「日本五大山岳城」
1)八王子城・ 東京都八王子市 山城「 北条氏照」 1587年
2)観音寺城 ・滋賀県近江八幡市 山城 「六角義賢」 1335年
3)七尾城・ 石川県七尾市 連郭式山城 「畠山義綱」 1428年
4)月山富田城 ・島根県安来市 複郭式山城 「 尼子経久」 1185年
5)春日山城・ 新潟県上越市 連郭式山城 「上杉謙信」 1336年・・・・・。
「山城」は、高地ほど軍事的防御に有利であり、山に城郭を築く行為は場所と時代を問わず普遍的に行われている。
山城とは呼ばないが、近代の旅順要塞やマジノ要塞も山に築かれた要塞群であって、機能は似ていると云う。
城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便であり、守るべき対象である人の居住地から離れている。したがって、山城は防御専用として造られることが多かった。
城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。
中世の連郭式山城(竹田城・但馬国)・中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。
山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで、長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。
小城の場合は、山の頂上に簡単な建物を造り、食料、武具を保管するだけで、後は自然の地形を利用して、適宜、山の各所に柵、堀、土塀を設けるといった程度であったらしい。中規模の城では、峰々に本丸、二の丸といった曲輪を造り、居住用の施設も備え、長期の籠城に耐えられるようにした。
大城では、周辺の山々に支城を設け、山系全体を要塞としていた。地形上の問題から、傾斜地にはあまり深い堀は掘れなかった。
堀に落ちた攻城側の兵を、守城側の兵が槍で突く攻撃が可能であるほうが、防衛上の利点が大きかったと云う。
小田原城

「大久保神社」
祭神 大久保忠世・大久保忠真

城山にある神社。
大久保忠世を祭神として、明治26年の1893年、小田原城天守台跡に創建、
明治28年には県社に列格した。小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に当地に遷宮したという。

社殿

「城山公園」 小田原桜まつりー3月下旬~4月上旬(開花~桜が散るまで)
日本さくらの名所100選、にも選ばれている小田原城址公園を中心に、長興山のしだれ桜、沼代桜の馬場において「小田原桜まつり」が毎年開催。
期間中は、様々なイベント、夜はぼんぼりの点灯などが行われる。
城山公園看板

小田原市内には古代遺跡が発掘、特に、城山公園の八幡山は、八幡山古こかく郭と呼ばれる中世小田原城の城郭遺構が展開する場所として大変重要。
原始・古代の遺跡も濃密に見つかっている。また、小田原高校南側にある樹林は、シラカシやクスノキ、ヤマモモといった照葉樹が中心に自生
し、自然のままの照葉樹林が残る場として貴重であることから、昭和46年、県立小田原高等学校の樹じゅそう叢として、県指定天然記念物となって保全されている。

3世紀前半の弥生時代後期には、台地南側を中心に大規模な集落が営まれこれらの集落を囲む環濠も部分的に見つかっていると云う。
弥生時代後期~古墳時代前期にかけては、方形周溝墓と呼ばれる墓が数多く造られ、集落に暮らしていた人びとが埋葬されていたようで、特に、千代光海端遺跡で検出された3基の方形周溝墓は、規模や方向を揃えており、計画的に造られていると云う。
3世紀後半の古墳時代前期には、方形周溝墓とは異なる大型の墳墓が造られていた。
6世紀前半~7世紀後半の古墳時代後期には、カマドをもつ竪穴住居が造られ、再び人びとが生活を始め、7世紀中ごろには足柄平野を治める在地首長を支える集落のひとつだったと云う。
奈良・平安時代には寺院が造営され、千代は足柄平野の政治的な支配拠点のひとつとなり、「千代遺跡群」は、小田原の歴史を語る上で重要な遺跡。

「井上康文」 日本の詩人。
神奈川県出身、本名・康治。東京薬学校卒業。1918年、福田正夫の「民衆」に参加し、編集を担当。
「新詩人・詩集・自由詩」等を創刊した。

「毒榎平が」
市城山陸上競技場内での発掘調査手で戦国時代小田原北条氏の構築した大規模な堀が確認された。
八幡山丘陵と谷津丘陵の間の谷地形の最深部、戦国時代には御前曲輪と呼ばれていた場所を区画する位置にあった堀を云う。
堀の確認面は東京軽石層の火砕流なので、さらにこの上には10m以上の堆積があったと思われ、深さは20mは超える深さであったと推定されている。
難攻不落の小田原城であった。

