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謙信の姉 綾姫と樺沢城

2014-12-13 | 気まま旅

「上越線石打駅ー大沢駅ー上越国際スキー場駅」は、新潟県南魚沼市大沢にある。昭和24年開業・無人駅。
北越急行ほくほく線の列車が越後湯沢駅 - 六日町駅間で運行されているが、当駅は全列車が通過、利用は不便。
歴史は、昭和18年、 国有鉄道上越線の越後大沢信号場として開業・昭和24年、 駅に昇格した。

上越国際スキー場駅(JR駅で一番長い駅名)           無人駅の小沢・神社は下りホームから
    
                  重い穂を垂れている「コシヒカリ」


下屋敷跡、
領主の住んでいた御屋敷跡と同じ段丘にあり、背後の五十寺沢 より流れ出る湧き水は、夏も枯れることなく飲用水として。
屋敷は、中屋敷側にあって、上杉氏の会津移封後は、百姓が移り住んだ。
下屋敷から山裾にかけて領主の財源であった白布の原料、青苧畑が広がり、 漆木も植えられている。
栃窪峠へ抜ける道が通り、1488年に京都の 僧万里集九も、この道を通ったとある。

樺野沢は、南北朝から戦国時代にかけて樺沢城とその城下町があり、上杉景勝公は、ここで生まれたと伝えられている。
  

一段高台の「お屋敷跡」には、仙桃院のお花畑もあり、 周辺には、元屋敷、中屋敷、下屋敷、黒金屋敷が並び、少し下がって小泉屋敷、古町、上田橋、 さらに宮島屋敷、鷹匠屋敷、桜町などの地名が現在も残っている。
    

樺沢城は南北朝時代は鞠子城と称し、新田義貞の家臣である田中右衛門尉の居城といわれている。
戦国時代後期の戦乱の時代に長尾景虎(後の上杉謙信)が越後を平定した。
1551年、景虎は姉の綾姫を坂戸城主である長尾政景に嫁がせ、樺沢城の改築を命じたと云う。
政景は、その家臣である栗林・深沢・登坂等の武将に命じ改築。城下は桜町と称され関東遠征の際の宿所とされた。
樺沢城は清水街道、三国街道を扼す重要な位置にあり、春日山城から関東までの最短距離上にあったので、政景はここを関東からの情報基地にしたと思われる。
政景夫人の綾御前も常に当城に居たらしく、結婚5年目の1555年、男子が誕生した。

坂戸城・春日城の鞏固な、300mの山頂・山城「樺沢城」
    

御館の乱から20年後の1598年、に景勝は豊臣秀吉から会津120万石に国替えを命じられ、これに伴い、樺沢城は廃城。

腰を帯曲輪が二重に取り巻いていると云う。 
    

「樺沢城」跡
越後府中、三国街道、清水街道の分岐点をおさえる要衝であった。
標高304mの本丸跡から上田三大儀寺跡、仙石城跡、直路城につながる清水街道、北手前には大木六殿屋敷跡、塩沢大舘などの中世の史跡上田庄がほぼ一望8合目には景勝公の胞衣を納めた胞衣塚があると云う。
前日雨の為山登りはせず。

南北朝・戦国時代「上田の庄・南魚沼」で重要な役割を


1575年、政景の子、景勝は謙信の養子、春日山城に入り、それ以降、坂戸城は春日山城の有力な支城となる。
1578年、謙信の急死により、景勝と景虎(北条氏から入った謙信の養子)の家督争い(御館の乱)が始まり、坂戸城も北条氏に攻めたが、よく耐え、      景勝を勝利に導く。
1582年、景勝が越中方面で織田信長軍と交戦した際、越後に侵攻した滝川一益が坂戸城を攻めたが、落とすことは出来なかった。
1598年、景勝の会津国替えにより、堀氏が坂戸城に入城。
1610年、堀氏の内紛により、坂戸城は没収され、最後は、廃城。

