城と歴史歩きを楽しむ

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源治山城 伊勢 信長の伊勢侵攻で滅んだ。城郭遺構は三岐鉄道に分断された

2023-10-22 | 歴史

源治山城は三重県四日市市山城町字源治山にあります。山城城、下野城、下野山城とも呼ばれ、建武年中に見永籐七郎秀宗が足利尊氏からこの地を与えられ歴代が居城したと伝わりますが、永禄十一年(1568)織田信長の伊勢侵攻によって滅ぼされたとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976   (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 などです。


源治山城 朝明(あさけ)川を背後に控えた後堅固の台地突端の城郭だった
 織田信長の伊勢侵攻で朝明川下流の萱生城と同時期に落城したと思われます。


源治山城 三岐鉄道の敷設によって遺構は東西に分断された
 三岐鉄道の敷設工事によって、開削され城郭遺構の中央部で分断されたため、Ⅰ郭は見学路がわかりづらくなっていました。団地内には多少の駐車スペースもありましたが、朝明川沿いの路肩に駐車して見学しました。


源治山城 分断された城域の中を三岐鉄道が走る
 過日訪れた時には線路西側の斜面を降ることが出来ましたが・・・・


源治山城 最近のGoogle MAP による同一斜面の確認
 最近のGoogleMAPで確認したところ、三岐鉄道の西側の斜面はコンクリートでの擁壁工事が行われた様ですので、降りることはムリですね。


源治山城 鉄道開削部分の旧状は不明のため東西の曲輪をⅠ、Ⅱとした
 Ⅰの曲輪には城址碑や下野地区史蹟委員会の案内板が立つていました。
 

源治山城 Ⅱの曲輪の入口に立つ城址標柱
 分断された城域東側のⅡの曲輪へは線路脇の城址標柱から入りました。見学路はありませんが、高低差は少なかったです。


源治山城 Ⅱの曲輪 南辺土塁 西から Ⅱの曲輪の見どころはこの土塁
 Ⅱの曲輪は三方を土塁が取巻いていました。土塁は残存状態もよく見どころでした。


源治山城 Ⅱの曲輪北側の堀切 東から
 鉄道工事で開削され消滅した遺構との関連は不明でしたが、Ⅱの曲輪を中心にした東側の城郭遺構だけでも小規模な山城クラスの遺構が残っていました。


源治山城 Ⅰの曲輪の入口はわかりにくい
 Ⅰの曲輪付近への駐車は不安でしたのでⅡの曲輪から歩きました。Ⅰの曲輪の見学路の入口はわかり難かったですが、住宅の庭先の小道を通りました。


源治山城 Ⅰの曲輪 周囲を土塁が取巻いていた? 東辺は開削工事で削られた?
 主郭と思われるⅠの曲輪は東辺を鉄道工事で削られたようでした。遺構の状況から原形は土塁囲みの曲輪で土塁の外側には堀が巡っていたのではないかと想像しましたがどうでしょう。


源治山城 Ⅰの曲輪の一角にには城趾碑と案内板が立つ
 城趾碑には「山城城趾」と陰刻されていました。案内板には城の歴史と城址碑建立のいきさつなどが記されていました。


源治山城 Ⅰの曲輪に立つ案内板
 城の歴史と昭和6年に三岐鉄道の開削工事が行われ、昭和7年に県の(若干の)補助を受けて遺跡保存と城趾碑の建立を行ったことがわかりますね。


源治山城 Ⅰの曲輪 東辺の虎口地形④ 東から
 写真ではわかりずらいですが、虎口地形④の左右のに土塁がありました。虎口東側の土塁は開削工事でほとんどが失われたように見えましたが、原形はⅠの曲輪を取り巻くように伸びていたのではないかと想像しました。


源治山城 Ⅰの曲輪 南西隅の堀⑤ 南から 
 Ⅰの曲輪の外周は開削工事で失われた部分を含めて、堀が取巻いていたと想像しました。現況は宅地化で堀が埋められた部分もあるようでした。

源治山城は、鉄道工事で分断されながらも地元の方々の尽力によって、残された城郭遺構が守られてきたた貴重な存在でした。消滅した遺構を想像で補いながら楽しく見学出来て良かったです。