小林美希の取材日記(つぶやき)

取材を通して思う素朴な疑問や、日々の出来事を紹介します。 

しつこく、やり抜く

2011-05-27 23:45:24 | Weblog

 ツイッターで、(良い意味で)執念深いとつぶやいてくれた人がいて、ふと、自分自身を振り返り、また野口英世のことを思い出した。

 それで、ん??そういえば、前もブログに書いたかな、と思ったら、ちょうど1年前に書いていた。

http://blog.goo.ne.jp/shaoling-online/e/16eaefc005603f7ce980ddb40ead9825

 野口英世は、黄熱病を発見したが、その過程で、膨大な量のスライドを顕微鏡でチェックし、その最後のスライドに菌があった、という偉人伝がずっと記憶のどこかにある。そういう、粘り強さ、私的には「しつこさ」が何かをやりとげようとする時に大事なのだと、小さい頃から、思い続けているのかもしれない。

 んー。そういう意味では、小学生あたりの読書って大事かも!?
 35歳の中年になった今、小学生なんて子どもにしか見えないけど、案外、もう自立に向かって、いろんな影響を受けていたんだなぁと思ったりした。

 子ども話で、そういえば、最近、思うこと。

 妊娠、出産、育児のあたりの話で、妊娠中に着目すると、私は、周囲からの「おめでとう」という言葉とか、「あれしろ、これするな」と世話をやいてもらう環境はとても大事だと思う。妊娠中の10カ月、あるいは、妊娠が判明してからの約半年くらいの間、そういう周囲のまなざしが、その人を親にしていくんだと思った。
 だからこそ、職場環境は大事だと思う。

 今、生まれている子は社会の子と言ってもいいだろう。
 だから、独身~子育て期にある人たちの環境、労働環境や医療体制などはこれからの日本の未来のために、なんとしてでも、守っていきたいと強く思う。

今週のエコノミスト

2011-05-09 22:27:51 | Weblog

 5月12日は看護の日。

 今週は看護週間ということで、週刊エコノミストで看護に関する原稿を書かせてもらいました。
 毎日新聞のHPに記事が掲載されているので、お知らせします。



 http://mainichi.jp/life/money/kabu/eco/pickup/news/20110506org00m020004000c.html

PICK UP


3.11からの日本 看護師不足
 ◇大震災で浮き彫りになった医療過疎の現実
 ◇小林美希(こばやし・みき=労働経済ジャーナリスト)

 東日本大震災の被災地は、医療過疎地でもあった。救援に向かった看護師の目には、何が映っただろうか。平時の落ち着きを取り戻すときは来るのだろうか。

「みんなが高台に向かって避難するなか、逆走して病院に駆け付けました」

 3月11日午後2時46分。東日本大震災が起こった瞬間、宮城県気仙沼市立病院のベテラン看護師、岩渕典子さんは病院から20数キロ離れた自宅付近のスーパー駐車場にいた。その日、岩渕さんは休みだった。

 気仙沼市内の総合病院は、この市立病院ただ1つ。「人手が必要になる」。瞬間、そう考えた岩渕さんは家族の安否を確認すると、病院に向け車を走らせた。道路は寸断されてはいなかったが、市内中心部にある病院にたどり着いたのは、すでに暗くなってからだった。途中、市内の火事の赤い光が目に焼き付いた。

 当時、病院には約370人の入院患者がいた。壁が崩れ、使えなくなった病室もあった。電気、ガスは止まった。しかし、水道は無事だった。まず行ったのは、電気を自家発電でまかない、入院患者を総出で病院内の安全な部屋に移すことだった。

 救急患者の対応のため、通常の外来診療や検査などはストップ。避難所に逃げ延びたものの、寒さなどで肺炎や呼吸不全を起こした人らを受け入れることになった。日ごとに、そうした人が増えたため、症状が落ち着けば退院してもらうしかない状況に追い詰められていった。岩渕さんは「ベッドもなく、寒い避難所の過酷な状況を思うと“病院を出て”とは言いたくないが、病院の損傷も激しく、やむを得ない」というジレンマに悩まされつつ、不眠不休で仕事を続けた。