樺沢城は、別名「鞠子城」とも云う。


小田原北条は、湯沢荒戸城ー樺沢城攻略が、守り切れず、翌年「景勝」奪回する。
    

樺沢城は、関東方面に備える重要な拠点でもあった。このことから「天正五年七月」上杉謙信公より龍澤寺宛てにご朱印状を賜っている。
    

「上田庄攻防古戦場」
中世越後の魚沼郡南部(南魚沼郡)には上田荘があり、鎌倉時代頃には清和源氏流新田氏一族の勢力下にあった。
南北朝時代(十四世紀)、越後守護上杉氏の家臣長尾氏の一族がこの上田荘に入り、領国支配を始めたと伝えられ、以後、上田長尾氏は守護代長尾氏と並んで越後の国に重きをなし、坂戸城は、越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。
上杉謙信の父守護代長尾為景と守護上杉氏が争った「永正の争乱期(十六世紀初頭)」
長尾房長によって山頂部から山麓部にかけ本格的な山城が造られた。その後も上田長尾氏は守護代長尾氏と協調しつつも独自性を保っていたが、
1551年、房長の子政景(謙信の義兄)は謙信と盟約を結び、臣従する。
謙信の養子となって春日山にいた政景の子景勝は、謙信の死後、「御館の乱」で景虎(北条氏からの養子)を破って越後国主。
坂戸城は有力な支城としてその役割を果たした。
御館の乱の際、坂戸城は景勝によって大改修が行われ、1598年、豊臣秀吉による景勝の会津への国替えに伴い、堀直竒が入城したが、1610年信濃国飯山に移り、「坂戸城」は廃城。
                  上杉・北条「御館の乱」の追悼碑


「福聚山・龍澤禅寺」
文殊菩薩を本尊とする、仙桃院・上杉景勝ゆかりの寺。
室町時代前期(1420年)に不蔵青単禅師により開創された。
文殊菩薩に帰依していた母「仙桃院(上杉謙信の姉)」は、上杉景勝公元服の折、武運永久と開運を祈願し卯年生まれの景勝公守護仏・厨子入り文殊菩薩を奉安する。

仙桃院は、「厨子入り文殊菩薩」寄進


城下の龍澤寺には、謙信公のご朱印状「門前五軒」がある。
他には景勝公の母親、仙桃院が寄進したと伝えられる厨子入り「文殊菩薩」などもある。

仙桃院の高台に屋敷跡や花畑等が
  

本丸からは、ツツジなどの植え込みがあり、晴れた日は「旧上田の庄」が一望できる。
坂戸城を望み、正面に見える巻機山の右奥が清水峠。
西の丸跡ー 南側大斜面には、上下二段の横堀土塁がめぐらされていると云う。

この辺りは、春になると桜が、桜の名所に
    

上杉景勝公、仙桃院(景勝公の母で上杉謙信の実姉)、菊姫(武田勝頼の妹で景勝公の奥方)ゆかりの「龍澤寺」
上杉景勝公生誕にまつわる胞衣塚、上杉謙信公の朱印状、仙桃院あやの文殊、菊姫の護身用なぎなた等が伝えられていると云う。

母の綾御前は夫の長尾政景亡き後、仙桃院と号し、この城に住んでいたと思われる。


                     本堂内


                禅寺の厳しさが伝わる堂内
    

「仙桃院 / 仙洞院」 1524年ー1528年ー1609年。
戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。長尾為景の娘。長尾政景の正室。名は綾と伝わる。越後国の戦国大名・長尾為景の娘として誕生。
実弟に上杉謙信がいる(同母弟説・異母姉弟説双方がある)。
上田長尾氏の長尾政景へ正室として嫁ぎ、婚約が成立したのは、1537年頃といわれ、2男2女を生み、長男の義景は10歳で早世したが、
次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。
1564年、夫・政景が坂戸城近くの野尻池で溺死すると、謙信に春日山城へ招かれ移り住んだ。
1578年、謙信死後の上杉氏のお家騒動である「御館の乱」では、上杉景虎の春日山城退去に従い景虎の正室である娘ともに御館に籠もるが、戦後には春日山城に戻った。その後は景勝の庇護を受け、1598年の会津や1601年の米沢と上杉氏の移封にも随行。
1609年、死去。墓所は米沢市の林泉寺にあり、林泉寺の建立に尽力したことから林泉寺中興開基と称されている。
林泉寺に残された過去帳を見ると、名前は仙桃院ではなく仙洞院、法名も仙洞院殿知三道早首座とされている。
仙桃院の表記は史料的価値に乏しい。
北越軍談だけに見られるもので、学界では仙洞院が正しい表記と目されていると云う。「直江兼続を景勝の近習に推薦したともいわれる」

花畑の碑が


次回は、塩沢方面へ。

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1 コメント

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樺沢城は樺沢家のルーツ (樺澤潤)
2023-09-12 14:19:31
群馬の樺沢一族も新潟に聖地巡礼で来てますよ!
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