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京都御苑・御所

2013-04-20 | 気まま旅

794年、桓武天皇によって日本の都は奈良から京都に移される。以来、明治にいたるまで都はどこへも移動することなく「京都」に。
京都以前は、藤原京、大津京、難波京など遷都はたびたび繰り返された。
遷都の理由としては、怨霊のたたりといった信仰的なものが強かったようだが、農業水利的観点から、都に相応しい場所が求められていく。
人口が増えるとこの好条件は、変わってくる。

水の治めやすい小さな川は、人口が増えればすぐに水不足になり、お寺や宮殿などの大建造物が次々と建てられ、おびただしい量の木材が山から切り出される。
山は荒れて、川には大量の土砂が流れ込む。山の保水力も弱まり、水不足と同時に洪水も起きやすくなります。
多くの滅びた古代都市がそうであったように、人間の活動によって森や川、つまり自然の摂理が荒れる結果、都市そのものも衰弱してしまうという図式を、奈良の都もわずかながら内在していたのでしょうか?。

「京都御苑」は、京都御所と仙洞御所、大宮御所を包含する東西700m、南北1300mの広大な緑地で、環境省の管理する国民公園。
禁門の変で有名な「蛤御門」など四方から自由に出入りでき、芝生や梅林などがある格好の散策地。
閑院宮邸跡、拾翠亭、など、歴史的遺構も残る。

65万2836m2の広さ



平安遷都当時、御所は現在地よりも2kmほど西にあり、度重なる大火で一時的に利用していた摂関家の邸宅を天皇の住まいとされ光厳天皇の即位 1331年以来東京遷都までの約500年間現在の京都御所が天皇の皇居。
御所のまわりの広大な緑地(京都御苑)はもともと宮家や公家の住まいがあった場所。
明治維新で天皇が東京に移られたことで宮家や公家も京都を離れ、公家町が荒廃したと伝えられている。
これを嘆かれた明治天皇の命により旧屋敷の撤去、石垣工事、苑内道路整備事、植樹などが行われたという。

千本丸太町付近から~現在地に
    

京都御苑の南側、堺町御門の西にある「九条邸跡」には今でも良く整備された池と庭園がある。
九条家は平安末期より多くの摂政や関白を排出した名家。邸宅は壊されたが、今でも往時を偲ぶ池と拾翠亭(茶室)が残っている。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・徳川家光が整備していく
  

「厳島神社」は、安芸国厳島社を崇敬した「平清盛」が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものという。
鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなった。
明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築されたが、当神社はそのまま残された。
1927年には社殿が改築されている。
 
厳島神社と苑内                         古木が
    

文化財ー鳥居(重要美術品)花崗岩製の鳥居で、笠木と島木が唐破風形式である。
「唐破風鳥居」と称され、北野天満宮境内社の伴氏社の石造鳥居、木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居と合わせて「京都三鳥居」「京都三珍鳥居」とされる。元来は兵庫築島に建っていたものであるが、室町時代後期に足利義晴が細川高国邸へ移築し、明和8年に九条道前が幕府に乞うて現在地へ再移築したもの。

平清盛と関係深い神社
    

「梨木神社」の萩は、萩の宮ともいわれ、京都を代表する萩の名所として知られている。 毎年9月の第3または第4日曜日前後に行われる「萩まつり」の日には参道から社殿前まで、咲きみだれる萩の花を愛でる参拝者でにぎわう。
萩は、万葉の時代には最も愛された秋草であり、その字もくさかんむりに秋を書いて表す、日本でできた国字。
観賞だけでなく食料、薬草、屋根材として暮らしに深いかかわりをもった植物でもある。

可憐な花、しなやかにたわむ枝が風にゆれこぼれる優美な姿を、万葉人は殊に愛したと云う。

公家町が形成
    

「京都御所」は、現在のものは1855年に造営された。 1869年に御所の機能が東京に移されるまで、代々天皇の居所・執務所。
また、宮家や約200の公家の屋敷も敷地内にあり、皇室典範に、第2次世界大戦前までは、即位は京都御所で行われると決められ、大正天皇、昭和天皇は京都御所で即位の儀式を行っている。
第2次大戦後、皇室典範が変わり、東京で即位が行われる様になる。
京都御所は申し込みをし、参観することができる。


西園寺公望 公爵 1849-1940 越後征討総監
    

東西294m・南北448mある。
    

京都三大祭の葵祭、時代祭は、ここからスタートする。
京都御苑一括して、面積が65万m2以上で広大である。

清水谷家の椋、 この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれている。
樹齢は約300年くらいで苑内でも数少ない椋の大木。1864年の「蛤御門の変」の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられている。

会津藩はここで防戦
    

京都御苑の中には、六つの門で外につながっている。 南側の「建礼門」から時計回りに、西側には「宜秋門」、「清所門」、「皇后門」
北側に「朔平門」、東側には「建春門」の順。


「御所」は、春秋各5日のみ一般公開されると云う。

明治はここから
    

次回は、左京区、銀閣寺・哲学の道方面に。

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