群馬県利根郡利根村は、県北東部で赤城山北麓の村、古語で険しい山「刀袮・とね」による等の諸説がある。
西部を利根川支流の「片品川」が南流する地域。会津街道・大間々街道沿いの要所。中世に、「上杉謙信」が関所をもうけている。
土地は、国有林が75%を占め、南西部の「薗原ダム」は、洪水調節と発電と灌漑用に建設されている。老神温泉・赤城神社支社が近い。
「利根川」は、その、利根郡から流れ下るのでその名があると云う。
群馬・新潟両県の境にある三国山脈の1809m丹後山が源を発している(奥利根)。群馬県水上までを奥利根・水上から埼玉県「栗橋」を上利根・
栗橋から千葉県我孫子市の布佐までを中利根・布佐から銚子河口を下利根と云い。
関東平野を横切って銚子で太平洋に注ぐ河川は、群馬県・栃木県・埼玉県・茨城県・千葉県と5県にまたがり我が国最大に流域面積で、一位の
「信濃川」に次いで全国第二位の長さを持っている。支流は「285」ある。坂東太郎とも呼ばれ、筑後川を筑紫次郎、吉野川を四国三郎の三大河と云う。
JR成田線「布佐」駅ー千葉県我孫子市布佐・下利根は布佐ー銚子河口を云う
関東平野を潤す母の川「利根川」の奥利根は、川幅が狭く急流性の河川で、貯水池が「奥利根湖・胴元湖・藤原湖」がつくられた。
上利根には、沼田盆地で薄根川と片品川が合流し、その上流に「相俣ダムー赤谷川・薗原ダムー片品川」がある。
南下すると渋川で吾妻川と合流する。(吾妻川流域には、草津白根ー2160m)の火山があり、浅間山の噴火に伴う噴火物が洪水のたびに吾妻川
を流下し、下流部に大被害を与えてきている。
千葉県銚子の河口は新しい・旧利根川は、荒川や入間川などを合せて東京湾に注いでいた。
榛名山東麓・赤城山南麓には、「八木沢ダム・1967年」から取水する灌漑用の県用水に、伊勢崎の碓氷・鏑・神流川が烏川を合せ流入する。
それからは、平地性河川として関東平野を貫流し会ノ川の分岐点を越えると「足尾山地」から「渡良瀬川」が合流。
この後でも取り上げるが、埼玉県栗橋の旧流路であった「権現堂川」分岐する。
銚子の河口は、元は鬼怒川ー江戸を水害から守るため利根川流路を鬼怒川へ
「利根川」の人工流路工事で「鬼怒川・小貝川」と合流、この間に、見沼代用水・武蔵水路・埼玉用水が開かれている。
下利根ー布佐から銚子河口は、約100kmと云う。勾配は著しく緩い、手賀沼や印旛沼や霞ケ浦や北浦のどの湖沼の水郷地帯を形成している。
その為、洪水や海水の侵入による塩害問題が生じている。
千葉県東庄町から、海水の侵入防止ー利根川河口堰が1971年完成している。大利根用水は、九十九里平野を潤していると云う。
埼玉県には、古利根川跡が
「利根川の大洪水」は、1742年、中条堤破堤、江戸市中氾濫・1786年、中条堤破堤、権現堂堤破堤、江戸市中氾濫・1846年、権現堂堤破堤,
江戸市中氾濫・1910年の明治43、中条堤破堤、東京府下氾濫・昭和22年、栗橋破堤、東京都下氾濫
ー(約200年に5回、40年から50年に1回という頻度に)・
大河流路工事は、利根川と大和川(奈良県・大阪)・東北の北上川(石巻港へ)
神流川流域は秩父古生層という硬い岩石、多くの断層や破砕帯があり、複雑な地質構造となっている。
このため急峻な地形と脆弱な地質から、大量の土砂が生産されやすい地域、神流川本川と急流支川との合流点付近には人家が多く、
支川に砂防堰堤をもうけることにより、本川への土砂流出を防止している。
神流川流域は、群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻。
神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。
流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、火山・地形、地質、気象、平成3年、譲原地すべり災害があった。
譲原地区は、明治43年以降幾度か地すべり活動が確認され、昭和39年~44年の群馬県による地すべり対策工事により活動は沈静化していた。
