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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
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曽我兄弟の物語り

2018-02-18 | 気まま旅
「五郎沓石」
曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、
源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行うので、この機会に日頃から親の敵と狙っている「工藤祐経」を討つ決心を。
そこで、母に .... 五郎の沓石 城前寺近く. 曽我五郎がある時、足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないかと心配になり、ためしにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中あたりに残っていると云う。
この沓石には以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったという。


「工藤裕経」 1147-1193 父宇佐美の工藤裕継・妻は伊東氏から、官位 左衛門尉
平重盛から源頼朝。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。
1186年、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。
1190年、頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用されたと云う。
1190年、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた
15歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。
信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血、頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否。
祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている
祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる。
「曾我兄弟の仇討ち」
建久4年の1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加、巻狩りの最終日の5月の深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、
「曾我祐成・時致兄弟」が押し入り、
工藤祐経は、兄弟の父・「河津祐泰」の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。
騒動の後、詮議を行った頼朝は、曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されたとある。(吾妻鏡より)



「曽我兄弟」 兄祐成 1172-93 武士
       弟時致 1174-93 武士
伊豆の「伊東祐親の子河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族である「工藤祐経」に殺された。
河津祐泰の妻は、二児を連れて「曽我祐信」と結婚する。
兄祐成5歳・弟時致3歳・・・17年後、源頼朝が富士(富士宮)の裾野で巻狩りを行った夜、(白糸の滝)から宿舎に祐経を襲って父の仇を討つ。



兄祐成は、その場で、新田忠常に討たれる。
弟時致は捕らわれ、事情を述べたので、頼朝は許そうとしたとある。
しかし、工藤裕経の子が訴え殺されている。  頼朝は、兄弟の孝心に感動し、義父の「曽我裕信」に、兄弟の追善供養料として曽我荘の年貢を免除している。



「曽我物語」は、室町時代広く民衆に親しまれたと云う。



「城前寺」 曽我兄弟の菩提寺
寺は、1193年の建久4年、創建。
曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされる。
曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となった。

                       寺の境内から海岸方面


                       城前寺の本殿


                       曽我兄弟の墓






                           境内の梅