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家康が 25年過した駿府

2014-09-11 | 気まま旅
静岡から駿府城公園、登呂遺跡、SLの寸又峡を旅しました。大津を中断して掲載します。

今日の予報は、全国的に湿った空気が入り、各地曇所により大雨、日本海より真夏日で熱中症に注意、、、。であるが、静岡の寸又峡に出掛けた。
冨士吉田・139号線で河口湖ー朝霧高原ー富士宮道路ー新冨士ICー静岡ICと初めて新東名を使った。

「新東名高速道路」
東名高速道路と並行する道路として計画.
連絡路を介して相互に補完し合う計画とされ、「新名神高速道路」とともに、東京・名古屋・大阪を結ぶ日本の新しい大動脈として期待。
「新東名高速道路」は、首都圏中央連絡自動車道と接続する海老名南JCTが起点で、第二東海自動車道の終点は名古屋。
豊田東JCT - 東海IC間は、東海IC - 四日市JCT間と合わせ伊勢湾岸自動車道として供用中であり、四日市JCTで新名神高速道路や東名阪自動車道に接続予定。東海IC - 名港中央IC間は高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路の「伊勢湾岸道路」。
総事業費は約7兆円、全線開通時期は2020年度を予定。

                      朝の富士山


「静岡市」は、県中央部で、戦国時代は、今川氏の本拠地と自ら大御所となった徳川家康の城下町の歴史都市。
駿河国・国府所在地、駿府・府中と呼ばれた。府中は不忠に通じ1869年、明治2年「賎機山・賎ケ丘」-静岡になったと云う。

今川義元は、西遠州・三河と広げ、近世に入り徳川家康により、駿河・遠州・伊豆・甲斐・信濃の5か国支配し、拠点とした。
将軍職を子の秀忠の譲り、家康はここ駿府を隠居地と定めた。

                    富士山樹海の国道139号線
  

1607年「駿府城」拡張工事に着手し、碁盤目状に町割にし、城下町を整備している。没年9年間、大御所政治が行われている。
江戸と並び駿府は政治の中心地、当時をドン・ロドリゴは、駿府は、12万人の人口一大都市であるとのべている。

                  巽櫓(復元)・外堀は、家康公の散歩道


徳川頼宜・忠長が引き継ぎ支配し、忠長蟄居後、駿府城代が置かれ、町奉行が地を収めた。

「駿河路や 花たちばなに 茶の香り」松尾芭蕉句
製茶が静岡を支える大産業と成る。
  
土佐光成筆の「18世紀の駿府城下」、富士山と堀に囲まれた城と安倍川と碁盤の目のように広がる町、左部に大拝殿の浅間神社が。

                     駿府城中堀


「今川義元」 1519-60 桶狭間で首を取られた駿遠三の太守
駿河国の守護、今川氏親の三男、武田氏・北条氏と同盟を結ぶ、東方戦線を安定させ西進に専念する。駿河・遠州・三河掌握。
尾張桶狭間で織田信長に討たれる。
毛利新助と格闘の末首を取られるが、義元は、新助の人さし指を食いちぎって果てたと云う。義元の首は、駿河に返還されたと云う。

「徳川家康」 1542-1616 江戸幕府創始者・征夷大将軍、三河国生まれ、信長と同盟、小牧・長久手で秀吉と戦うが講和
関ケ原の戦いで石田三成を破る、大坂の役で豊臣氏滅亡す。
武田氏滅亡後勝頼の首を丁寧に供養し、「若気の至りでしたな」と述べ、これを知った武田の旧臣たちは、家康に感謝し徳川家で抜群の働きをしていると云う。遺骨は、久能山、後日光東照宮へ改葬されている。大坂の役ですでに死亡している説もある。

                    徳川家康公像


市街地中心部で駅北約700m、面積50万m2.現在、本丸と二の丸の堀は埋められ、三の丸の外堀と石垣よ巽櫓が往時を偲ばせて入り。
城跡には、官公署・学校・公園となっている。

