syuの日記・気まま旅

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下曽我 曽我兄弟ー足柄の旅12

2016-07-18 | 気まま旅
小田原・酒匂は、市の北東部・酒匂川東岸で、中世期は、宿があったと云う。
酒匂川は、県西部を流れる川、富士山東麓の水を集める鮎沢川と丹沢山地西部の河内川の2川が源として、山北町で合流され松田町で川音川をあわせて
「足柄平野中央部を南流し、小田原市街で狩川と合流してー相模湾へー
丹沢山地と箱根火山の間に酒匂渓谷をつくり、足柄平野のほぼ全域に扇状地を形成している。
平野部は、しばしば洪水を引き起こし、治水事業が行われてきた。
二宮尊徳により改修された青木堰は,茨城県桜川市青木地内,一級河川桜川の上流部にある。
この地域の山々からの水量は乏しく,青木堰が用水の大部分をまかなう。
しかしながら,大雨のたびに堰は、決壊,維持管理には過大な負担が強いられ、それにより村はしだいに疲弊していき,多くの農民は破産し,村から逃げ、
このような状況を打開すべく,1831年、村の名主舘野勘右衛門は,村の生命線である青木堰の改修を二宮尊徳に求め,37名の連署による一村救済の嘆願書を提出、これを受けた二宮尊徳は「村の荒廃は用水を失ったことだけが理由ではない。用水が無くなったなら,田を畑にして穀物を得るべき。貧村は村人の怠惰の結果だ。」と,一度は叱責しますが,舘野勘右衛門の涙ながらの訴えと,心を入れ替えた村人の働きに心を動かされ,青木堰の改修に乗り出す。
1833年3月、青木堰の工事が始まり、村内を流れる桜川の河床は砂地で,堰を築くのに必要な砂利や岩石が乏しく,設置には困難を要し、二宮尊徳は、萱屋を川の上に造り,その屋根を切り落として流れの中に落とし,流れを止めて堰を築くという独特の工法を用いた。
工事は、水路工事まで含め3月24日に完了し、それまでの工事に比べかなり短い期間,少ない費用で成功したことに,遠近の人々は驚嘆したという。
青木堰が完成したことによって,村は瞬く間に復興し,村民も本来の農業に励むようになり、堰は、何度も損傷を受けるのですが,二宮尊徳の教えに従い,村民が一丸となって修復を続 けたと云う。
現在は、当時の堰があった場所よりも上流に堰が造られ,旧堰は跡地として,「二宮尊徳先生仕法青木堰の記」とともに保存している。

             小田原城にある「報徳二宮神社」一の鳥居


                     二宮神社本殿


「積小為大」
-大きいことをしたいと思えば 小さい事を怠らず勤めればよい~千里の道も一歩ずつ~小さい事を勤めてゆけば大きな事は必ず出来るー



「尊徳記念館」-相模国足柄上郡(小田原市栢山)小田急線栢山駅ー冨水駅中間・酒匂川沿いー
観覧料¥200-1F尊徳の生涯・資料遺品・2F~3F講堂・レストラン等。延べ面積3.912m2(庭園には尊徳の生家)

「二宮尊徳」 1787-1856 藩の財政改革を請け負った農政家
16歳で両親を失い、激しい労働・荒廃地開墾し、小作に出す関東諸藩から招かれ「財政改革」を推進・56歳で幕臣に登用した。
尊徳の少年時代は、重労働に従事し・夜論語などを勉強し、自ら菜種を借り植え、その油を搾って夜間の学問を続けた。
大将13年ー大日本報徳社設立しー尊徳思想の実践が図られた。

    

1,799年13歳で酒匂川に松苗200本植える。父病に倒れる(12歳)、母36歳で没す(16歳)。栢山村生家跡近くに小屋を建て住む(20歳)
(26歳)小田原藩家老「服部家」の若党。(32歳)小田原藩主大久保忠真公から表彰。

  36歳ー小田原藩の飛地・分家の桜町領の復興を命ぜられ、田畑家財など一切手放し「桜町領」へ
    

1826年40歳ー桜町主席(組徒格)。43歳、成田山にて断食ー事業順調になったと云う。47歳、桜川堰工事・凶作予知・対策を。
49歳、谷田部藩復興に着手。50歳、烏山藩飢饉救済。51歳、小田原藩飢民救済・大久保忠真没す。
下館領復興に着手。

