2015年の締めくくり、大晦日になった。
慌ただしく過ぎた1年だった。
言葉のひとつひとつには、魂が宿っている。
特に、物書き、執筆を生業とし、取材を基盤にして、取材を受けてくれた人の気持ちや状況を代弁する立場の私たちジャーナリズムにいる人間にとって、言葉というものは非常に大切な意味を持つ。
そして、いろいろな状況でそれぞれの人が仕事をしている。
取材に協力してくれる人がいて、そして、地を這うようなこつこつとした努力の積み重ねをしてはじめて、私の原稿は成り立っていく。
言葉のひとつひとつの背景に非常に重みがあるということは、熱心な読者なら読めば気づいてくれる。2000年に社会に出て、取材して書く仕事に就き、そうやってきた15年でもある。
誰がいつ、どうして、どういうことを話し、どうしたのか。そうした事実の積み上げと、客観的なデータに基づかなければ、社会問題を提起しえない。
こうした、人から求められ、それを職業にできることを幸せに感じ、言葉に責任を持つという基本姿勢はこれからも崩さず頑張りたいと思う。
私は幸い、株式新聞社でも毎日新聞のエコノミスト編集部でも、これは本当か?多いって何?何%?、まさか言われたまま書いてないだろうな?など、全て疑ってかからなければ本当のことは書けないことを教わった。それは、編集業務でも同じだった。きた原稿に対し、どんなにえらい先生のものでも、手直しが必要なら手を加えなければならない。すべては読者のためにだ。そう厳しく指導してくれる上司や先輩に恵まれた。人はきちんと組織のなかでもまれ、学ばないといけない。しかも早い段階で。仕事を通して鍛えられることで個人の尊厳がつくられていくのだと思う。
こうしたプロ意識をもって仕事をできる環境がどのくらいあるか?
安易に人の言葉を乱用し、コピペ文化に慣れ切ってしまった大人社会で良いのだろうか?マスコミ業界のなかにもそれを許す傾向のある危機を数年前から大きく感じている。
私は、プロとして働く意味を問いたい。乳幼児や学生の教育も同じだが、社会人になってからの教育もなければ、資源のないこの日本が生き残っていけるはずがないからだ。
そして、教育こそが、最終的な社会問題の解決策につながるのではないかと感じている。
私も40歳になり、中堅の年齢になってしまった。その社会的責任を果たしていきたいと思う。