 地震から10日ほどで、「応援の医療スタッフが集まるようになり、通常の勤務体制に戻りました」と話す。
 ◇派遣された看護師の奮闘

 こうした災害時、被災地に医師や看護師を派遣する仕組みがある。代表的なものが、厚生労働省の災害派遣医療チーム「DMAT」と日本赤十字社(本部・東京都港区)による活動だ。

 DMATとは災害や大きな事故の発生後48時間内に出動し、72時間以内の人命救助という超急性期(症状が激しく命に関わる時期)に活動する医療チーム。普段はそれぞれの病院で勤務しており、災害発生とともに招集されて、現地に出動する。一方の日赤傘下の病院は災害対策基本法に基づく指定医療機関で、ひとたび災害が発生したときには、登録している医師や看護師などが「救護班」として現地に派遣される。

 今回、大震災発生から6分で、DMATは災害医療センター(東京都立川市)内に対策本部を設置した。災害医療では、重症な外傷を負い、生命に関わる患者が多くなる。DMATはその対応を行い、通常なら3~4日で役目を終えることがほとんど。しかし、今回は津波に飲み込まれた人のほかは、軽症か、無傷である人が多く、医師でDMAT事務局長の小井土雄一さんは「生きるか死ぬかの災害医療を要する人がほとんどいなかった。ただ、慢性疾患の患者をバトンタッチするところがなかった」と話す。

 結果的に、3月22日までの11日間という異例の活動期間となり、その間に302チーム、約1500人が治療などに当たった。

 日本赤十字社も、震災当日から救護班の派遣を行った。医師、看護師、事務調整員の1班約6人が、原則として3泊4日で次の班と交代。4月26日時点で、累計571班、4000人以上の医師らが活動した。治療にあった患者数は約5万人にのぼる。都内の赤十字病院でも最も大きい日本赤十字社医療センター(東京都渋谷区)では、約100人の看護師が救護班に登録。そのひとり、松浦直子さんは地震発生当日に、福島市の県立医科大付属病院に派遣された。

「あまりの情報のなさに、愕然とした」。松浦さんは当初、支援のための情報が少なかったことに戸惑った。何をしたらいいのか。肝心の被害状況が分からず、最初の仕事は情報収集となった。そこで県内の病院に、どういった支援をしてほしいかの電話をかけ続けたという。

 津波に流され、救出された人の受け入れが決まった南相馬市立総合病院から応援の要請があった。屋根の上で約8時間救出を待っていたという60代の男性は低体温症を示していた。低体温を放置すれば死に至る。松浦さんら救護班は南相馬市立総合病院に駆け付け、男性を県立医科大に搬送。往復に約3時間かかった。翌12日の朝には、宮城県境の海沿いにあり、津波の被害が甚大だった新地町に向かった。

 日赤医療センターからの救護班は、宮城県石巻市にも入った。ここに派遣された佐藤直子さんは地震発生時、センター緩和ケア病棟の6階にいた。激しい揺れに、「これは救護班の出動が必要になる」と直感した。病棟で看護師長を務める佐藤さんが抜けても大丈夫かなど、職場の体制を確認。3月11日の午後5時ころ、仮設診療所をつくるためのテントなどを積んだトラック2台と四輪駆動車1台に看護師8人と医師2人、薬剤師、レントゲン技師の計12人が乗り込み、現地に向かった。携帯電話がつながらないため、途中、現地や東京の本部と連絡をとるのにもひと苦労だった。

 約13時間かけ、翌12日午前6時ごろ、石巻市内の石巻赤十字病院に到着。病院支援に当たった。高台に位置し難を逃れたこの病院は、市内で唯一の医療機関となり、避難してきていた人も大勢いた。

 災害や大事故発生時、限られた医療スタッフで対応するため、まず、患者はトリアージ(重症度によって優先順位を決めること)される。佐藤さんは午前中、トリアージされた「すぐに命の危険性のない患者」を担当。低体温症の患者が多く、水に浸かった患者にはガソリンの臭いが染みついていた。午後になると、自衛隊のヘリコプターが次々と救出者を運んでくる。佐藤さんらは避難者と傷病者を分けなければ病院がパンクすると、比較的被害の小さかった市内桃生地区に避難所をつくり、けがのない人を約160人収容した。
 ◇欠かせない避難者のケア

