城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

多喜南城 近江 改変が一部あるものの興味深い遺構の残存状態が良好な多喜氏の城郭

2023-10-06 | 歴史

多喜南城は滋賀県甲賀市甲賀町滝にあります。城主は滝氏とされ、以前は多喜北城と呼ばれていた多喜城との関連が考えられるようです。主郭の規模は多喜城とほぼ同等だったようですが、一部を竹林造成のために土取りされ、失われた部分にあったと思われる虎口などの確認が困難になったようです。今回の参考資料は (1)「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010  (2)「図解近畿の城郭Ⅰ」城郭談話会編2014 などです。 ※多喜城は→こちら


多喜南城 多喜城よりも東と南東方面の視界が開けている 川を挟んで大原氏と向き合う
 多喜城を主城と考えた場合、多喜南城からは東と南東方向の視界が開けていて、この方面の監視と防衛の役割を担っていた可能性を想像しました。川を挟んで甲賀の雄族大原氏が割拠していました。※大原城は→こちら



多喜南城 Ⅰ郭東側斜面⑤ は竹林造成のため改変された。東側の土塁地形⑨の東側は道路工事で改変がある
 今回の見学では、道路の適当な場所から尾根を目指して登りましたが、多喜城との関連を考えると尾根の西側からの城道があったかもしれません。資料(1)によるとⅠ郭東側の法面⑤は、竹林造成のため土採りが行われたとされます。多喜城の遺構から類推するとaだけでなくb付近にも虎口があったのではないかと想像しましたが現況は改変されて確認できませんでした。。


多喜南城 Ⅱ郭 西から
 Ⅱ郭は城域の西端部と思われますが、厳重な守りを感じない地形でした。多喜城との関連を考えると、外敵の侵入の恐れが少なかったのかもしれないと思いました。城道はⅡ郭の南下を迂回し、途中に竪堀②が設けられていました。


多喜南城 Ⅱ郭南下の浅い堀切① 北から 右手にⅡ郭の切岸
 堀切①は浅く、Ⅱ郭東辺の切岸を削り出すためのように見えました。


多喜南城 堀切③ 南東から 手前に平場が在る
 Ⅱ郭からの尾根上には段々の平場が在り堀切③に至ります。堀切③は尾根を遮断している様でした。ヒョットすると城道が③を通ってbの方向に延びていたかもしれないと思いました。


多喜南城 地形⑫は農業用溜池?井戸?堀? 堰堤に見える部分は城道か
 地形⑫は、時々見かける農業用の溜池跡の様に見えましたが、往時は水場又は堀の役割で、写真左側の堰堤に見える部分は虎口aに至る城道だったかも知れないと思いましたがどうでしょう。


多喜南城 竪堀と竪土塁⑬  南西下から
 地形⑫の上には竪土塁と竪堀がありました。⑫が水場だとすれば上方からの導水関連かもしれませんが、Ⅰ郭東辺の斜面の横移動を防ぐ遺構かもしません。


多喜南城 堀切⑩ 西から
 堀切⑩は南尾根を断ち切る堀切ですが城道の通る切通も兼ねていたように見えました。


多喜南城 南尾根の地形⑪ 北から
 地形⑪は南尾根の上部を少し削平した自然地形に近い細長い遺構でした。


多喜南城 堀切⑥ 南から 左にⅠ郭虎口a
 堀切⑥は東に延びる尾根⑧を遮断する役割で、Ⅰ郭の土塁④と堀切の間にやや不明瞭ながらⅠ郭の虎口aが設けられていました。


多喜南城 Ⅰ郭 南側土塁上から 左と奥に土塁が見える
 Ⅰ郭は土塁に三方を囲まれた主郭で、南北40m東西20m程の方形の曲輪でした。東辺は竹林造成のために削られているようですので往時は東西方向にもっと広かったと思われます。


多喜南城 Ⅰ郭東辺の法面⑤ 南上から
 資料(1)で竹林造成のために土取りされたと記されていましたが、現況はブッシュの覆われた斜面になっていました。Ⅰ郭からは東側に視界が開けていました。


多喜南城 土塁④ 南の角 北西の土塁上から
 Ⅰ郭の三方を囲む土塁は外周部を城道で削り、高低差がありました。土塁の天端はほぼ水平ですので、地山の削り残しだけでなく土を積んだ部分もあるかもしれないと思いました。


多喜南城 東尾根の地形⑧ 西から
 堀切⑥で断ち切られた東尾根は自然地形に近い天端を削平したと思われる細長い平場⑧が⑨まで続いていました。


多喜北城 東尾根先端部の土塁地形⑨ 南から 右に急な法面
 地形⑨は東下の道路工事によって削られて土塁状になった地形のようですが、道路工事以前の形状は不明でした。


多喜南城 堀切⑦ 南西から 左手上に⑧
 堀切⑦は東尾根の地形⑧の切岸を削り出すために掘られたように見えました。


多喜南城 Ⅰ郭北側尾根の段々地形⑭ 北から
 Ⅰ郭の北角部分の土塁④の外側から北にかけて段々の平場地形がありました。後世の耕作地の様にも見えましたが城郭遺構との区別が付き難かったです。

多喜南城は多喜城を主城とした城郭という観点で見学しました。主郭の形態などは両城とも似通っていました。解釈の難しい地形もありましたが興味深く見学出来良かったです。