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安代城 三河 その1 残りの良い館城遺構と伝承の物見台を訪ねる

2022-09-02 | 歴史

安代城は愛知県豊田市富岡町寺洞にあります。足助七城の一つといわれ城主は付近を領した土豪の原田氏とされ元亀二年(1571)武田氏の三河侵攻により落城と伝わります。遺構は後世の耕作地化や宅地化などで多少改変を受けていますが、意外に原形が残されていました。今回の参考資料は (1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 などです。
 資料(1)によると、安代城に付属する物見台と伝承される遺構も存在するとありましたので、同時に訪れて見学しました。


安代城 足助七城以外にも小領主が城を築いていた
 足助七城は、足助城(真弓山城)を中心にした城塞ネットワークといわれ、安代城もその一つに数えられているようです(諸説あり)。それ以外にも小領主によって築かれた城館がありました。現在の153号線は東方の稲武方面に向かいますが、安代城を通る街道は古くは北方の美濃に向かう主要な街道だったようです。


安代城と物見台 資料(1)に記された物見台と安代城
 物見台と安代城の近田屋敷の間の谷地は約40mほどの狭隘な谷地形でした。物見台の存在は資料(1)の記述によるもので、資料(2)には記述がありませんでした。


物見台 今は共同墓地となっている  北から
 墓地には原田氏ゆかりの方が建てたと思われる原田氏の墓標もありました。物見台の削平地があったので墓地として利用したのか、墓地のために造成した削平地なのかは、判別が難しいですね。


物見台からの南西側の足助方面の眺望 今は竹ヤブで見通せない
 物見台から、南西側は竹ヤブがなかった往時の地形であれば西の足助方面がよく見えたと思われます。


物見台からの北東側の眺望 安代城に遮られて見通しが悪い
 安代城の物見台とすれば、西の足助方面よりも東方からの敵の侵入に備えた物見が主な役割と思われますが、物見台からは安代城が邪魔をして、見通しが効かないようでした。


安代城と物見台 153号線から位置関係を見る  北から
 安代城と物見台の間の谷の下端の間隔は40m程ですので、物見台は街道からの安代城への侵入を見張り、横矢の役割を持たせていたのではないかと想像してみましたがどうでしょう。
 

安代城 海野屋敷には住宅が建ち大手道はフェンスで通行禁止
 今回は徳用寺参道入口の路肩余白に車を止めて見学しました。海野屋敷には近年、住宅が建ち、以前あった見学ルートは通れませんでしたので、図3のa辺りをエィヤッ!と分け入ってAの堀切に出ました。


安代城 海野屋敷  下段の帯曲輪地形    南から
 現状は帯曲輪状の地形が2段の様に見えますが、資料(1)、(2)ともに1段ですので後世の盛土があったのかもしれません。


安代城 海野屋敷 近年、住宅が建ったが地形はほとんど残っている
 大手道は海野屋敷を通っていた、または海野屋敷の下段を巻く帯曲輪を通っていた可能性がありますが、現状では後世の改変があり判断が難しい状態でした。


安代城 井戸 以前の見学ルートは宅地内となり、フェンスで通行禁止状態  奥に海野屋敷
 以前の見学ルートは宅地内となりフェンスが設けられて通行が出来ませんでしたが井戸は健在でフェンス越しに見学出来ました。井戸には今も水を見ることが出来ました。


安代城 大手道の虎口と小平場    南から
 井戸脇を通る大手道は折れを伴って小平場⑥に出ました。資料(1)ではこの部分を虎口としていますが資料(2)には記述がありませんでした。付近は後世の農道による改変で直進の道もある為、やや不鮮明になっていました。


安代城 Ⅰ郭(主郭) 平場は耕作地として利用されていた  東から
 安代城は館城とされますので、Ⅰ郭には城主の館が立っていたと思われ、往時から平坦面だったのを耕作地として利用したと想像しました。Ⅰ郭の周囲は50㎝gほど下がって帯曲輪地形が取巻いていたようです。


安代城 東側の尾根を断ち切る堀切A 中央部  南から  見どころです!
 堀切Aは堀底までしっかり残っていて深さ約2m、長さも50m近くある大きな堀切で見ごたえ十分の見どころでした。


安代城 Ⅰ郭 東上の墓地b  北下から
 墓地bは昭和59年に原田氏ゆかりの方が新たに建てた墓碑がありました。付近の徳用寺の位牌を模したものとされます。墓碑銘によると「安城城主 原田弥五平種則」となっていました。安城は「あじろ」とも読めますね。墓の立つ平場は、城郭遺構ではなく墓を建てるために削平したと見えました。

安代城は館城(やかたじろ)とされ、最高所の城主の館を取り巻くように家臣の屋敷地があった為、海野屋敷や近田屋敷の名称が伝えられているものと思われます。 その2では主変雄遺構を見学したいと思います。