 発生直後の混乱が収まっても、問題は次々に噴出してきた。3月29日から日赤の救護班第8班として石巻市に入った長内佐斗子さんは、避難所の巡回診療に当たった。

 アリーナなどの施設がある石巻市河北総合センターでは、開業医らの奮闘もあり、避難者への医療が行き渡りつつあった。ただ、夜間を含め24時間診療の体制をつくるかどうかでは、地域の医療スタッフだけでは人手は足りず、入れ替わりでくる救護班とどうチームワークを図るのかが課題となった。公民館など小さな避難所までは看護師の手が回りきらない。さらに、日赤本部が救護班に割り当てたエリアと行政エリアがうまく重ならないことで、地元保健師らと情報が共有されず、巡回がスムーズにいかないこともあった。

 巡回先の7~8割は、高齢者。しかも糖尿病や高血圧などの持病のある人、自宅に取り残された寝たきりの人らが多く、長内さんは「看護師による継続的なケアや専門医への引き継ぎが必要だ」と痛感した。

 災害医療の場合、発生時はけがなどを免れても、避難を続ける間に体調を崩したりするケースが少なくない。看護師はそうした被災者1人ひとりとの会話のなかから、その人の症状を把握して、医師や薬剤師など、ほかの専門職につなぐチーム医療の要としての役割が重要になる。DMAT事務局長の小井土さんは「従来、医師と看護師が必ずセットで動いていたが、看護師が独自に派遣されたのは画期的なこと」と、看護師の活躍を指摘する。

 日本看護協会(本部・東京都渋谷区)は発生直後に東日本大災害対策本部を立ち上げ、「災害支援ナース」を派遣したのである。災害支援ナースとは、同協会が行う災害看護研修を受け、登録している看護師のこと。現在、登録者は全国に4803人。派遣にあたっては、個々の看護師が所属先から休暇を取って行くボランティアとなる。1班当たり20~30人くらいで、おおむね活動は3泊4日となる。1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに、同協会が派遣を始め、国内派遣は今回が4回目。3月21日から4月25日までに89班865人が、避難者の健康チェックや、発熱や嘔吐の症状がある人を隔離して感染防止を図るなどの活動に当たった。

 課題もある。同協会の小川忍常任理事は「ボランティアでは支援にも限界がある。本来、公的な枠組みで組織だって看護師を派遣するなどの仕組みがあるべきだ」と指摘する。
 ◇医療過疎に追い打ち

 東日本大震災の被災地の多くは、そもそも医師や看護師不足で「医療過疎」が加速していた地域だ。加えて、不採算医療を担ってきた公立病院(自治体病院)の再編・ネットワーク化や民間委譲を促す総務省の「公立病院改革ガイドライン」(07年12月)を実施していた。ひとことでいえば、公立病院の規模縮小である。

 冒頭の気仙沼市立病院は、地域の中核病院としての機能を維持してきた。しかし、気仙沼市と県境をはさんである岩手県の県立病院が無床診療所化するなどで規模縮小していたため、そこから流れてくる患者が増えていた。前気仙沼市議会議員の山崎睦子さんは「医師や看護師1人当たりの労働負荷が増したため、激務から定年を待たずに辞める看護師が続出していた」と、他病院のしわ寄せで医師や看護師不足が深刻化する悪循環を指摘する。

 日赤からの救護班や災害支援ナースなどが来てくれているうちは、まだ、看護師の不足感は薄まるだろう。しかし、そうした支援がずっと続くわけではない。北海道のある病院では、看護師が被災地に応援に行こうと願い出ると、病院側から「ただでさえ看護師不足なのに、行かせる余裕はない」と断られたという。

 全日本自治団体労働組合・衛生医療評議会の鈴木崇文事務局長は「公立病院ガイドラインによって、経営効率ばかりが重要視された。現場には余裕がなくなり、自治体病院であるはずなのに受け入れや職員の派遣が困難になっている。災害拠点病院に指定されている医療機関はせめて5%程度の余剰人員があってもいいのではないか。行政改革で人員を減らすだけの安上がりの医療では、ツケは国民に回り、住民の命は守れない」と訴える。

