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葛西橋 ー江戸川を下る 16

2016-06-17 | 気まま旅
都内には、中世の城館跡が多数存在していたと云う、その一つ「葛西城」で、古城跡と云われる場所は、青戸のー旧称御殿山。
ここは、1538年北条氏綱によって落城したと記録がある。
環状7号線整備で発掘調査で、住居・井戸・板碑・・平城跡が発見されている。
「千葉伝考記」に、千葉太郎実胤が下総葛西に住みその地を「千葉村」と称したとある。この辺りは地形的にもー奥州古道ーに面している。
上千葉町は現在の西亀有と大曲に「葛西城址」が有力であるが異説も多い。
「葛西氏・初代の葛西清重」は、平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区の葛西城を中心に、
江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした。
清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加して御家人となり、清重は、奥州合戦で武功を立て奥州藤原氏が滅んだ後、
奥州総奉行に任じられ陸奥国(後の陸前国)に所領を得ている。
江戸時代の地誌では、奥州に入った清重は、奥州藤原氏の本拠地である平泉ではなく、石巻の日和山に城を築いて本拠にしたとされる。
だが、清重自身は奥州の安定をみてから鎌倉で幕府重臣として活躍し、この頃の葛西氏の正確な動性は伝わっておらず、石巻と鎌倉を往来する領国経営だったと推測される。
のちに本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したが、その時期は諸説あって判然とせず。
その過程や経緯は、現在でも不明であり、詳細については推測の域を出ないと云う。
事実としてはっきりしている事は、南北朝時代に勢威を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力守護としての地位を確保したということである。
戦国時代初期に葛西満信が宇都宮氏広との争いで領地の拡張に成功し、伊達氏と結ぶと、隣国の大崎氏と徹底して対立する。
しかし、この抗争は決着がつかず、また伊達氏庶子を養子として迎え入れたため、その介入と家臣団の混乱を招き、かえって葛西氏の勢力を衰退。
有力家臣である浜田氏の独立、浜田氏と熊谷氏(気仙沼熊谷党)との相克など、領国における豪族の統制もうまくいかないようになっていた。
第17代当主にあたる葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかった事を咎められ、改易され、1597年、晴信の死去で大名としての葛西氏は
滅亡、 葛西氏の滅亡については、これも、異説あり、晴信は、秀吉の奥州平定軍と果敢に戦い、戦死したとも伝わる。

その後の葛西氏は、庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に。
臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており今日の葛西氏研究を混乱させている一因と云う。

東小岩ー北篠崎(公園)-上篠崎ー京葉道路・ここから江戸川は、二分され旧江戸川が東京都で葛西臨海公園へ。
    

利根川本流から茨城県五霞村・境から分岐して南下埼玉県と千葉県境から千葉県と東京都境を流れ「市川橋」を潜り、いよいよ東京湾に注ごうと
都江戸川区「今井橋」まで来ました。
江戸時代初期の千葉県関宿と埼玉県松伏の洪積台地を開削して通水し、金杉下流部「渡良瀬川下流の太日(太井)川」の流路が、利根川分流として
この「江戸川」に。又、市川に江戸川放水路が開削されて二分し、都に下流部の本流ちして「旧江戸川」と云っている。
昭和47年工事で、「野田導水路」を完成させた。これによって、約36%が東京都千葉県市川・船橋・習志野・千葉市の上水道源となっている。
当然、農業用水・排水路の役割は大きい江戸川である。千葉県銚子と利根運河と松戸・行徳・浦安等ー江戸の水運の役割も忘れてはならない。

          都市化や湾岸埋め立てで変貌、が、今でも釣舟があった。
    

「トロリーバス」
道路上に張られた架線から取った「電気」を動力として走るバス。
現在、長野県扇沢ー富山県黒部ダム駅間(5.4km)に使われている。外観・操作法は、バス。
戦後復興期に、上野公園~ここ、今井(26系統の代替路線)で昭和27年に開通された。
路線、今井ー亀戸9-亀戸駅ー亀戸4-太平町ー押上ー業平橋ー言問い橋ー浅草2-観音ー中入谷ー鶯谷ー桜木町ー根津ー上野公園

