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安代城 三河 その2 遺構の残りが良い館城の屋敷跡を中心に見学

2022-09-07 | 歴史

安代(あじろ)城は愛知県豊田市富岡町寺洞にあります。その1では伝承の物見台を見学し館城(やかたじろ)の主郭に至るルートを見学しましたが、その2では主郭周辺の屋敷地と平場を中心に見学したいと思います。今回の参考資料も (1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 などです。  ※安代城 その1は→こちら


安代城 Ⅰ郭(主郭)は最高所にある平場 帯曲輪の細い平場が多数残る
 資料(1)によると海野屋敷、近田屋敷、蔵屋敷には伝承名がありますがその他の平場には名称は残されていないようです。海野屋敷には近年 住宅が建ちましたがその他の屋敷地や平場の多くは耕作地として利用されたと思われます。


安代城 Ⅰ郭南辺の帯曲輪状地形③ 東から
 最高所のⅠ郭には城主の館が建っていたと想定できそうですが、南辺と北辺には帯曲輪状の細長い平場が残されていました。Ⅰ郭と平場③の高低差は50㎝程でした。


安代城 Ⅰ郭北辺の帯曲輪状地形④ 西から 右手のⅠ郭に小屋が見える
 Ⅰ郭北辺にも、南辺と同様の細長い平場④があり、その高低差はやはり50㎝程度でした。写真に見える小屋は、農作業小屋と思われます。


安代城 蔵屋敷 左手に一段上がってⅠ郭  北から
 Ⅰ郭の西側下には、蔵屋敷と伝承される広めの平場が在りました。平場③、④よりも幅が広いのでⅠ郭に関連する何らかの建物があり、蔵屋敷と名付けられたのではないかと想像しましたがどうでしょう。


安代城 Ⅰ郭東辺の帯曲輪状の2段の細長い平場地形①と② 北から
 Ⅰ郭の東側は尾根続きに堀切Aが設けられています。平場①、②は防御のための城郭遺構とは考えにくいものですのでひょっとすると土留めの意味合いがあったのではないかと想像してみましたがどうでしょう。あるいは後世の耕作地の開墾だったりするかもしれませんね。  


安代城 Ⅰ郭北側 下段の平場⑤ 腰曲輪か?
 Ⅰ郭北辺の平場④のもう一段下に平場⑤がありました。資料(1)では描かれていますが(2)では描かれていませんでした。安代城の北側には主要な美濃街道が通っていましたので、守りの補強の意味がある城郭遺構だったのかもしれませんね。


安代城 平場⑧ 名称は伝わらないがかなり広い曲輪 南西から
 平場⑧と近田屋敷の面積はかなり広いのですが、耕作放棄されてから時が経っているようで、荒れ放題の竹林になっていました。


安代城 帯曲輪状の細長い平場⑩ 左手上に同様の帯曲輪地形⑨がある 北東から
 平場⑧の北西辺の法面は急角度で下からの高低差が15m近くありますので、2段の細長い平場⑨、⑩は平場⑧の崩落防止の役割があったのかもしれません。往時の遺構ではあるものの、戦いに関連する遺構ではないのかもしれないと想像しました。


安代城 近田屋敷北西辺の土塁⑬ 途中に開口部がある 北東から 
 近田屋敷の土塁⑬は東から延びる尾根を掘り残したものと思われる存在感のある土塁でした。途中に開口部がありますが、資料(1)・(2)ともに描かれていませんでしたので近年の崩落か、作業用の改変かも知れないと思いました。写真奥に谷を挟んで物見台が見えています。


安代城 土塁⑬ 近田屋敷内側から見る 
 一見 虎口風ですが、近年になっての開口のようです。何らかの作業用だった可能性がありそうですね。


安代城 近田屋敷と土塁⑬ 西から
 近田屋敷は東から延びてきた尾根の先端部を掘り下げて平場を作り、土塁⑬を掘り残したように見えました。土塁⑬の開口部も見えています。道路面から土塁天端までの高低差は10mはありそうでした。


安代城 近田屋敷の石列⑭ 南東から
 近田屋敷の面積は広く、その北西隅に曲輪を区切るように石列がありました。耕作地として利用されたときに石列は不要と思われますので、往時の建物区画など、屋敷との関連がありそうに思いました。

多数の平場遺構が残る安代城ですが、役割が明確に掴めない地形もありました。資料を参考に勝手な想像をたくましくしながら楽しく見学出来て良かったです。