 慢性的な看護師不足で、全国の病院では病床削減などを余儀なくされている。遠からず、被災地は自力で地域医療を立て直さなければならない時がくるが、それも危うい状況なのだ。宮城県内のある病院は被災し、入院機能を果たせず診療所化した。その結果、「余剰人員が発生したと、看護師らの肩たたきが始まった」(病院関係者)と、おかしな状況が生まれている。岩手県医療労働組合連合会の鈴木哲夫書記長は、「沿岸部の病院では医師や看護師の確保がもともと困難だった。そのなかで踏ん張っている看護師の多くも家を流された。そうした看護師が今後、内陸部に移ってしまうと、地域医療の再建は絶望的になる」と、不足のうえに偏在という問題が深刻になることを訴える。
 ◇露呈した常に“有事”

 こうした被災地の問題は、他人事ではない。DMAT事務局長の小井土さんは「災害発生直後、患者をバトンタッチする看護師がいなかったため、避難所から移送・搬送中に死亡するという新たな“プリベンタブル・デス(避けられた災害死)”が発生してしまった。これは、ギリギリの人員でやってきた、医療過疎地が抱えていた問題が震災によって露呈したともいえる」と指摘する。

 日本医療労働組合連合会の田中千恵子中央執行委員長は「現在、就業している看護職(保健師、助産師、看護師、准看護師を総称)は全国で約140万人。もともと足りてはいない。つまり、病院のなかは平時でも“有事”そのもの。そこに震災があっては、とても現場は対応し切れない。受け入れ病院も野戦病院化している。地域医療の再生には医師や看護師を増やすことが不可欠」と、看護職200万人体制の必要性を唱える。

 超高齢化社会を迎えるなか、命をつなぐ職業である看護師の不足が続けば、医療現場は常に“有事”ということにもなりかねない。
 ◇DMAT

 1995年1月の阪神・淡路大震災では、平時の救急医療レベルの医療が受けられれば救命できたと考えられる「避けられた災害死」が500人存在した可能性が指摘された。この反省から、厚生労働省が2005年4月に立ち上げた災害派遣医療チームのこと。広域災害医療基幹施設である災害医療センター(東京都立川市)と兵庫県災害医療センター(神戸市)で、都道府県が指定する病院に所属する医師や看護師、業務調整員(事務職や薬剤師など)が一定の専門的トレーニングを受ける。3月10日時点で、全国443施設、846チームの計5265人の体制になっている。うち、看護師は約4割を占める。
 ◇災害拠点病院

 災害時に重症患者を受け入れるなど、厚生労働省の通知「災害時における初期救急医療体制の充実強化について」によって医療救護活動の中心的な役割を担う病院。現在、全国で609カ所の病院が指定されている。救命医療のための高度な診療機能がある、地域の医療機関への医療資機材の貸し出しができる、水や食料、医薬品の備蓄があるなどが指定の要件。阪神・淡路大震災を受けて厚生労働省が整備を進め、都道府県が指定している。

2011年5月9日

『看護崩壊』5刷決定

2011-05-09 22:10:58 | Weblog

 『看護崩壊』(アスキー新書)の5刷が決定しました。

 5月12日は看護の日。

 しつこく、問題を訴え続けたいと思います。


ZAITEN6月号

2011-05-04 22:08:04 | Weblog

 財界展望の月刊誌「ZAITEN」6月号(5月1日発売)

 5月12日は看護の日。

 今、出ているZAITENで、看護師特集が組まれました。
 そこで、看護労働の実態や制度の問題点について書いています。

http://www.zaiten.co.jp/zaiten/201106.shtml

特集:
看護師「200万人の悲鳴」


「過酷夜勤」に「長時間労働」
2万人の看護師が過労死の危機に晒されている
労働経済ジャーナリスト 小林美希
患者に対しては常に「白衣の天使」だが、背中の羽根はボロボロ、安息の場もない。
それでも使命感に駆られ羽ばたき続けるが、力尽きる天使は毎年10万人に及ぶ。こ
の天使たちを救うはずの「制度」には、肝心の現場の声が反映されているとはいえな
い。