                 家康公手植えのみかんの木
  

「地名」
明治に入り、駿府「賎」の字は賤しいの意味から「駿府学問所賤の向山黄村」が修正され「静岡」に、江戸も東京と改称している。
東京ー「とうけい」と読んだとお云う。京都の「京」「都」「京師」「京洛」「京都」と呼ばれ、京都は一般的でなかったと云う、今日のように「京都」
の呼称は、東京遷都後で、明治22年に京都市発足した。「豊川の橋」も、三河の吉田(東海道53次宿場名)明治に入り「豊橋」と改称され今日に。

                     園内の案内図


今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は,1582年に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。その後1590年には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の「中村一氏」が入城する。
甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている。

                    刻印石垣の一部展示
  

「中村一氏」は近江国・滋賀県甲賀郡出身。織田氏の家臣、秀吉に仕え、1573年頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領。1577年天王寺を攻略、本願寺門跡派の一揆を鎮圧や、1582年、「山崎の戦い」に鉄砲隊を指揮し、1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参戦、和泉国岸和田城主となり3万石を拝領。
1584年、秀吉の紀州攻めにおいては新都・大坂防衛の主将として紀州勢と対陣。
岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同年の小牧・長久手の戦いにより秀吉軍主力が尾張へ出陣した間隙をぬったもの)、寡兵ながら城を守り切り、翌年の反転攻勢においても主導的役割を果たしたと云う。
1590年、小田原征伐において羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。
功により駿河国駿府14万石を拝領する。
1595年、駿河直領(蔵入地)の代官として駿河を任され、1598年、三中老の一人に任命された。
1600年、「関ヶ原の戦い」では東軍に属すが、合戦前に病死している。

合戦には弟の「一栄」や、家督を継いだ長男の「一忠」が出陣し、美濃表で大いに戦った。戦後、その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石大名
1609年に一忠は急死。跡継ぎを欠いた中村家はわずか2代で断絶。江戸幕府により改易されている。

                     坤櫓(復元)
  

「サクラジマミカン」は、朝鮮の役の頃に熊本から鹿児島に伝わったとされる。
静岡地方のみかんの起源は、江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したときに紀州から献上された木とされ、現在も駿府城(駿府城公園)に
「家康公お手植えのみかんの木」として残っている。

                         学問所跡の碑
  

城跡は、緑豊かな公園たなり、「東御門」と「巽櫓」が復元され、平成26年に南西の角に「坤櫓」が追加され、二層三階の立派な櫓で、石落としがある。
紅葉山庭園では、四季折々の風情でお茶が楽しめる。

                    二の丸付近の石垣工事工程
  

家康公が、今川氏人質として幼少期すごし、学び舎・今川家菩提寺「臨済寺」(大岩町)は、
人質時代の家康公は竹千代と呼ばれ、寺には「手習いの間」があり、今川義元の軍師「太原雪斎」から多くを学んだとある。

               市街地中心地に駿府城跡緑と高層ビルが          東御門櫓門(復元)
  

「静岡浅間神社」
ここは、駿河国の総社で歴代幕府の崇敬を受け、竹千代(家康公)が元服式を行った神社で、徳川家から保護、社殿など全て国の重要文化財に
文化財資料館には、賤機山古墳の出土品・家康公・今川・武田氏の遺品が展示されている。

                          公園広場と花壇
  

「静岡祭り」
家康公が家臣を連れて花見をしたという故事にちなみ、桜満開時絢爛豪華な駿府大御所時代絵巻を城内練り歩く祭りが4月上旬に開催される。

                 園近くの幼稚園児たちが植え込んだ草花
  

「徳川慶喜公屋敷跡(浮月楼)」は、紺屋町
最後の将軍慶喜公は、大政奉還後明治2年市内に移り住んでいた。現在は、料亭、20年間過している。

                         満開
  

次回は、登呂の遺跡へ。

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