「桜川」-茨城県・稲敷郡ー
県西部岩瀬町鏡が池源とし、土浦霞ヶ浦に注ぐ利根川水系の河川で、奈良吉野山と並ぶ古い花の名所。
岩瀬の小盆地をでて筑波山の西~南へ回り、土浦の低地を形成する。(亀城はその三角州に立地・磯部の桜)

                  利根川分水路測量
    

栃木県芳賀郡二宮町は、県南東端にあり、1822年から復興に尽力した「二宮尊徳」の名による地域。
東の八溝山山地裾野を南流しる「小貝川」。西端南流する「鬼怒川」に挟まれた低地で中央に「五行川」が南流している。

59歳、相馬藩復興始まる。60歳、日光仕法ひな形完成・小田原の仕法廃止。67歳、日光神領の復興を命ぜられるー再婚の岡田文子没す。

金次郎の「砂文字習字」パネルが           安政2年(1855年)「報徳役所」今市へ移転
    

「栃木県真岡市」は、鬼怒川中流東岸の真岡台地と五行川の沖積平野でーツルの舞う丘が転訛ー
尊徳は、桜町で茄子を食べたところ夏前なのに秋茄子の味がし、これは、今年は冷夏となることを予測し、冷夏に強い「ヒエ」を植えさ成功している。

青木村と桜川堰                              茨城県谷田部での尊徳
    

館内には、現在の桜川市・烏山藩・日光神領の青木村の「桜川堰」の工事で、茅葺屋根にのぼり支え綱を切ろうとしている姿が再現している。
「報徳仕法」を施す。「天地人の徳」に報いる。村・家単位農業経営財政再建策・・・江戸後期の経世・農政・思想家として

        終焉の地「今市」-1856年安政3年70歳ー御普請役となり・その10月没す。
  

 小田原城址に「報徳二宮神社」がある。
城の南西に尊徳偉業をしのぶんで明治26年建立された。(観光地にした高弟、福住氏の石碑も)
境内に報復博物館に遺品・資料等展示されている。
「下曽我」駅は、御殿場線(国府津ー御殿場間)国府津駅の一つ目の駅
1934年昭和9年丹那隧道開通までの東海道本線は、御殿場線で、国府津からは、小田原馬車鉄道~湯本・熱海、丹那トンネル完成でー熱海・沼津へ
「鉄道唱歌」
国府津おるれば電車あり 酒匂小田原とうからず、、、。を書き直して、国府津おるれば馬車ありて馬車から電車になり、、、、。
丹那トンネル開通直後に「関東大震災」で、災害の被害直撃で受け、難工事で、工事期間予定の倍と云う。

           国府津から下曽我ー3.8km・一つ目「下曽我」駅下車
    

「下曽我」駅の開業は、1887年明治20年で歴史ある駅。

「下曽我」と云えば、遺跡と広大な曽我梅園と2月の雪化粧の富士山であるが、すでに終わっている。
    

「曽我兄弟」兄1172-93・弟1174-93  武士
伊豆の伊東祐親の子ー「河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族「工藤祐経」に殺された。
河津祐康の妻は、二児を連れ「曽我祐信」と結婚(兄祐成5歳・弟時致3歳)、、、17年後源頼朝が冨士の裾野で巻狩を行った夜。
二人の兄弟は、宿舎に工藤祐経を襲って父の仇を討った。
兄は、その場で新田忠常に討たれた。弟は捕われ源頼朝は、許そうとしたが工藤祐経の子が訴え出て殺された。
義父曽我祐信ー兄弟の追善供養料として曽我荘の年貢を免除、、、。
室町時代に流布「曽我物語」が民衆に親しまれたと云う。

     曽我の郷文学道ー尾崎一雄(虫のいろいろ)~小田原、白秋童話館まで小道が続く。
    

「宗我神社」-曽は、(層をなして重なるや、ふえる)・「砂」と「我」(スガガスしく砂の上に我等が祀り、農耕を豊かに)となる。
昔ながら人々は、「それ、活力を磨けよ。清めたまい、祓いたまう」。
祭神ー宗我都比古命・宗我都比女命

         曽我郷の総鎮守「宗我神社」ー1028年 宗我保慶が創立
    

            「源義家」奥州下向時参詣ー寛治元年の1088年


                1573年ー北条早雲再建・御輿寄進
    

「尾崎基成」記念碑(石碑)
         神官の尾崎氏が寺小屋を開いた。(教え子数百人)
    