「小田原城の有名な支城」
山中城、鷹之巣城、足柄城、韮山城、松井田城、下田城、津久井城、新田金山城、厩橋城、箕輪城、玉縄城、江戸城、小金城、臼井城、本佐倉城、河越城、岩槻城、忍城、鉢形城、館林城、三崎城、小机城、滝山城、栗橋城、関宿城、八王子城などがある。
そのほとんどは小田原攻めの支城攻略によって陥落。
主力を小田原城に集結したため、支城には大した戦力がなかった。
特に、八王子城落城と石垣山一夜城完成は北条勢の戦意喪失となり、小田原城降伏の要因。
次は、小田原中井町「曽我」へ。
1)八王子城・ 東京都八王子市 山城「 北条氏照」 1587年
2)観音寺城 ・滋賀県近江八幡市 山城 「六角義賢」 1335年
3)七尾城・ 石川県七尾市 連郭式山城 「畠山義綱」 1428年
4)月山富田城 ・島根県安来市 複郭式山城 「 尼子経久」 1185年
5)春日山城・ 新潟県上越市 連郭式山城 「上杉謙信」 1336年・・・・・。
「山城」は、高地ほど軍事的防御に有利であり、山に城郭を築く行為は場所と時代を問わず普遍的に行われている。
山城とは呼ばないが、近代の旅順要塞やマジノ要塞も山に築かれた要塞群であって、機能は似ていると云う。
城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便であり、守るべき対象である人の居住地から離れている。したがって、山城は防御専用として造られることが多かった。
城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。
中世の連郭式山城(竹田城・但馬国)・中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。
山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで、長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。
小城の場合は、山の頂上に簡単な建物を造り、食料、武具を保管するだけで、後は自然の地形を利用して、適宜、山の各所に柵、堀、土塀を設けるといった程度であったらしい。中規模の城では、峰々に本丸、二の丸といった曲輪を造り、居住用の施設も備え、長期の籠城に耐えられるようにした。
大城では、周辺の山々に支城を設け、山系全体を要塞としていた。地形上の問題から、傾斜地にはあまり深い堀は掘れなかった。
堀に落ちた攻城側の兵を、守城側の兵が槍で突く攻撃が可能であるほうが、防衛上の利点が大きかったと云う。
小田原城

「大久保神社」
祭神 大久保忠世・大久保忠真

城山にある神社。
大久保忠世を祭神として、明治26年の1893年、小田原城天守台跡に創建、
明治28年には県社に列格した。小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に当地に遷宮したという。

社殿

「城山公園」 小田原桜まつりー3月下旬~4月上旬(開花~桜が散るまで)
日本さくらの名所100選、にも選ばれている小田原城址公園を中心に、長興山のしだれ桜、沼代桜の馬場において「小田原桜まつり」が毎年開催。
期間中は、様々なイベント、夜はぼんぼりの点灯などが行われる。
城山公園看板

小田原市内には古代遺跡が発掘、特に、城山公園の八幡山は、八幡山古こかく郭と呼ばれる中世小田原城の城郭遺構が展開する場所として大変重要。
原始・古代の遺跡も濃密に見つかっている。また、小田原高校南側にある樹林は、シラカシやクスノキ、ヤマモモといった照葉樹が中心に自生
し、自然のままの照葉樹林が残る場として貴重であることから、昭和46年、県立小田原高等学校の樹じゅそう叢として、県指定天然記念物となって保全されている。

3世紀前半の弥生時代後期には、台地南側を中心に大規模な集落が営まれこれらの集落を囲む環濠も部分的に見つかっていると云う。
弥生時代後期~古墳時代前期にかけては、方形周溝墓と呼ばれる墓が数多く造られ、集落に暮らしていた人びとが埋葬されていたようで、特に、千代光海端遺跡で検出された3基の方形周溝墓は、規模や方向を揃えており、計画的に造られていると云う。
3世紀後半の古墳時代前期には、方形周溝墓とは異なる大型の墳墓が造られていた。
6世紀前半~7世紀後半の古墳時代後期には、カマドをもつ竪穴住居が造られ、再び人びとが生活を始め、7世紀中ごろには足柄平野を治める在地首長を支える集落のひとつだったと云う。
奈良・平安時代には寺院が造営され、千代は足柄平野の政治的な支配拠点のひとつとなり、「千代遺跡群」は、小田原の歴史を語る上で重要な遺跡。

「井上康文」 日本の詩人。
神奈川県出身、本名・康治。東京薬学校卒業。1918年、福田正夫の「民衆」に参加し、編集を担当。
「新詩人・詩集・自由詩」等を創刊した。

「毒榎平が」
市城山陸上競技場内での発掘調査手で戦国時代小田原北条氏の構築した大規模な堀が確認された。
八幡山丘陵と谷津丘陵の間の谷地形の最深部、戦国時代には御前曲輪と呼ばれていた場所を区画する位置にあった堀を云う。
堀の確認面は東京軽石層の火砕流なので、さらにこの上には10m以上の堆積があったと思われ、深さは20mは超える深さであったと推定されている。
難攻不落の小田原城であった。

「小田原城の有名な支城」
山中城、鷹之巣城、足柄城、韮山城、松井田城、下田城、津久井城、新田金山城、厩橋城、箕輪城、玉縄城、江戸城、小金城、臼井城、本佐倉城、河越城、岩槻城、忍城、鉢形城、館林城、三崎城、小机城、滝山城、栗橋城、関宿城、八王子城などがある。
そのほとんどは小田原攻めの支城攻略によって陥落。
主力を小田原城に集結したため、支城には大した戦力がなかった。
特に、八王子城落城と石垣山一夜城完成は北条勢の戦意喪失となり、小田原城降伏の要因。
次は、小田原中井町「曽我」へ。