昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起・「2.26事件」
陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の 打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等 を襲撃した。
元内大臣であった「牧野伸顕伯爵」が宿泊していたのが
「伊藤屋」
東京以外で唯一事件の舞台がここ湯河原でした。
宿泊者は牧野元内大臣夫妻・お付の女中、看護婦、 護衛の巡査の計7名。
宿泊先の条件は独立した建物であるという ことから、弊館別館「光風荘」が選ばれましたと云う。
牧野伯は、滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。 襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助 夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊し、牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
その後、兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って「光風荘」を 襲撃、牧野伯は、お付の女中の機転で女物の着物を かぶり勝手口から脱出、
塀を乗り越えて裏山に逃れた。
河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとの ことです。
襲撃の際、「光風荘」は全焼。(現在ある建物はその後建て られたもの)
「湯河原・伊東屋」と云えば、長編小説「夜明け前」の島崎藤村が一番気に入っていたとある。
土肥城跡公園登山コース入口

城まで3600mの登り

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍
平清盛に敗れ、頼朝の父「義朝」は殺され、頼朝は伊豆へ流された。
以降20余年流人ー以人王の令旨を受けて挙兵する。伊豆目代「山木兼隆」討ったが、石橋山(小田原市)の戦いで「大庭景親」二敗れ房総へ逃げた。
兵を集め鎌倉へ・富士川の戦いで平家方を敗走させ、常陸佐竹氏を討って関東を固める。
後白河院に蜜奏し、勅命を得て弟範頼・義経を代官として 木曽義仲・平家を滅亡させた。
義経謀反事件が起こり、院に強要して守護・地頭の設置を認め、 奥州藤原氏を討った。 (挙兵して10年)
平清盛継母「池禅尼」は、頼朝が、我が子家盛を生き写しで、清盛に命乞いをしたと云う。
山里

「土肥実平」 頼朝に信頼された武将・相模国中村荘司土肥宗平の子、頼朝を庇護した。
弟土屋宗遠・子小早川遠平を共に最初から挙兵に参加している歴戦の勇士で、行政の手腕もあったと云う。
平家滅亡後、備前・備中・備後の守護になった。真鶴岬(岩海岸)脱出の成功者である。このことを「北条政子」に伝えたのが、子遠平と云う。
小早川氏は、後の「安房」戦国時代の武将。
土肥氏の菩提寺・「城願寺」の参道

「鎌倉時代」頼朝が守護・地頭設置の1192年・征夷大将軍になった時点と云う。
幕府は、侍所・公文所(政所)・問注所・・。長官(別当)に「和田義盛・大江広元・三善康信就任」-頼朝の独裁が強かった。
長男「頼家」将軍後・独裁を廃して「13人御家人代表の合議制に改め、「梶原景時・比企能員・和田義盛が謀反」の理由で討たれる。
「北条氏」が実権を握り始める。~二度の蒙古軍来襲・武士は総動員・・御家人は幕政に参加できず。貨幣経済の発達で衰え始める。
文化面で、貴族文化「藤原定家」新古今和歌集・・、権威であった。
源実朝も万葉調の歌を詠んでいる。運慶・快慶の彫刻・西行・鴨長明などの文学や「平家物語」の悲劇の活写された。
仏教も、栄西・道元・法然・親鸞・日蓮・一遍らが新仏教を興している。
城願寺入口

頼朝・実平の強運は、「城願寺」から。
山門

六地蔵

パワ―は、ビヤクシン(樹齢800年)・五所神社の楠木・・・
古木ビヤクシン(天然記念物指定)



棟木の木(縁結びの樹)

