syuの日記・気まま旅

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市川・真間文学の道 syu散歩

2017-05-27 | syu散歩

「北原白秋」 1885-1942 詩人・歌人 福岡 早稲田英文予科中退、新詩社「明星」参加
処女詩集「邪宗門」で耽美主義文学の中心に。「思い出」「桐の花」「赤い鳥」「詩と音楽」童謡・民謡・小唄作詞・・全著作200冊にのぼる。

童謡「この道」 北原白秋作詞・山田耕筰作曲

この道はいつか来た道 ああ そうだよ アカシヤの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら白い時計台だよ

市川国府台里見公園にある 「紫烟草舎」ー白秋の旧居は(小岩村小岩田に、現在の江戸川区小岩町8~263)の場所、昭和40年の江戸川堤防の改修工事で取り壊され、現在は、市川国府台里見公園の中に、復元保存されている。
白秋は1日に20本入りの煙草「敷島」を1ダース吸う程の愛煙家だったという。睡眠と食事の時間を除けばほとんど切れ目無しに吸っている計算になる。文字通りのチェーンスモーカー。保存されている白秋の寓居は、その名も「紫烟草舎」と言う。
大正大正 5年の1916年、「江口章子」と結婚、白秋31歳と云う。
豊かな自然に囲まれた北小岩で、温かな人情に触れながら貧しくも心穏やかな生活を送り、紫烟草舎と自らが名付けた民家に暮らし、芸術の基盤となる優れた作品の創作活動を続け、短歌雑誌「烟草の花(たばこのはな)」を創刊。
白秋は、明治37年、中学を卒業間際に退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学し、明治38年、長篇詩「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞に一位当選している。明治42年、処女詩集「邪宗門」刊。実家破産。大正 2年、福島俊子と結婚。「城ケ島の雨」作詩。
大正 5年の1916年、江口章子と結婚。市川の真間ー亀井院に寄寓。

              華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ

紫烟草舎は、何の変哲もない木造平屋建てで、いまは庭に面する部屋も木の雨戸がめぐらされて、傍には、つぎのような長男北原隆太郎による解説が。

「(前略)大正五年晩秋、紫烟草舎畔の〈夕照〉のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父の白秋は、この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進の後、詩文『雀の生活』その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行歌集『雀の卵』で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である」と。

                         北原白秋


市川真間「文学の散歩道」
市川ゆかりの歌人 北原白秋、吉植庄亮、松本千代二、文学者・政治家  郭沫若、市川ゆかりの川柳作家 阪井久良伎、吉田機司、松沢敏行
昭和の俳人が詠んだ真間 水原秋櫻子、富安風生、小説家・随筆家  幸田露伴、幸田文、
小説家・随筆家  永井荷風、真間に住んだ俳人 吉田冬葉、岸風三楼、俳人 能村登四郎、脚本家 水木洋子。
「桜土手公園」独文学者・作家・評論家 中野孝二、 随筆家 山本夏彦、詩人・小説家・美術評論家 宗左近、小説家・劇作家  井上ひさし
市川ゆかりの歌人で 神作光一、高野公彦、日高堯子、画家 東山魁夷・・・。

               文人達が好んだ町「市川真間」












「幸田露伴」 1867-1947 小説家・文学博士
江戸下谷生まれ、明治維新によって家が没落し、中学校を中退電信技師で北海道へ、1889年「風流仏」で文壇に、「五重塔」など男性的思想主義
ロマンチシズムに溢れた特異的作風で、「頼朝・運命・芭蕉七部集」など幅広く著作。
1937年第一回文学勲章受章。



「永井荷風」 1879-1959 小説家
1897年東京外国語学校、広津柳浪に師事、歌舞伎座付作家見習い後新聞記者、父の不興を買いアメリカへ命じられ、渡航前に「闇の叫び・夢の女」
アメリカ・フランスから1908年帰国「アメリカ物語」慶応大学に迎えられ三田文学ー文化勲章受章し、日記「断腸亭日乗」重要の資料になっている。



「能村登四郎」 1911-2001 俳人
「沖」創刊、
           人間を数多く詠んでいる




「市川真間川」
真間川沿いの市川・真間地区には、他にも桜の名所が。
「文学の道」として知られる桜土手公園がる。
400mの桜並木には、市川にゆかりのある文豪たちの紹介板や遊具、ベンチもありのんびりとした雰囲気に、真間川沿いの真間小学校の右奥には
須和田公園、そのすぐ近くには樹齢400年のしだれ桜、伏姫桜のある真間山弘法寺がある。

          江戸川から東京湾へ注ぐ全長8.5Kmの一級河川


「治水」
水害対策として、支流大柏川流域での水田の保全、真間川支流の国分川の水を坂川を通じて江戸川に流す国分川分水路の掘削、川幅の拡幅、国分川調節池の設置などが行われた。
市街地を流れるため空間的な制約が大きく、水辺空間の保全、特に桜並木の保存が問題となった。結果的に川幅の拡幅のため桜並木の一部伐採とコンクリート護岸の設置が行われたが、拡幅部分でも川沿いに桜を植えたり護岸をツタで覆うなど、修景に工夫が。



「手児奈霊堂」
真間にある霊堂で、南隣は弘法寺の日与上人が「万葉集」にも歌われた伝説の「美女手児奈を安産、子育ての神」として1510年建立しとと伝わる。
小さな堂の正面に「山部赤人」の
             「吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処」

               歌が揚げられている。







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