その当時の「今井」は、沼・溜池・田圃と点在し、26系統沿線の子供達の釣りや泳ぎの遊び場であったが、子供の事故が多い所でもあった。
1968年(昭和43年)廃止されているが、子供の水事故が原因でなく交通局の経営悪化が原因。

           地下鉄東西線、1969年開通「葛西駅」中心に発展
    

「今井橋」-江戸川区と市川市の千葉県道50号線に架かる橋ー
1951年以前・大正元年木造橋が架けられたが、増水で流されている。大正元年以前は、「今井の渡し」の渡し舟であった。
昭和26年完成した橋は、現在の50m上流側であった。
市川市相の川に、今でも「今井橋交番」派出所が残っている。又トロリーバスの折り返し地は、現在の橋の西詰付近。

                 大工事中であった


葛西氏は、源頼朝の蜂起に呼応して合流し、岩手県と宮城県ちいきの所領を手に入れている。その葛西氏は葛飾区青戸を中心にしている。
この辺りの700年前は、漁村で、遠浅の海岸で、海藻や貝類が豊富であった。また、渡鳥の群生し自然豊かな地域。
寛永時代に海苔採取が行われ、明治には、葛西海苔・浅草海苔ブランドとして有名になる。
明治14年頃、東宇喜田村の「森興昌」が海苔の研究と復興をさせる。
明治24年、越中島沖合に10万坪の海苔養殖場をつくり大正時代は、活況を呈した。

           年々景色が変わっていく「なぎさ公園」付近


江戸初期は、旗本の知行地、江戸防衛の幕府直轄領・関東郡代支配下とに。
江戸後期になると、農業で野菜・花栽培・金魚養殖が。

                 防波堤大工事中


                 混雑する湾岸道路


「東京メイクスピア・ディズニーランド」
昭和58年開園し、翌年には1000万人来園ー平成3年には、1億人・9年には2億人が来園。
浦安は、三分の二が埋め立て地と云う。羽田空港から車で約20分・成田空港から約1時間の位置にある。現在の拡張計画もやく2倍の再開発が。

          旧江戸川の向かいは、千葉県舞浜・浦安「東京ディズニーランド」が、


           JR臨海線のガードを潜ると「葛西臨海公園」内に
    

                   葛西臨海公園内
  
           30分位、居たが野鳥は一羽も姿を見せなかった。


                  鳥達の餌の減少で
    

野鳥減少は、干潟や湿地の埋め立て、干拓である。ほ場整理による乾田化や水路の暗渠化、ため池の埋め立て等で、流域下水道整備に伴い、
小さい川に水が流れなくなったこと。
里山などの森林や草地の放置と宅地化で、ダムの建設や、河川・海岸の護岸整備、農薬の使用、漁業による漁網、刺し網、定置網の使用が。
イヌ、ネコ、シカ、カラス、マングースなど他の動物による食害が最近目立つ。
増えている鳥もいる。カワウである。カワウは一時期減ったが、その後は急増している。
カワウのエサは魚であるが、増えた理由はよくわかっていない。
マガンは、かつて人間が鉄砲で撃っていたが、天然記念物になって保護されたから増えるようになったと云う。
ハクセキレイは、エサの多様化が原因で増えたと言われている。
ハシブトガラスはゴミやドッグフードなどのエサが増えたため増加傾向に、果実食のムクドリやヒヨドリも増えている。

    

鳥も減少している。
ツバメ、ヒバリ、オオヨシキリ、セッカなどである。
ツバメの減少要因は、ツバメは湿地が減少したことや、カラスによってヒナや卵を食べられる。
ヒバリは、草地の減少、オオヨシキリとセッカはアシ原や草地の減少が原因である。
ツバメとヒバリは絶滅危惧種に指定され、スズメも、草地、水田、繁殖場が減ったため、減少しつつある。



次回は葛西臨海公園

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