syuの日記・気まま旅

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村上市と銘酒「〆張鶴」

2012-06-29 | 気まま旅

「村上市」県北の城下町、東は、山形県うさみ温泉、鶴岡、町の中心部が、臥牛山(136m)中世から江戸時代までの平城であった。
村山城、舞鶴城、お城山で、戦国時代「本荘繁長」が要害とした城、村上義明(1596-1615)・堀直奇が、石垣、堀を築き、松平直矩(1661年)が、
天守、本丸を築いている。戊辰戦争で焼失。
下級武士「青砥武平治」は、サケの日帰性に注目し、世界初の「種川の制」、サケの産卵の人口河川を「三面川・みおもて」につくり、明治に入り、
北海道でその技術が導入されている。イヨボヤ・サケの方言会館では、生態観察室がある。
あと、村上と云えば、お茶、堆朱、漆の木彫り細工は、伝統工芸指定を受けている。もう一つに、街中がT字路、曲がりくねった道になっている、
遠見遮断、武家屋敷も点在されている。攻撃に備えたという。西方面が瀬波温泉で、村上の奥座敷。


「曹洞宗・大雄寺」三面川に近い寺。

    

日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の長翁如浄に師事し、1226年に帰国した。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638~713)と洞山良价(807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞土民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、
下級武士、一般民衆に広まった。

石仏                           本堂
  

「臥牛山」と「村上・舞鶴城」街中の細い道の住宅街を、山に向かうと、観音像と舞鶴城碑が見え、公園と、山道の階段に出た。

村上城碑              柱の土台                   古木
    


城の歴史は、1500年代、初頭、越後小泉庄領主、本庄時長によって築城されるた。1598年、村上頼勝が入城、櫓や堀などの改築を始める。
1619年、堀直寄が入城。改築を完成させる。1642年、村上堀家断絶。幕領出雲崎代官の管轄となる。
1644年、本多忠義が入城。1649年、姫路から松平直矩が移封。1663年より、松平家による大改修が行われる。
1667年、天守、本丸櫓が落雷で焼失し、以後、天守・櫓は再建されず。1729年、内藤弌信入城。以降明治まで、内藤家が藩主となる。
1778年、火災により三重櫓、月見櫓が焼失。1868年、北越戊辰戦争で村上藩士撤兵の折全城焼失。
明治8年(1875年)、残存する建物遺構の解体撤去が終了。、国の史跡に指定。

山頂にある城             石垣                   山頂から見た村上市内               
     

慶長3年・1598年に、本庄氏の会津転封にともなって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。村上氏によって始められた近世城郭への改築工事は、堀直寄の時代に完成を見た。
堀氏の時代には3重の天守が建てられ、また城下町の構えや町割りも整備された。

山道の石垣
  

臥牛山城は戦国時代(16世紀初頭)に、阿賀北の領主、本庄氏によって築城されたとみられている。当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された中世式の城郭であった。
1568年、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻す。1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、
所領を一部没収されることで講和を受け入れた。


    

舞鶴城の名は、村上城が舞鶴城と呼ばれたのは江戸時代。 築城当時は黒い板張りの城で、江戸時代の改修により白い塗り壁になり、雅称が舞鶴城となったようである。
舞鶴城の雅称を持つ城は、 三春城・太田城・甲府城・丹後田辺城・福岡城・柳川城・唐津城・津奈木城など。


    


「飯豊連峰」は、 大日岳(2128m)、 飯豊山(本山・2105m)、 北股岳(2025m)、 烏帽子岳(2,017m)、 三国岳(1644m、 朳差岳(1636m)、
飯森山(1595m)、 二王子岳(1420m)。
「朝日連峰」は、大朝日岳 (1,870m)、北から障子ヶ岳 (1,482m) 、三角峰 (1,520m) 、オツボ峰 (1,582m) 、以東岳 (1,771m) 、三方境 (1,591m) 、
寒江山 (1,695m) 、龍門山 (1,688m) 、西朝日岳 (1,814m) 、大朝日岳 、小朝日岳 (1,647m) 、鳥原山 (1,430m) 、祝瓶山 (1,417m) 。今日は曇空だった。

臥牛山頂上
  

淡麗旨口の〆張鶴「宮尾酒造」は、街中、三面川沿いにある。
少しでも“いい酒”をと、蔵が一丸となって築きあげてきた伝統の味わい。
創業は、1819年、村上は、五百万石や高嶺錦など良質の酒造好適米を産出する米どころ。酒の味に影響を与えると言われる水、敷地内の清冽な井戸水を
仕込みや洗い水などに使用している。この地下水は、鮭の遡上で知られる三面川の伏流水で、きめ細かな甘みを持つ軟水。

蔵に脈々と受け継がれてきたのは、酒造りに対する真摯な姿勢。良質の米と清冽な水を原料に、“うまい酒”を目指し、杜氏と蔵人らが日々、酒造りに励む。

宮尾酒造事務所            展示品 
  

「三面川」は、二級河川、延長 二級河川区間 41.022 km、面積 677 km²、水源 朝日連峰(村上市)、河口 合流先 日本海、
       サケの産卵、人工河川。

三面川に沿って、               工場が
    


〆張鶴 吟撰  吟醸酒、精米歩合  麹米 50%・掛米 50%、アルコール度 16%、価格 1,800ml ¥3,549 化粧箱入り
                                          720ml  ¥1,774 化粧箱入り

        吟醸酒、精米歩合  麹米 50%・掛米 55%、アルコール度 16%  価格 1,800ml ¥2,730
                                          720ml  ¥1,312

    吟醸生貯蔵酒、生酒、越淡麗、純米吟醸、本醸造酒、しぼりたて原酒、梅酒など製造している。


酒造蔵
  

阿賀野川ライン舟下りは、国道49号線沿いにある道の駅で、阿賀野川のライン舟下りが楽しめる。

角神ダム湖遊覧船 出航時刻 10:00 11:00 12:00 13:00 14:00 15:00であるが、欠航となる場合が多い。


                    舟下り乗り場
  

「平等寺・薬師堂」は、6世紀初めの建立で寄棟造り茅葺き。
室町時代からの参詣者の落書きや、御館ノ乱で敗走した会津の将兵の墨書が残る。境内には平維茂の遺体の上に植えられたという将軍杉(幹回り日本一)もある。 
(落書庵) 通年 堂内拝観は火曜休、冬期は不定休、拝観無料


    


  

「将軍杉」の平 維茂は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。陸奥守平繁盛の子。
 
将軍杉
    


    



「酒造りの話」 圧搾機
醪は、溜後約20日で搾り液状部分と固形部分(酒粕)搾ることを「アゲフネ」、ここまでお話してきました。酒袋は5.5~9Lして約一日上から圧力をかけ搾ります。
又袋を積み直し圧搾しますと、酒袋の間から一部白い醪が、にじみ出てきます、薄く濁っています。これをタンクに入れると、濁りがオリとなり底に沈みます。
オリが下がったところで透明部分を抜き取りオリと分けます。これを「オリ引き」と云います。酒袋は、板粕となります。


次回は、津川(麒麟山)へ、これで越後は終わります。

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