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原城 肥前 世界文化遺産 島原・天草一揆の地を訪ねる

2024-08-30 | 歴史
原城は長崎県南島原市南有馬町にあります。有馬氏が日野江城から移る予定で築かれ、その後沙汰止みになったと伝わります。江戸時代になって有馬氏の転封により松倉氏が島原城を築き、原城は廃城になったとされます。歴史上有名な島原・天草一揆では廃城となっていた原城が一揆勢の拠点として利用されました。島原・天草一揆は以前は「島原の乱」として知られていましたが、その経緯から一揆として考えられるようになったようです。東海古城研究会の2泊3日特別見学会で肥前、肥後の城郭見学の一環として訪れました。今回の参考資料は(1)見学会資料  (2)現地案内板 (3)「パンフレット世界遺産原城跡」南島原市  などです。

原城 近年の発掘調査により多数の遺構が確認され原城の全貌が見えてきた
 資料(3)によると幕府軍の本陣、城を封鎖するための柵、海上を封鎖するための番船などが配置され、籠城を続ける一揆勢の糧道を絶つ作戦が読み取れますね。

原城 大手口に隣接する宿泊先から徒歩で城内に向かう
 史料によると、発掘調査の結果、原城の遺構は豊臣系の流れをくむ城郭だったことが確認され、一揆勢は廃城となっていた原城を部分的に改築して利用して籠城したようです。

原城 大手口付近の現地案内板の立体図 
 大手口付近に立つ案内板には城域全体を表す立体図が載っていましたので、原城の全体像を把握するのに役立ちました。

原城 三ノ丸 南東から
 原城は北の三ノ丸から南の天草丸まで1Kmをゆうに超える巨大城郭で、主要部に石垣を用いた城を築いた有馬氏の財力に驚きます。南蛮貿易で大きな富を得ていたのでしょうか。

原城 二ノ丸 見学路から南方向を見る 奥に本丸
 三ノ丸に続いて二ノ丸も広大な平場でした。築城時には家臣の屋敷地だったのではないかと想像しました。戦後間もなくの航空写真を見ると二ノ丸,三ノ丸のほぼすべてが近年まで耕作地として利用されていたようですので改変が多少あるかもしれません。

原城 本丸入り口に立つ案内板の立体図 一部に加筆
 本丸入り口の案内板には本丸を中心とした立体図が載っていましたので、本丸を中心とした遺構の配置・構造がよく分かりました。

原城 空堀 東から
 本丸北側には方形の空堀が設けられ、二ノ丸から本丸に入る大手道の土橋を形作っていました。本丸の周囲三方は高くて急な切岸で囲まれていますが、二ノ丸側が面でつながる地形だったために大きな堀を掘ったのではないかと思いましたがどうでしょう。

原城 蓮池 本丸側から見下ろす 海岸にはアコウ街道が見える
 原城の水源地だった蓮池の現況は水が失われ、殆どが耕作地化されているようでした。往時は籠城に重要な水をここから得られたので一揆勢は籠城を続けられたのではないかと思います。

原城 本丸正門 枡形から城内へ 北東から
 二ノ丸からの大手道は本丸正門の外枡形で90度折れて城内へ入る形だったようで、本丸正門の周囲は立派な石垣が築かれていました。一揆の頃には廃城となっていたので門の建物は無かったと思われます。

原城 雁木と多門櫓 奥に隅櫓 南から
 大手道は本丸正門を入ると左に90度折れて通路は埋門まで進みます。通路の東側には雁木が設けられた土塁上に多門櫓が築かれていたようです。このあたりの構造は豊臣系の当時の最新型だったかもしれません。

原城 埋門 大手道はさらに90度折れて本丸門に向かう
 埋門は一揆後に破却され、取り外された築石が通路に並べて埋められていたのが発掘調査によって掘り出されて判明しました。

原城 本丸門 手前に枡形 北西から
 大手道は埋門から本丸門の間がやや不明瞭ですが、通路は90度左折して本丸門を入り、90度右折して階段で本丸に入る経路になっていました。ここまで二ノ丸からの大手道は5回折れました。

原城 本丸に立つ北村西望作の天草四郎像
 今回の見学会では、長崎出身で長崎の平和祈念像の作者として有名な北村西望の作品をいくつか見ましたが、原城にも天草四郎像が建っていました。本丸も二ノ丸、三ノ丸と同様に、ほとんどが後世の耕作地として近年まで利用されてきたようです。本丸の一部には天草四郎の家の推定地もありました(図3参照)。

原城 本丸 謎の陥没穴
 本丸の一部に円形の陥没穴が在りました。資料によると昭和38年(1963)の集中豪雨の際に地盤沈下してできた穴で4mほどの深さがあり、穴の中には空間と人工物が有ったようですが、何の穴かは確認されていないということです。原城には抜け穴が在ったという伝承があるようですので、抜け穴の入り口かも知れませんね。

原城 本丸西辺の石垣 手前に櫓台 北西から 
 櫓台から本丸西辺を見ると石垣が見事に残存していました。廃城時や一揆後の破却時にも壊されずに残されたようで、往時の姿を見ることができました。

原城 池尻口門 石垣遺構はよく残っている
 本丸北東隅には搦手門にあたる池尻口門があり通路は二ノ丸方面へ延びていました。見学用の木製階段が設けられていましたが、石垣などの門跡の遺構がよく残っていました。池尻口の名称から、ここから蓮池に降りる道も在ったかもしれないと想像しましたがどうでしょう。

原城 板倉重昌の碑
 板倉重昌は一揆の当初、幕府の上使として一揆の鎮圧にあたった人物ですが、一揆を治めることが出来ずに討ち死にしました。子孫は碑の建立を望みましたが、敗軍の将ということでしょうか許されず、死後159年がたってやっと幕府から許しを得てこの碑を立てたとされます。三河出身ということもあって、会員さんの多くが関心を持って見学し「幕府の上使といっても三河の小藩の城主クラスの板倉重昌では、地元の大名たちが思うように指揮に従わなかったので、止むに已まれず自ら先陣をきって討ち死にした」という意見も聞かれました。

数々の逸話や伝承伝説で語られる島原・天草一揆の中心地である原城は是非見学したいと思っていましたので、今回の見学会を楽しみにしていました。よく整備された遺構、地元ガイドさんによる歴史や周辺の適切な解説もあり期待以上の内容で大満足の見学となりよかったです。