                     天津神社
    

「城前寺」ーこの辺りが「曽我城」の大手門が?ー

                相模の武将、曽我兄弟の菩提寺
    

冨士の裾野で、親の仇「工藤祐経」を討った曽我兄弟

      叔父「宇佐美禅師」が、曽我城大手門に曽我十郎・五郎兄弟の菩提寺とした。
    

下曽我付近には、曽我氏館・別所・曽我祐信の墓・二宮尊徳遺髪塚などがある。

    

2013年10月26日「曽我兄弟の仇討」掲載。

曽我兄弟の伯父「伊藤祐親」は。東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
しかし「祐親」が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
「祐親」は、これを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
「祐親」は、この前後に出家している。

「祐親」の子「河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族の「工藤祐経」に殺される。
「祐泰」の妻は、兄弟の二児を連れて(その時の兄祐成(5歳)弟の時致(3歳))「曽我祐信」と再婚。

曽我兄弟、兄祐成1172-93・弟時致1174-93.


「工藤祐経」は、「吾妻鏡」は、1184年の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された「平重衡」を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録がある。
祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。1186年に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っているという。
1190年の頼朝の上洛では武装した随兵とは異なり、水干や布衣を着して頼朝の側近くに従っている。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。

1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加している。
巻狩りの最終日の5月深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されている。



富士市久沢「曽我寺」、
曽我寺は、曽我兄弟の菩提寺。五輪塔の墓2基、供養塔2基、兄弟の像、本堂の中には位牌と木像があるという。
無住の寺で、富士宮の粟倉の重林寺が管理をしているという。

寺入口              身代わり地蔵、塔                 曽我兄弟の墓地
    

カヤとシイは、市指定天然記念物指定
「カヤ」目通り 4.25M 実測値樹高 20.0M 雌株で寺創建当時のものという。
「シイ」目通り 5.0M 目測、樹高 20.0M、、空洞あり。
「イチョウ」目通り 3.3M 実測値、樹高 12.0M。

境内は、古木で茂っている。
天然記念物「シイ」の神木                              文殊菩薩像
    

曽我兄弟の像・富山の人が造ったとある、


「身代わり地蔵尊」が、昔から寺の門前に祀られていて、病気などの身代わりをしてくれると言い伝えられています。
特にイボ、ウルシカブレ、皮膚病などが治る様にお願いして、振り向かないで家まで帰るといつの間にか治ってしまうという言われる。

                  曽我兄弟の位牌、木像がある本堂
毎年命日に当たる5月28日前後に、曽我兄弟を偲び供養祭が行われる。


曽我裕成は22才、時致は20才の春を迎えていました。
兄弟は、曽我を出て、箱根権現で別当と対面などして、巻狩りには、5月25日から参加しましたが、なにせ仕送りの無い身分で食べ物にも事欠く始末でした。
そのため和田義盛、北條時政等縁故を頼って生活していました。裕経の館へも斥候のため行き、夕飯の接待を受けました。
巻狩りも終盤になった5月28日(旧暦。 新暦は6月下旬)に、兄弟はいよいよ本懐を遂げようと覚悟を決めました。
そこで、兄弟は母への形見の品を届けさせるため、団三郎・鬼王を呼び出だしたのでした。本曲にあるように二人はなかなか承服しませんでしたが、なんとか説得し、曽我に帰しました。
そして、深夜雨の中、夕べの宴で前後不覚に遊女と添い寝していた工藤裕経43才を、斬り、彼から貰った刀で留めをさしたのでした。

「謡曲より」
音止の滝手前の曽我橋(この奥に隠れ岩・工藤祐経の墓がある)


頼朝のこの狩は、かなりの規模で、数えることができない程の御家人が参加したと云う。
その中に「曾我祐成・時致」兄弟がおり、この狩の際に、領地争いで殺された父の仇「工藤祐経」を討とうと密談。
ところが滝の音がうるさく、 兄弟は、「滝の音を止めよ」と、神に願い出た。
なんとあれだけの轟音が止み、曽我兄弟はみごと敵を討つことがで、この滝は、そのときから「音止の滝」と呼んだと云う。



「曾我の隠れ岩」は、音止の滝の東側、曾我兄弟が、敵を討つ時に隠れていたという言い伝えが残る「曾我の隠れ岩」がある。
こんもりと小山に
    

雑草が茂っているが手入れはされている
  

兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣でした。その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆である。
仇討ち成就は死を覚悟しての行動であった。
頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首による処刑を申し渡します。
彼らが使用した刀は、「箱根神社」に奉納されている。
工藤祐経の墓や兄弟が密談をしたといわれる曽我の隠れ岩や源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるための曽我八幡社がある。

彼岸花                                            工藤祐経の墓
     

次回は、厚木・海老名へ。

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