鐘楼

七騎堂

土肥実平腰かけ石

謡曲「七騎落」

本堂

土肥氏一族の墓



源頼朝の腰かけ石

幕山の「しとどの窟」

「山神樹叢」(天然記念物指定) 土肥実平の居住






4月第一日曜日 「土肥祭」 城願寺で法要ー「焼亡の舞」が奉納される。(武者行列など)
次回は、梅の名所、幕山梅園へ。(一月下旬)
陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の 打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等 を襲撃した。
元内大臣であった「牧野伸顕伯爵」が宿泊していたのが
「伊藤屋」
東京以外で唯一事件の舞台がここ湯河原でした。
宿泊者は牧野元内大臣夫妻・お付の女中、看護婦、 護衛の巡査の計7名。
宿泊先の条件は独立した建物であるという ことから、弊館別館「光風荘」が選ばれましたと云う。
牧野伯は、滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。 襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助 夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊し、牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
その後、兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って「光風荘」を 襲撃、牧野伯は、お付の女中の機転で女物の着物を かぶり勝手口から脱出、
塀を乗り越えて裏山に逃れた。
河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとの ことです。
襲撃の際、「光風荘」は全焼。(現在ある建物はその後建て られたもの)
「湯河原・伊東屋」と云えば、長編小説「夜明け前」の島崎藤村が一番気に入っていたとある。
土肥城跡公園登山コース入口

城まで3600mの登り

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍
平清盛に敗れ、頼朝の父「義朝」は殺され、頼朝は伊豆へ流された。
以降20余年流人ー以人王の令旨を受けて挙兵する。伊豆目代「山木兼隆」討ったが、石橋山(小田原市)の戦いで「大庭景親」二敗れ房総へ逃げた。
兵を集め鎌倉へ・富士川の戦いで平家方を敗走させ、常陸佐竹氏を討って関東を固める。
後白河院に蜜奏し、勅命を得て弟範頼・義経を代官として 木曽義仲・平家を滅亡させた。
義経謀反事件が起こり、院に強要して守護・地頭の設置を認め、 奥州藤原氏を討った。 (挙兵して10年)
平清盛継母「池禅尼」は、頼朝が、我が子家盛を生き写しで、清盛に命乞いをしたと云う。
山里

「土肥実平」 頼朝に信頼された武将・相模国中村荘司土肥宗平の子、頼朝を庇護した。
弟土屋宗遠・子小早川遠平を共に最初から挙兵に参加している歴戦の勇士で、行政の手腕もあったと云う。
平家滅亡後、備前・備中・備後の守護になった。真鶴岬(岩海岸)脱出の成功者である。このことを「北条政子」に伝えたのが、子遠平と云う。
小早川氏は、後の「安房」戦国時代の武将。
土肥氏の菩提寺・「城願寺」の参道

「鎌倉時代」頼朝が守護・地頭設置の1192年・征夷大将軍になった時点と云う。
幕府は、侍所・公文所(政所)・問注所・・。長官(別当)に「和田義盛・大江広元・三善康信就任」-頼朝の独裁が強かった。
長男「頼家」将軍後・独裁を廃して「13人御家人代表の合議制に改め、「梶原景時・比企能員・和田義盛が謀反」の理由で討たれる。
「北条氏」が実権を握り始める。~二度の蒙古軍来襲・武士は総動員・・御家人は幕政に参加できず。貨幣経済の発達で衰え始める。
文化面で、貴族文化「藤原定家」新古今和歌集・・、権威であった。
源実朝も万葉調の歌を詠んでいる。運慶・快慶の彫刻・西行・鴨長明などの文学や「平家物語」の悲劇の活写された。
仏教も、栄西・道元・法然・親鸞・日蓮・一遍らが新仏教を興している。
城願寺入口

頼朝・実平の強運は、「城願寺」から。
山門

六地蔵

パワ―は、ビヤクシン(樹齢800年)・五所神社の楠木・・・
古木ビヤクシン(天然記念物指定)



棟木の木(縁結びの樹)

鐘楼

七騎堂

土肥実平腰かけ石

謡曲「七騎落」

本堂

土肥氏一族の墓



源頼朝の腰かけ石

幕山の「しとどの窟」

「山神樹叢」(天然記念物指定) 土肥実平の居住






4月第一日曜日 「土肥祭」 城願寺で法要ー「焼亡の舞」が奉納される。(武者行列など)
次回は、梅の名所、幕山梅園へ。(一月下旬)