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下田城とあじさい公園

2012-02-17 | 気まま旅
あじさい公園と城址。
北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。
1590年に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。

北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は1601年に三河国の田原城へ転封となり、
以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。
下田城は、通称 鵜嶋城と云い、城郭構造 海城、築城主 後北条氏、築城年 不明、主な城主 後北条氏、家康家臣(戸田氏)廃城年 江戸時代、遺構 空掘 。

(駅近くの下田城は観光用で美術館になっている)

「幸福稲荷神社」は、 古くは金花稲荷といい、創建時代は定かでない。
1708年に第10代下田奉行・酒井幸四郎が、1717年には第13代下田奉行板橋五太夫がともに石灯篭を献納した記録が残っている。
1843年、下田奉行・土岐丹波守の着任の際に再建され、幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられている


    

「下田公園あじさい」
6月1日から30日まであじさい祭が開催される。下田市街と下田港を一望にできる下田公園がアジサイの花で埋まる。
総計15万株・300万輪の紫陽花は訪れた人を圧倒するという。
園内を巡る遊歩道に延々と続くあじさい大輪の花、今日は小さなつぼみが点在していた。

    

「下田城」は、現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。
直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。
最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。


    

下田城の戦い 下田城攻撃軍の編成 約10,000人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家)
下田城守備軍 約600人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)、水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。

 
「馬場ヶ崎展望台」公園の東部に位置する、下田港を一望できるポイント、途中、女性の裸体の芸術品が道の両側に並んでいる。

    


下田城城主「戸田忠次」
徳川氏とは縁戚関係及び主従などの関係があったため、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢を以って1564年、
徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わり、次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2,300石を与えられた。
その後も1568年からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の掛川城攻め、1573年の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、
1590年の小田原の役などで功績を挙げた。
徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜った。
 
  

「佐藤惣之助」1890 - 1942、日本の詩人、作詞家。神奈川県川崎市 、 佐藤紅緑に師事し俳句を学び、1916年に最初の詩集である『正義の兜』を出版、

    

大安寺
創立年代は不明。創建当時は因善寺、真言宗であった。1590年 僧、寂用英順が二世となり、曹洞宗に改宗と伝えられる。
山号の乳峰山は、裏山の形状が乳房に似ている事から付けられた。

薩摩十六烈士の墓(下田市指定史蹟)が建立されている。1688年、日向国佐土原藩主が将軍家御用材を江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、
積荷の一部を海に捨てて危うく遭難を逃れ下田に入港した。
しかし御用材を捨てた責任を取り、乗組員16名は3名の武士を含め15歳の少年七蔵まで全員が切腹。大安寺に埋葬された。
船に残っていた柘の木は寺に寄進され、本堂の柱になっている。


    

幕末開港時のペリー艦隊の入港中(1854)当寺において米人が遊女を写真にとっている錦絵が保存されている。
境内から清水が豊富に涌き出ており、町の水道源として利用された時期もあったと云う。

  

次回も下田続き。

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