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家康の浜松城公園

2011-02-19 | 気まま旅
「浜松市」は、天竜川と浜名湖の間を占め、西部から北部にかけて三方原台地が広がり、古墳、縄文時代の遺跡が多く発見されている。
室町時代、引馬城が築かれ、「飯尾氏」が拠点とした。

浜松市の中心部にありながら、豊かな緑に囲まれた浜松城公園。
浜松城を中心に、日本庭園、中央芝生広場など、市民の憩いの場として親しまれています。

野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。

浜松に到着して夕方だったが、まずはと訪れた。

                       




元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。

(1573年)武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら、これを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たが、
武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。

拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わったが、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は17年に。

家康以後、天正18年(1590年)からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城したが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国松江に移封。
以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名各家が次々に入った。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも天守は記載がない。
本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。

浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年(昭和25年)に「浜松城公園」となり、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリート製の復興天守閣が再建された。1959年(昭和34年)には浜松市の史跡として指定された。 現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとしたゆかりの品々を見学できる。

家康の銅像                   家康木彫りの像 
           

                                 天守からの浜松市街の眺望
  

                                 井戸
  

浜松城には十ケ所の井戸があったようだが、天守台の井戸は再建の時に残し今の天守閣の地下室にある。
もちろん、今は水は無い。現存するのは、埋門そばの井戸で、金網に覆われているが、直径1.5m深さが7m以上ある。この井戸が「銀明水」といわれている。

                                 地下室の井戸
  

次回は浜松市引佐町「竜ヶ岩洞」へ。

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