拝
穴の谷は、砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、薬師如来の石仏の穴とその右に清水が年中つきることのない湧き水が霊水である。
北陸の名水は、竜ヶ窪の水 - 杜々森湧水 - 黒部川扇状地湧水群 - 穴の谷の霊水 - 立山玉殿の湧水 - 瓜裂の清水 - 弘法池の水 - 古和秀水 -
御手洗池 - 瓜割ノ滝 - 御清水 - 鵜の瀬。
岩と石仏の間から霊水が お参り後ポリバケツに汲みいれる 自動トロッコで階段上へ
「日石寺」は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。
別名、金剛不壊寺。
寺伝では、725年、行基の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。
岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。
三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。
一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。
山門 境内 阿覚窟
重要文化財は、 大岩日石寺磨崖仏、 不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏。
国の重要文化財に指定。
不動明王像の像高は約2.8メートル。左右に矜羯羅童子像、制咤迦童子像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。
不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われる。1335年、不動堂が大風で倒壊した際に大破し、
1342年に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のまま。
室町時代に上杉勢の兵火に遭い、1967年に本堂が火事に遭うが、磨崖仏はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。
史跡は、1930年、磨崖仏のある巨岩所在地一帯は「大岩日石寺石仏」として国の史跡に指定。
観音堂 本堂
大岩山は、新川郡内の大社で21末社を有し、60の坊社、一千余りの僧兵を持ち、真言密教の修験道と立山信仰で盛を極めていた。
が、天正に入り、上杉勢越中平定の兵火で焼失したと云う。
三重ノ塔 大日堂
不動明王磨崖仏三尊は立山・釼岳の神の本地仏として、阿弥陀如は、立山の神として、伝行基は、山の開山慈興、慈朝を示す者であろうと云う説もある。
六本滝 地蔵堂 夫婦岩入口
不動明王磨崖仏 菩薩坐像 大岩川渓流
「柿澤神社」の( とやまの祭り)10月に、勇壮な暴れ神輿が午前9時から深夜までかけて各家々を渡御し、最後は柿沢神社の境内で燃え盛る火の中を
走り抜ける火渡りの神事が行なわれる。
拝殿
柿澤城は、富山県上市町柿沢にあった。 弓庄城土肥政繁の家老桂田善左衛門が居城したと伝えられる繋ぎの城。
現在「城山」と呼ばれる。
城の西側は極めて急峻な山、「城山の湧水」で知られている。
富山市山室江口神社 拝殿
次回は、富山市内に。