しかし、平成3に、台風による集中豪雨のため地すべりが活発化し、道路や家屋に亀裂が生じ、主要地方道鬼石・中里線(現国道462号)は6日間全面通行止め、その後も、平成11年、熱帯低気圧豪雨、平成11年、九州の南海上で発生した熱帯低気圧は、本州南海上を北東進し、関東南岸に至って進路を北西に変え、その、午後日本海へ抜けた。
この熱帯低気圧の通過は、関東地方に大雨をもたらし、群馬県内では神流川支川の野栗沢流域において山腹崩壊による土流が発生、所ノ沢および奥名郷沢付近で氾濫...現在も所々工事中。
1900年明治33年から高水防御の治水工事によって、堤防や広い河川敷きや放水路や遊水池で下流部は現在の姿になった。
戦後、八木沢ダム・下久保ダム・農業用水・水道水・工業用水・発電用水として利用し首都圏の水の需要が広がっている。が、舟運は消失した。
現在、上流は、上信越高原国立公園・下流は、水郷筑波国定公園にしている。
長さ322km-流面16840km2
「神流川の戦い」ー織田信長切腹ー
天正10年・1582年、織田軍家臣・滝川一益が神流川を渡り上野から武蔵(埼玉県)本庄原に入ったところで、北条氏政・氏直親子の率いる5万の軍勢と激突。
最初は、一益側が優位のうちに戦闘が、北条軍の名だたる武将が次々討ち取られた。が、数で勝る北条軍の軍勢が、一益軍の後方へと回りこみ、前後から挟み撃ちの状態となって、形勢は逆転され、一益軍の崩れは早い。
一益は、その年に、上野・厩橋城をもらったばかりで、一益の率いている軍勢の中には、北条氏についていた者が、かなりの数含まれていたと云う。
またたく間に敗北を喫した。
戦闘は、敗北に次ぐ敗北の連続で、勢いに乗る北条軍は、上野の奥地の方まで進攻。
一益は、信濃(長野県)を経由して、本拠地の伊勢・長島(三重県)へ逃走する。
命こそ助かったものの、この合戦によって一益は、信長の家臣の中でも重きを置かれていた立場から完全に脱落する。
江戸時代の栗橋と利根川
次回は、埼玉県北葛飾郡栗橋町からスタートします。
西部を利根川支流の「片品川」が南流する地域。会津街道・大間々街道沿いの要所。中世に、「上杉謙信」が関所をもうけている。
土地は、国有林が75%を占め、南西部の「薗原ダム」は、洪水調節と発電と灌漑用に建設されている。老神温泉・赤城神社支社が近い。
「利根川」は、その、利根郡から流れ下るのでその名があると云う。
群馬・新潟両県の境にある三国山脈の1809m丹後山が源を発している(奥利根)。群馬県水上までを奥利根・水上から埼玉県「栗橋」を上利根・
栗橋から千葉県我孫子市の布佐までを中利根・布佐から銚子河口を下利根と云い。
関東平野を横切って銚子で太平洋に注ぐ河川は、群馬県・栃木県・埼玉県・茨城県・千葉県と5県にまたがり我が国最大に流域面積で、一位の
「信濃川」に次いで全国第二位の長さを持っている。支流は「285」ある。坂東太郎とも呼ばれ、筑後川を筑紫次郎、吉野川を四国三郎の三大河と云う。
JR成田線「布佐」駅ー千葉県我孫子市布佐・下利根は布佐ー銚子河口を云う
関東平野を潤す母の川「利根川」の奥利根は、川幅が狭く急流性の河川で、貯水池が「奥利根湖・胴元湖・藤原湖」がつくられた。
上利根には、沼田盆地で薄根川と片品川が合流し、その上流に「相俣ダムー赤谷川・薗原ダムー片品川」がある。
南下すると渋川で吾妻川と合流する。(吾妻川流域には、草津白根ー2160m)の火山があり、浅間山の噴火に伴う噴火物が洪水のたびに吾妻川
を流下し、下流部に大被害を与えてきている。
千葉県銚子の河口は新しい・旧利根川は、荒川や入間川などを合せて東京湾に注いでいた。
榛名山東麓・赤城山南麓には、「八木沢ダム・1967年」から取水する灌漑用の県用水に、伊勢崎の碓氷・鏑・神流川が烏川を合せ流入する。
それからは、平地性河川として関東平野を貫流し会ノ川の分岐点を越えると「足尾山地」から「渡良瀬川」が合流。
この後でも取り上げるが、埼玉県栗橋の旧流路であった「権現堂川」分岐する。
銚子の河口は、元は鬼怒川ー江戸を水害から守るため利根川流路を鬼怒川へ
