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瀬戸岡古墳-多摩川散歩(8)

2016-01-13 | syu散歩
「秋川・加住丘陵」関東山地の東に続く尾根は、高さ200~300m級の丘陵地で八王子市と続く、昭和28年「秋川丘陵地自然公園」にしてされている。
東端に戦国時代の山城「滝山城」跡がある。
秋川は、多摩川と秋川に挟まれる地域「西多摩郡東秋留・西秋留・多西が合併して「秋多町」1972年に市制施行して「秋川市」、1995年平成7年
五日市町と合併して現在の「あきる野市」となる。
昭和40年以降急速に人口増加、「瀬戸岡古墳群・石室」は、住宅街の中に。

            JR秋川駅(ー武蔵引田駅・東秋留駅ー)


秋留台地の大塚古墳はほとんど円墳の形をなしているが、築造当時には方墳では。
古代・奈良時代における官牧の一つで「小川牧」と呼ばれ、武蔵国の有数な官牧。
古代末期に活躍する武蔵七党はこれら官牧と深い関連をもち、官牧の支配によって活躍の裏付けが。
秋留台地には多くの古代住居遺跡が見られ、特に瀬戸岡古墳群は律令制社会におけるものとして著名であるが、大塚古墳は瀬戸岡古墳群とは比較にならないほど規模が大きいと云う。
大塚古墳は王塚古墳とも呼ばれ、高さは約6m、周囲は約130m余であり、台地に築造された古墳として重要であると云う。(東京都教育委員会)

「律令制」古代中国から理想とされてきた王土王民ー。「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制。
王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に
課せられ、統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていたと云う。
律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、次の4つの制度が統治の根幹となっていた。
1-「一律的に耕作地を班給する土地制度中国では均田制、日本では班田収授制(班田制)として施行された。」班給。
2-「個人を課税対象とする体系的な租税制度中国や日本では租庸調制として施行された。」人民は、納税義務を負った。
3-「一律的に兵役が課せられる軍事制度中国では府兵制、日本では軍団制として施行された。」兵役の義務を負った。
4-「人民を把握するための地方行政制度中国では郷里制、日本では国郡里制を採用した。」
班給・課税・徴兵の台帳となる戸籍・計帳の作成が可能となった。逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となった。
律令国家は、非常に精緻な律令法典と、それに基づいた高度に体系化された。



奈良時代以前、朝廷中心に歴史は動いた時代で、朝廷の支配が次第に広まっていく。地方独自の動きは、伝わるものが無い。
大和朝廷は、3世紀奈良盆地の東南部に生まれている。当初「三輪山」の神を祭り、亡くなった天皇・大王葬るー古墳ーを神聖視する神権政治を
行った。それが地方に流れ、首長とのいあだに主従かんけいを広めていった。
6世紀になると大和朝廷が確立し、7世紀に「聖徳太子」のもと中央集権が進められ「律令制定」に繋がっていく。
国司ー地方支配ー初期荘園ー中央・地方が繋がっていく。寄進地系荘園が全国化するには10世紀を待たなくてはならなかった。
我が国最古の歴史書「古事記・日本書紀」で、それ以前は、伝説・別人・事跡であるが切り捨てるわけにはいかない。

                   瀬戸岡・神明社(近くに滝山街道が)
    

秋留台地の西方は、緑深い山々が連なっており、その山々から流れ出た水はやがて川となり台地をユックリと西から東に流れている。
環境からも山里には太古より人々が暮らしていたのが判る。
古代人は、山からの恵みと、川からの恵みに支えられてきた。山に入り峠を作り山向こうの人々と交流を広げていったと思われる。
そこで、生活の道具を学んでいったのであろう。その道具等が掘り出され遺跡として見る事が出来る。

                瀬戸岡古墳石室露出保存・横穴式石室
  

「縄文土器と弥生土器・古墳」
蓄えることを主用途にした器種とされ、ほとんどなかった縄文土器に比べて弥生土器に多い。

深鉢の代わりに甕で煮沸を行う、煮炊きの機能を持っていた深鉢の代わりに、甕で炊飯などを行うようになっている。
甕のうち大型のものは水甕として使用。

縄文土器にない仕上げ手法が出てくる。割り板を使って器表をこする(刷毛目)、刻み目を彫り込んだ板で叩いて仕上げる(叩き)、文様を彫り込んだスタンプを押し付けるなどといった仕上げ技法が生まれている。成形・仕上げ用の工具に、鉄器による加工が目立つのも特徴の一つ。

弥生土器には、縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる」という記載が見られが、
参考文献(佐原眞「日本人の誕生」)を見ても、これは間違いであるとされている。

縄文時代も後晩期になると、装飾的なものはグンと減り、前~中期のものは確かに装飾性豊かなものがあります。しかし西日本の縄文土器などは
後晩期になると、かなり簡素な外見になることが良く知られていると云う。

          瀬戸岡古墳群・大正15年発見(都指定史跡)


あきる野市内には秋留台地を中央に東西に流れる秋川、平井川の流域を中心に100箇所以上の遺跡が分布.
これらの遺跡から出土した土器や石器を展示している。(無料)

                 丘陵を下ると平井川
  

二宮森腰遺跡ー縄文時代の土偶・土器・槍先形尖頭器、、、。
代継遺跡ー古墳時代の土師器台付    砂沼遺跡ー中世の下駄・瓦等が

               瀬戸岡古墳中央に大きな古墳が
  

ここは多西地区で、多摩川と平井川が流れ、北部には羽村草花丘陵がある緑豊かな起伏に富んでいる。この環境を生かし秋川牛・東京軍鶏の飼育が。
羽村・福生方面を一望できる「大澄山」・圏央道の日の出IC・農村歌舞伎・菅生歌舞伎・1590年八王子落城し、1188年畠山重忠の伯母の為の創建
円寿院の天然記念物モッコク・タブノキ、、、、散策に良い地域。

                「二宮考古館」東秋留駅約徒歩5分(二宮神社境内内)
    

多西橋ー平高橋の平井川両岸の桜並木は知られている。

                館内には縄文時代から年別に展示
    

立川国際カントリー・菅生子供体験の森もこの多西にある。

                 イラスト・写真で説明
    

               滝山城跡が近い。中世の瓦など
    

「平井川」 1級河川
都西多摩郡日の出町と青梅市の境界にある標高902mの日の出山に源を。
日の出町、あきる野市を東へ流れ、あきる野市と福生市の境界で多摩川に合流、秋川や浅川と同じように多摩川の右岸に流れ込んでくる支流の一つ。
多摩川との合流地点からあきる野市立の草花公園(市民球場や市民プールもある)までサイクリングロードがあり、桜並木になっている。
日の出町役場のあたりを通り過ぎ、つるつる温泉へ続く道が沿うようになると、山間を流れる渓流のような風景になる。
このあたりはキャンプ場やバーベキュー場などがあり、夏場にはこの付近の川で水遊びをしている子どもたちも見られ、日の出町の農産物を売る施設も。

                       石製の塔婆        平井川
      

次回は、二宮神社(考古館は神社内にある)へ。

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