「利根川」の人工流路工事で「鬼怒川・小貝川」と合流、この間に、見沼代用水・武蔵水路・埼玉用水が開かれている。
下利根ー布佐から銚子河口は、約100kmと云う。勾配は著しく緩い、手賀沼や印旛沼や霞ケ浦や北浦のどの湖沼の水郷地帯を形成している。
その為、洪水や海水の侵入による塩害問題が生じている。
千葉県東庄町から、海水の侵入防止ー利根川河口堰が1971年完成している。大利根用水は、九十九里平野を潤していると云う。
埼玉県には、古利根川跡が
「利根川の大洪水」は、1742年、中条堤破堤、江戸市中氾濫・1786年、中条堤破堤、権現堂堤破堤、江戸市中氾濫・1846年、権現堂堤破堤,
江戸市中氾濫・1910年の明治43、中条堤破堤、東京府下氾濫・昭和22年、栗橋破堤、東京都下氾濫
ー(約200年に5回、40年から50年に1回という頻度に)・
大河流路工事は、利根川と大和川(奈良県・大阪)・東北の北上川(石巻港へ)
神流川流域は秩父古生層という硬い岩石、多くの断層や破砕帯があり、複雑な地質構造となっている。
このため急峻な地形と脆弱な地質から、大量の土砂が生産されやすい地域、神流川本川と急流支川との合流点付近には人家が多く、
支川に砂防堰堤をもうけることにより、本川への土砂流出を防止している。
神流川流域は、群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻。
神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。
流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、火山・地形、地質、気象、平成3年、譲原地すべり災害があった。
譲原地区は、明治43年以降幾度か地すべり活動が確認され、昭和39年~44年の群馬県による地すべり対策工事により活動は沈静化していた。
しかし、平成3に、台風による集中豪雨のため地すべりが活発化し、道路や家屋に亀裂が生じ、主要地方道鬼石・中里線(現国道462号)は6日間全面通行止め、その後も、平成11年、熱帯低気圧豪雨、平成11年、九州の南海上で発生した熱帯低気圧は、本州南海上を北東進し、関東南岸に至って進路を北西に変え、その、午後日本海へ抜けた。
この熱帯低気圧の通過は、関東地方に大雨をもたらし、群馬県内では神流川支川の野栗沢流域において山腹崩壊による土流が発生、所ノ沢および奥名郷沢付近で氾濫...現在も所々工事中。
1900年明治33年から高水防御の治水工事によって、堤防や広い河川敷きや放水路や遊水池で下流部は現在の姿になった。
戦後、八木沢ダム・下久保ダム・農業用水・水道水・工業用水・発電用水として利用し首都圏の水の需要が広がっている。が、舟運は消失した。
現在、上流は、上信越高原国立公園・下流は、水郷筑波国定公園にしている。
長さ322km-流面16840km2
「神流川の戦い」ー織田信長切腹ー
天正10年・1582年、織田軍家臣・滝川一益が神流川を渡り上野から武蔵(埼玉県)本庄原に入ったところで、北条氏政・氏直親子の率いる5万の軍勢と激突。
最初は、一益側が優位のうちに戦闘が、北条軍の名だたる武将が次々討ち取られた。が、数で勝る北条軍の軍勢が、一益軍の後方へと回りこみ、前後から挟み撃ちの状態となって、形勢は逆転され、一益軍の崩れは早い。
一益は、その年に、上野・厩橋城をもらったばかりで、一益の率いている軍勢の中には、北条氏についていた者が、かなりの数含まれていたと云う。
またたく間に敗北を喫した。
戦闘は、敗北に次ぐ敗北の連続で、勢いに乗る北条軍は、上野の奥地の方まで進攻。
一益は、信濃(長野県)を経由して、本拠地の伊勢・長島(三重県)へ逃走する。
命こそ助かったものの、この合戦によって一益は、信長の家臣の中でも重きを置かれていた立場から完全に脱落する。
江戸時代の栗橋と利根川
次回は、埼玉県北葛飾郡栗橋町からスタートします。
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